柑橘パッショナート

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【読書感想文】”推し”という偶像崇拝のジレンマ「推し、燃ゆ」

 

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「推し」という偶像を考える

第164回芥川賞候補が発表されました。そのうちタイトルでぱっと目を引いたのが「推し、燃ゆ」でした。

一方で直木賞候補にノミネートされた人間にNEWS加藤シゲアキ氏がいるのを見てすごい世の中だなぁと感心したり、色んな人が世の中にはいるとしみじみさせられたばかりです。

ストーリーのあらすじをぱっと見てつい最近ちょっと2.5および声優界隈でざわついていた一件*1をふと思い出させるような書き出しだったこともあり手を出してみました。積読いっぱいあるとかそういうことを言ってはいけない

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 私が購入したのはKindleバージョン。

ということで、以下ネタバレをためらわずに書きなぐっておきます。

 

 

 

 

あらすじ

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」

この書き出しから始まる特徴ある物語です。

トンネルを抜けると……とか、メロスは激怒したとか吾輩は猫であるとか、インパクトの有る書き出しというのはたくさんありますが、本作も完全に最初の一行で「えっ」て思うところからスタートします。

この作品はアイドル上野真幸という存在に対して、主人公のあかりが「解釈」を続けていきながらアイドルを自らの背景としつつままならぬ人生と一緒に行きていくお話です。

作者の宇佐見りん氏は21歳という若さですが、心を突き刺すというか、引きつけるものがあります。

 

「上野真幸」と主人公「あかり」について

男女混合グループで、炎上も経験したことのある存在。かつては子役を経験し、現在はアイドル活動をしています。「芸能界」という世界を生き抜いている存在として、主人公のあかりに痛烈なイメージを与えてくれます。

真幸はあくまでも「板の上」「ステージの向こう」「テレビの向こう側」の存在として浮世離れした「遠いもの」として描かれています。

その対比があかりの友人成美と成美の推しとの関係になるのでしょうが、真幸とあかりはどこまでもファンとアイドル、プラトニック(消費者と商品等いろんな言い方はありますが……)を極めています。

また、あかり自身も彼に対してどのように考えるかというと「彼を通して作品を解釈したい」そして「彼自身を解釈したい」タイプの人間です。インターネットの海のなかでもしかしたら真幸くんは彼女のアカウントは知っているかもしれない(エゴサーチをする人間という描写があります)が、この人、イコール、あかりではない。そしてあかり自身も「それでいい」というスタンスです。

この二人(というか一方通行ともいえる)への関係を踏まえた上で、物語はきらびやかな世界と対比としての地に足がついた――悪く言うと重力で押しつぶされそうになりながらもがいているあかりの人生が描かれています。

 

「ファン」という立ち位置から見るあかり

「推し」というものについて人によってスタンスが明らかに違うのは明確で、それについてはあかり自身も語っています。

「ファン」というくくりでありながらもそのスタンスは千差万別です。

箱推しありきの個人でも推しがいるタイプなのか*2、はたまた個人推しの上でのグループなのかでも見方は違います。

また、ひたすら推しにお金をつぎ込むタイプの人(とりあえず金を出して応援したいというタイプは確実にいる)もいれば、「~担さんと繋がりたい」などのタグを駆使して推しをきっかけにいろんな人と知り合う人もいます。推し活専用のアカウントがあったとして、そこでコミュニケーションを取るかどうかでもやっぱり違う。推しにだけリプするよっていう人もいるだろうし、あえて推しはフォローしない(自分のことを知ってほしくないから)でブロックするタイプの人もいますね。多種多様。

その上で、主人公・あかりはどういうタイプかな、というと「作品も、人もまるごと解釈し続けること。推しの見る世界を見たかった。」とある通り、「メモ」したり、その目に収めたものを自分の中で咀嚼して、結論を結びつけていく「思考」していくタイプでしょう。

