トム・ストッパード氏の「良い子はみんなご褒美がもらえる」が絶賛東京都赤坂にある赤坂ACTシアターにて上演中です。
出演は堤真一氏に続き、A.B.C-Z橋本良亮氏、小手伸也氏、斉藤由貴氏、外山誠司氏、シム・ウンギョン氏などなど。
75分という時間の中にもかかわらず濃密な内容に見終わって言いようのないウーン…ウーン…という消化不良というべきなのか「この気持ちはいったいなんなんだ~~~!!!」というジレンマを良い意味で抱えていたので、折角もともと何度かいくからこそ、色々あーでもないこーでもないと毎回様々な友人たちと「これこうじゃない?」「いやこっちのケースもあり得るよ」という話で熱い討論を交わしています。
そのメモを含めて、自分の中で「こうじゃないか」「いやでもこっちもあり得るよね」というお話を初回の感想で作ったのが4月21日。初回を見た感想でした。
でも追いかければ追いかけるほどに「いやでもこれは…これはこっちでいいのかなあ」というあれでそれになって、やばいとんだ袋小路じゃないか……どうしようどうしようとクラリネットこわしちゃったみたいな気持ちなんですけれども。
折角なので自分の中で生まれた二回目以降の「これはどうなんだ」とか「こっちはどうなんだろう」という疑問をひたすら綴っていこうと思います。幸い何回かいく機会ができたから、その都度に感じた【違い】を自分の中でどっかに書き出しておくという意味合いです。
「前回と言ってることがえらく違っているじゃないの~」とか「結局、で、答えは!?」っていう部分とか色々色んな人の意見もあると思うんですが、まぁ見れば見るほど意見はぐるぐる変わっていくものなので、「なんかすごい叫んでるけど統合性がとれていないな」という気持ちでお願いします。
ちなみに「良い子はみんなご褒美がもらえる」のためにノートを作って思ったことを全部忘れないために書き出しているのですが、それでもやっぱり「何いってんだおめぇ」って読み直してDRAGONBALLの悟空とかみたいな口調に一人でなっているので、そんなもんです(笑)
※大体がネタバレになっていますので、できれば観劇後に御覧ください。
- 2度目の観劇で思ったこと
- 3度めの観劇で思ったこと
- Aの見解【”ロシア”という部分について】
- 【Bの見解】理系の友人より
- 【Cの見解】メンタル要素から考える友人より
- 【事例1】身近に起こり得る物語として見る
- 【事例2】自分の例を挙げてみる
- 現実とはなにか??
- 2・3回目を経て
2度目の観劇で思ったこと
初日の頃よりも流れが把握できている+戯曲も三回くらい読み直して「なんとなく」だけどセリフについて覚えるようになっている(できない英語を必死こいての訳なので、ぜんぜん違う可能性もある)ので、余裕をもって見ることができました。
あとはラストはやっぱり自分の記憶違いではなくて「なぜそれを変えたのか」「変えることで何を表したかったのか」という疑問点は色々また出てきました。
前回の宿題の回答(1)歌の話
歌のタイミングをまずは意識して把握したくて(何といっているか)チェックしてみました。自分で「何て翻訳してたっけー」ってわからなくなった部分の補正にはいります。一応初回に対しての自分の「宿題」として、今回の回答をしておこうかと。
一応「歌詞」(戯曲/自分なりの戯曲訳)で書いておきます。
- パパ、どこにいる(Papa,where've they put you?/パパ、彼らはあなたをどこに収容したの?)
→イワノフのとっちらかったお話をひたすら聞く苦痛を与えられて「パパ!!!(ココにいる人達やばい!!」ってなったあとに流れている - パパいう事聞いて 全部うまくいくから(Papa,don't be rigid!Everything can be all right!/パパ、意固地にならないで。全部うまくいくから)
→アレクサンドルがサーシャに向けてライム刻んでいる途中にて。サーシャ、悲しまないで~の流れのところ。大体一つの詩ごとにその歌が挟まれている。
(※rigid… 堅くて曲がらない、硬直した、こわばった、厳格な、厳重な、厳密な、精密な、堅苦しい、融通のきかない、厳しい) - パパ、言うこと聞いて 勇気出して嘘ついて(Papa,don't be rigid! Be brave and tell them lies!/パパ、意固地にならないで。勇敢になって彼らに嘘を言って)
→詩の最後。俺は死なない。死んでもお前の頭の中にいる。会いしているよ、っていうところ。ちなみにこの詩の最後に「if you're brave the best is yet」といっていて勇気を出すんだと話している。 - パパ、いい子になって 全部うまくいくから(Papa,don't be crazy! Everything can be all right!/パパ、狂わないで。全部うまくいくから)
→最後のシーン。この者たちを釈放(退院)させろっていう大佐の発言から。舞台と戯曲で大きく異なるところ。 - 全部うまくいくから(Everything can be all right!/全部うまくいくから)
→一番ラスト。壇上にはオーケストラとアレクサンドルのみ。壇上にあがったアレクサンドルの背中とふるタクトが見える状態。ここで終わる。
お芝居については前回よりとてもコミカル感があったのか、客席の笑いが出ている印象でした。堤さんの語りに耳を傾けて、別の方が指摘していたABC、DEFG、HIJKといった人間の区切り方を聞いていたりと、いろんなことをまた見ながら確認させてもらいました。
行き場のない「怒り」を孕みながら周りの言葉に耳を頑なに貸さないアレクサンドルと、聞いているけれど、やるけど、「ところでオレのオーケストラがな」って「お前こっちの話1ミクロンも聞いてなかったな??」感があるイワノフの対比とかも面白かったです。