いわゆる「かっこいい!!かわいい!!何やっても最高!!」っていうタイプのファンと「これをこう思うから、きっとこのひとはこう思っている」というタイプのファンってあると思うんですけれど、個人的に「こういうタイプ!」っていう区切りというよりも其れはファンそのもののモチベーションとか、考えとかが濃淡としてグラデーションになっているんじゃないかなぁというイメージです。反復横跳びというか(笑)

あかりは発言を片っ端からログとして残してあるし、考察もためらわない。ここと、ここが結びついて、こうなったから、こうじゃないか?ということも考えていくタイプ。でも「かっこいい」「かわいい」もある。”好き!結婚したい!恋愛したい!”のリア恋*3ではないと明記してあるのが特徴かな。

こんなことを言うのも非常のおこがましいんですがが、正直あかりの考えていることが1%も分からない、というわけではないです。

何なら個人的にブンブン首を縦に振らざるを得ないところもたくさんあります。

残念ながら、私はあかりほどログを全部遡るというほどではないし(全部を追いかけているわけじゃないし)、メモを取り続けるタイプでもないけれど、こうしてブログをしていて、「こことここは結びついている」と考察するのは好きなタイプです。

 

あえて、自分の推し+作品考察でいうと彼個人の部分ならこのへんが挙げられます。 

良い子を書きすぎな自覚はあるんですが、正直良い子は自分が何度見てもやっぱりわからなかったし、推しである橋本くん自身が「意味わからん」っていったこともあって、戯曲も買って読んでみたり(なお英語なので「なるほど…?」とずっと首を傾げている)演出家や橋本くん自身の言葉を聞いて少しは考えがわかるかと、いろんな雑誌を読み漁りました。

主演である堤真一氏がどんなこと考えているのかも考えたし、小手伸也氏が「コメディにも見える」という言葉を放ったおかげで迷宮入りを果たした。どうやってもコメディには見えないしどうやってもシリアスじゃんどういう角度で……?とか、まぁとにかくめちゃくちゃ調べたしめちゃくちゃ考えました。

何のためにって「自分が、自分の感じたものについてどう思ってどういうように感じて”この舞台に対して、自分なりの言葉にしたい”」からなんですが、あかりの言う「推しの見ている世界」とはベクトルは違うかもしれないけれど【解釈】という言葉でまとめるとそのとおりだなと。

 

そうじゃなかったものでいえば、うっかり作り手サイドに拾っていただけたこともあります。

 (SNSの力ってすごいなと思った次第)

 

もちろん、あかりと自分は推している人が違います。

でも、そうやっていろんな形であかりが「自分の考える推し」を考えていて、自分の見えること、考えることを積み上げていくのも一つのスタンスとして私は「わかる……」とうなずく部分があります。

このブログを読んでくれている人の中に、1人は私の推し*4を知っている人、私が彼を応援していることを把握している人がいるだろうから、「ああ…」みたいな部分もあるでしょう。

 

あかりは明確に描写されてはいないけれど「人が当たり前に出来ることが出来ない」タイプの人間です。母や姉から勉強を教わっても、その次の日にはそれを全部忘れてしまうし、部屋だって片付かない。そのことに自分自身もとても悩んでいます。

だけど、その流れの中で、洗礼を受けたかのように自分自身を生かしてくれる「真幸」という存在に出会うわけです。

かつての自分が見たキラキラのピーターパン。ネバーランドに連れて行ってくれる存在。その時「大好きだったもの」がぶわっと流れ込んできただろうし、現実は変えられないけれど、その存在によってたくさんの「現実と非現実を乖離させてくれる」状態になります。

 

あかりは推し活*5を率先して行うし、それを”頑張っている”わけだけれど、周りからするとその感情が全く理解できないし、”趣味”の範囲じゃないの?と思ってしまう。このズレが大変顕著ですごく心に刺さる。

お姉ちゃんが勉強しているときに「自分だって推し活を頑張っている」ということを言った結果彼女を泣かせてしまいます。お姉ちゃん側からすれば「お前は好きなことばっかりやってるのに自分の努力と同列に物事を語るな」といいたくなる気持ちもわかります。が、あかりからすれば「本気で頑張っているという意味では同じなのにどうしてそこまで下げられなくてはならないんだ」という気持ちになります。

あかりにとっては「趣味」ではなくて「彼を推すということ=自分のアイデンティティの形成」で、お姉ちゃんの「勉強」と同等に見えるわけです。でも、お姉ちゃんや家族からは「それは趣味でしょ?」になってしまう。

ここにあるのは「やるべきこと」と「やりたいこと」の溝なわけですが、あかりにとっては「推す」という行為は「やるべきことで、やりたいこと」となっているからこその家族とのズレとなっていっている。

アイドル活動への応援という”業”、生きる手立て(背骨)であるという解釈を持ったあかりにとってみれば切り離すことは出来ないし、手放せばいいという発想はできない。

 

そういう周りの理解がない中で、自分自身はこの「やりたいこと」「やるべきこと」を抱えている。

鬼ほど”生きにくい”なかで、彼女は必死に”生きている”。

学生であった頃から、中退しても、働き口がなくても、それでも”生きている”。

なぜか、アイドルを応援するという「生きる手立て」があって、そのことでその重苦しい世界から解き放たれて「生きている!」という確信になるから。

 

だからこその、家族が推し事への理解がないこと・あかりの持っていることに対してジレンマ(家族間での関係悪化)がとてもつらかったです。でも「仕方ないじゃんできないから」といいきるあかりに対して母や姉がもう無理だと重荷で苦しんでいる描写はどちらに視点を寄せて、しんどいね、って言うかと聞かれたら自分は母・姉へ心を寄せてしまう部分があると思います。

あかりに対して味方――という言い方が正しいのか何ともいえないのですが、自分の頑張っていることへの肯定になる、出来ないというコンプレクスを払拭する「推し活」に対して理解を示してくれそうだったのは女性声優にリプライを送っていることで「生きがいとなっているであろう」と考える父親ですが、彼は彼女に対して理解は示しません。

これに関しては「推しごと」への無理解というよりも「擬態(自分自身は推しごとに対して周囲に知られたくない人たちがすること)」の結果なんじゃないかなと思います。一緒に住んでいないからこそでもあるでしょう。

だから、あの家でのあかりの理解者はいない。一方であかりはじゃあ母、姉、父に対して理解しているかといえばそうではない。人間だから当たり前ですがそのジレンマが見ていて本当にしんど……ええしんど……ってなってました。

でもじゃあ家族や友人にこのブログやってるからよろしくね!とか言えるかと言われたら1000%言えないし、言いたくないです。

「それはそれでこれはこれ」の世界だと思っているので、自分はどこの立ち位置に近くなっていくのだろう……って思うと父に類してしまうのかもしれないな、と思いました。流石にあそこで拒絶はしたくないし押し付けたくはないし「人の推しがある」ということを肯定していたいけれど……。

 

また、このことについてポロポロ感想を言っていた所、お世話になっているフォロワーさんから「会社の人がこれを読んでオレには理解できなかったというご感想をいただき、これもまた主人公(推す側)の辛さだと思いました。その切実さが世界の外側には全く響かないんですよね」というお話を頂戴して「そうだろうな~~~!!」と妙に納得するばかりで。

 

ぶっちゃけ「趣味」と言われたらそれっきりで、でも「趣味」より大きいな「なにか」なんだけれど、それを一言で説明することが出来ない。だから”概念”とか”宗教みたいなもん”とかいろんな言葉で色んな人がいろんな形で説明しようとするんですが、どれでもあってどれでもないんですよね……。

 

ファン、という言葉は「熱狂的な」を意味するファナティック(英: fanatic)の略から来ています。ファンという概念は前述したとおり様々で、例えば熱愛や結婚で「受け入れられなかったらファンじゃない」「その程度で上がる(降りる)ようならその程度の愛、ファンじゃない」という言葉をよくよくSNSの中で見かけます。

どの意見もそれぞれが「それぞれの」中にあるもので、もちろん”その人”にとっての正解になるでしょう。言い方が良ければ「各位の意見、個人的な意見」で、言い方が悪いと「お前の中ではそうなんだろう」になってしまうんですよね。

 

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よく使われる「おまそう」

*画像は作者が「使っていい」と仰っているのを使わせてもらってます*6

 

とにかくそれら全部を孕みながら、行き場のない感情をそれぞれいだきながら、いろんな考えを持ちながら「推している」なかだったからこその、淡々と日々が過ぎなら投票システムがあるためCDを積んだりしているわけです。

これについても、「同じCD何枚も買ってもしょうがなくない?」「しんどいなら買わなきゃ良いのに」という意見もめちゃくちゃわかるし一方で、「それでも推しに1位をとってほしい」「1位をとることで色んな人にこの歌を聞いて欲しい」という気持ちになる部分もあるんじゃないかなと思います。円盤何枚も買っても違うじゃんっていうのに対して特典が片っ端からあるんだよ!っていうのについては2次元も3次元も一緒というか乙女ゲーム業界でゲーム買いまくってた時代に「店舗特典」というものがあってめちゃくちゃ頭抱えながら複数ゲーム買ったこと有る身としては「もう手に入らないかもしれないから」という衝動はわかるものがあります……(笑)

何なら今まさに「持っているCD」に限定特典がついてくるっていうので心が揺らいでいる次第です。

ゆえに、自分の中で「境界線」を作るっていうことって大切で、でも「好き」だからこその難しさはやっぱりありますよね。はたからみると「なんでそんなに???」と理解されない。でも理解されなくても「そうしたい」と思ってしまう。

 

推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放したなにか、普段は生活のためにやりすごしているなにか、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身を感じようとした。

(本文より引用)

 

”推しは宗教”

これはスポーツチームを応援しているときにちょいちょい言われた言葉でもあります。*7

実際推しという存在を追うことに対しては、”偶像崇拝”の一つと変わらないんじゃないかなあともふんわり感じます。「アイドルなんて虚像だ」とV6三宅健さんの言葉でありますが、その虚像を作り上げた上で彼らは”人間”と”アイドル”というパフォーマンスの二ツを行ったり来たりしている。

このへんは朝井リョウ氏の「武道館」とか、アニメで見た「少年ハリウッド」でも感じた部分なんですけれど、彼ら/彼女らは生きているけれどどこか「かけ離れた」もので。だからこそ好きという人もいるし、そんな彼らが降りてきて欲しいというように願う人もいる。

第14話 -HOLLY STAGE FOR 50- 永遠のど真ん中

(「アイドル」とは、ということを考えさせられるアニメーション「少年ハリウッド」)

 

色んな意見があるなかで「推しが”人”になる」ということへのどうしようもない虚無感というか喪失感というのは、どこかできっとあるのだろうと感じました。

私も、推しと豪語するほどではなかったけれど、好きだった人が一般人になってTwitterも途中まではやっていたけれどやめてしまったことがあります。

「ジャニーズだった子がある日突然一般人として、告知もないままやめてしまった」という話をジャニーズJr.の頃からデビューしているとある人を応援している友人から「デビューするってことはある日突然にいなくなるっていうことはなくなる。だから、デビューしてほしかった」という言葉を教えてもらって(もちろんその方に華々しくご活躍されて欲しいという気持ちもあったとは思うけれど)自分はデビュー後の推したちしか知らないのですが*8例えばこれでいうとスポーツも、芸能も、それこそブロガーさんも、漫画家や絵師も、小説家も、何に対しても言えることなんじゃないかな……と。

 

「いつか終わりが来る」なんて誰もがそうなんでしょう。転換期は誰にだってくる。

けれど、その「終わり」が来てしまった時、例えば「アイドル」ではなくなったとき。いいようのない虚無感と葛藤しながら、折り合いをつけながらそれを「業」として「生きがい」としてきたからこその突如として取り上げられた気持ちの行き場はどこにたどり着くのだろう。そんなことを考えます。

 

”ピーターパン”と”アイドル”

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ネバーランドに住まうピーターパン

ピーターパンというのは本作にとってとても重要な役割なのですが、ふと「オシゴトガタリ」というブログ企画をしながら感じるのは【一緒に成長していきたい(その様子をみたい)】気持ちと、【変わらないもの】を持っているバランスというのを彼ら(推し)は持っているのだろうなぁと思います。

推しが推しではなくなる時って人によって様々で強制的にピリオドが打たれたあかりの場合は否応なしにの「芸能人ではない」からこそのジレンマがあります。このへんは以前トクサツガガガという漫画で「芸能人じゃなくなったときにプレゼント渡されたりとかしたらドン引きだろうが」っていうドルオタの友人から言われているのを見て「そりゃそうだ~~~~!!!!」ってなったんですが。

とにかく、「変化」と「不変」の間に彼らはいて。漫画家で言えば「絵柄が変わった/劣化した」と言われ、小説家でいえば「文体が変わった」とか「選ぶ題材が~」とかなるし、アイドルで言えば「歌」「トーク」「ビジュアル」とにかく、その変化をプラスになっていけるかどうかっていうのは推しに対する考え方もそれぞれの中で色々意見が出てくるわけで。安心して見られるのがいいのか、それとも一緒に成長していくのがいいのか、ハイクオリティが見たいのか。いろんなスタンスがあって、それゆえに推しも人によって千差万別で推していくグループも、人も同じだとしても考え方が違うなぁとしみじみするわけで。

その揺れ動きを感じながら、彼らは肩書のない「彼ら」としての要素と、「肩書を持つ彼ら」とを使い分けで(それは言い方が悪ければ自分たちもまた日常生活の中でしかりだと思いますが)生きているのだなぁと思います。

だから、ピーターパンではなくなった「大人」になった真幸くんを見て、魔法が解けるという形よりもあかりはじわじわと侵食してくる「変わらない」と「変わっていく」のジレンマから「変わった」(おとなになった)立ち位置に彼がいったことを知っていくのだろうなぁと。

不変っていわゆる「神」の領域だと思うんですよね。変わらない思いとか、変わらないで、という願いというか。でも同時に「変わっていく」のを見たいのって親が子を見守る成長記にも似ているし、推しを通してのサクセスストーリーを見たいようにも見えるし。

 

book.asahi.com

「推し、燃ゆ」について作者である宇佐見さんはインタビューでこのように答えています。

――印象的だったのは、推しが12歳の頃に演じたピーターパンの舞台のシーンでした。「大人になんかなりたくない」と劇中に何度も言います。それを観たあかりは「重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする」と受け取ります。

 ピーターパンは私自身、幼少期に観たことがありました。凄く心を奪われたというわけではないんですけど(笑)。作中でピーターパンは舞台上であかりにはできない自由さで飛んでいく。そこで「大人になりたくない」という台詞がストンと入ってきたんだと思います。

 重さを背負って大人になる。だからこそ「彼はもう大人になった」というのは、凄く当てはめられてしかりで。

「大人になるってどういうこと、外面よくして35をすぎた頃俺たちどんな顔かっこいい大人になれてるの?」という歌があります*9おとなになるってなんだろうっていうのは正直人間として永遠のテーマだと思います。大人になったと思うけれど子どもの頃と何も変わらない気持ちでいる部分もあるし、地続きで大人になっているから「変わったかんじがしない」のもしかりですし。

大人らしい大人ってなんだろう、と考えながら「求めていたものとは違うけれど、今は今でちゃんとやっている」のトニセンの「不惑」やA.B.C-Zの「Oh! Teacher」にも言えることで。

あかりを通して、ピーターパンであった「真幸」を見て、さらにそこからもう一度あかりに還った時彼女は真幸という「背骨」を失ってから自分のことを考えています。ピーターパンを失ってもなお、彼女の人生はどうしたって続いていく。

 

小説のラストの部分で描かれる「生きる」というのが非常に重くて、苦しくて、でもどこか解き放たれているみたいで、どうしようもない「ああ、しんどい」という言葉しか出てこない状態で。ぐるぐるするような小説でした。

 

救いがあるのか?とかそういう疑問が出てくるけれど、ソレに関してはどうというようにも取れるんですよね。だって「業」はもうないのだから。

その上で重たい体を引きずって、彼女はしんどい世界とともに呼吸していくのだろう。どこかの世界でありそうで、どこかの誰かの「他人事」だけれど、決して「まったくをもっての他人事」になりきれない擦り傷みたいなヒリヒリした部分が残る、そんな小説でした。

 

後ちょっと読んでて思ったけれどあかりのやっているブログは絶対アメブロだろうな!!!!!って思いました!(笑)

 

【令和3年1月20日追記】

芥川賞受賞されたということで、おめでとうございます。あらためて「推し」という言葉が浸透したということや、偶像崇拝の上での「推し」という解釈を改めて考えさせられる作品であり、心にこう…僅かにでも傷を作った作品でした。次回作も楽しみにしております。

 

【令和3年2月9日追記】

週刊はてなブログにて、当ブログをご紹介いただきました。

blog.hatenablog.com

他の方々のブログを読みながら、推しという存在がいることで自分の支えになったり、生きていく上の潤滑油になったりいろんな形を持っていてくれているのを感じました。

「推し」は概念。そんな言葉もありますが、自分の考える「推し」の解釈は、自分だからこそ築けるもので、おそらく「推し本人」とも大きく違っているでしょう。個性があるように、考え方も千差万別。そこにあるのは環境とかものの考え方とか、関わってきた人たちとの経験とか、蓄積されていくものが異なる「人」の部分と「こうであってほしい」という理想とのギャップやズレをうまく上手にかわしながら見つけていくこと。

だって推しが完全に自分の解釈1000%一致なら「予想外」で「これはこれで!」となるワクワクはないから、自分は「違うからこそ良いのだろう」という気持ちでいます。もちろんそこにも濃淡はあるのでしょうけれど(納得いかないこともオッケー!とは言わないです)

推しチーム(※自分の応援しているチームのこと)が100%自分の考えた夢のチームになって運営もうまくいって、なんてはならないでしょうし、現実なんてそんなものです。去年の順位?結果?知らない子ですね*10

うまくいかないこともあって、納得できないこともあって、悔しい思いもあって、でも同時にワクワクやハッピーもあって。自分の中の「推し」たちは、今日も彼らのパフォーマンスやエンタメが有るおかげで、私自身の活力の一つとして、エネルギーになってくれている。そんなふうに思うばかりです。

 

 

Twitterでもご紹介いただきましてありがとうございました!

*1:このひとは推しではないけれど、周囲に彼のキャラ、彼自身を「いいな」という友人たちがいたので、流石に色々思うところがあった。付き合っている女の子を殴っていたというすっぱ抜かれのあれ

*2:グループ全体が好きだけど、その中でもとびきりこの人が好き!っていう考え方

*3:ガチ恋とも言う。「自分が恋をする相手」というニュアンスに近い

*4:A.B.C-Z橋本良亮くん

*5:推しを応援する活動=推し活という

*6:日本橋ヨヲコ★少女ファイト17巻7/22発売 on Twitter: "この画像も使ってくれて全然かまわんのだけど、正直「解像度わる〜い」のが切なかったんでもうちょいマシなの置いとくからこっち使ってくれよな!んで本編だと世間的に使用されてるニュアンスじゃないから少女ファイト1巻よかったら読んでくれよな!… "

*7:ただまぁこれはこれで自分が言うならともかく外野に言われるとムッとするのは正直な所でもある。

*8:A.B.C-ZもV6もデビューしてから好きになった人なので……

*9:NEWS「weeeek」

*10:清水エスパルス 2020年度 Jリーグ でぐぐってください

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