考えたこと(1)矛盾した部分と、それに気づかないこと
また、舞台を見ながらふと「人間は矛盾した2つのことを同時にできる」というセリフを今回見ていて思い出しました。
森田剛氏主演の「ビニールの城」にて出てきた言葉です。
書いているテンションが若すぎて自分で視線をそらしたくなるわけですが……まぁそれは仕方ないと割り切っています。
一度に2つのことが出来る。
平和を願いながら戦争の準備をする。
これが作中にて出てきた言葉で、今回の「良い子はみんなご褒美がもらえる」でもそれを合わせてみても違和感が無いなって感じました。誰もが平和でいたい、誰もが「ご褒美」がもらえてもいい。でもじゃあ自分の願う「平和」に対して相手が持っているものは「敵意」なのかなあ。それを害する存在なのかなあ。とか。
アレクサンドルも医師も教師も、みんなそれぞれ「誰もが平和を願いながら、違うものに対して敵意を抱いている」部分がすごくあって、そりゃ平和にならないし、そりゃむき出しの敵意は相手にも敵意を抱かせるよねってなりました。だからこそ「戦争と平和」を読んでいるのかもしれない。
考えたこと(2)「トライアングル」という意味
作中で「三角形は」という話があったので、完全にそことかけている部分はあると感じました。
で、「トライアングルはバカでもできる」というような描写も作中であり(イワノフそれで自らトライアングルを持っているの自分がバカだと言っているようなものだけれどいいのだろうかと思わなくもないんですけれど)(まぁ一方で、病人~というセリフも出てきていて、彼自身「病人」という認識(アイアムクレイジー!的な意味で)があろうとなかろうと「どーでもいいわそんなん!!」っていうふうにも見えました。)
ちょうどトライアングルで検索をかけていたら面白い話がありました。
大晦日は、とある名門と言われるオーケストラのコンサートに行ったけど、トライアングルが重要な曲中でトライアングルが聴こえてこなくって「どういうことか?」と思っていたら、リハーサルの時から楽団員も指揮者も誰も、トライアングルがいなかったことに気づいていなかった、と…。
(クラシック音楽はなぜ「お金持ちで知的な趣味」なのか? | 黒坂岳央の"超"公式ブログ にあったコメントより)
トライアングルというとリストの「トライアングル協奏曲」とすら揶揄される曲(「ピアノ協奏曲第1番 」)があるらしくてキンコンカンコン鳴らしていると。
その上で、トライアングルの「形」に意識して見てみたんですけど。
トライアングルって「三角形だけど三角形じゃない」だよな~ってふと思いました。
捻じ曲げてはいるけど重ねていない。
でもってヒエラルキーっていうものが革命によって崩れたにもかかわらずまたどこかで「言わせない」という制圧がある。知らないところである、って思うと崩しきれてなさも感じられるんですよね。
加えて、トライアングルのルーツを調べたら「元来はトルコの軍隊の楽器であった」とありました。
トルコとロシアの関係に関してはご存知の通り露土戦争って言われるくらいでずっと重ねられてきて、なんだったら今もどうか、って言われるとあれでそれ。それを「ロシア」が舞台のものでやる。「誰でも弾けるが技術がある人が使うと響きが違う」とも称されてるのを見ていると思うのは「バカでもできる」「誰でもできる」である楽器であると同時に、”馬鹿と鋏は使いよう”ということわざを思い出します。
「Prise a fool, and you may make him useful.(馬鹿を誉めると 馬鹿は役に立つかもしれない)」っても海外で言われているのを思うと…こう…なんとも言えぬあれだな、と。
3度めの観劇で思ったこと
最初よりも変わっているなと思ったのは最後のセリフの仕方が変わったのかなって思いました。
これは私の記憶違いなのかなっても思っているのですが、指揮台に立って「全部うまくいくから…」の歌に対して「サーシャ…」といって振り上げて終わりだったような気がする…ってなっているんですが、でもこれは「戯曲」ではその過程(イワノフという男によって導かれるかのような流れ)なのか違うのかっていう部分があるわけです。
あとお芝居について全体的に皆さんの「場の空気」がどんどん変わっていくからなのか、初日のような全体的に張り詰めた「どう反応するかな」っていう探っている感じは薄く感じられました。
橋本君のイワノフは見てて「初日とだいぶ異なっている」ような感じを受けて、どちらかというとチャラさがあるというか。なんというか、同じ人物の、同じセリフにおいても「こんなに違ったように見えるようにお芝居ってなるんだな」っていうのを改めて感じさせられました。意図して「今日のイワノフはこんなかんじ!」ってなったのか、それとも彼のセンスで、その時時に「降りてくる」のか*1はわかりませんが、ただ言えるのは「同じイワノフなのに、別の人のように感じられた」ってことです。勿論それが「良い」「悪い」は人によっての解釈次第なんですが、舞台のお芝居、演劇ってやっぱり「映像」とは違って「生だからこそ」の空気だと思います。
脚本や演出家ができるのは直前までの「見送る瞬間」までで、そこから作られるのは「舞台装置×演者×スタッフ×お客さん」なのではないかなと。
演者のお一人である「医師」役の小手伸也さんは次のように語ります。
舞台「#良い子はみんなご褒美がもらえる」3日目無事終了!今日のお客様は結構笑ってました。ホントこの本、コンディション次第で受け取り方ガラリと変わりますからね(笑)…この人はどうだったのか?「#パウダーさん」ことものまね芸人 #JP さんです!堤さんのマネやって!#貝貝感謝やで #私のおじさん pic.twitter.com/Szu453Rhv5
— 小手伸也 (@KOTEshinya) April 22, 2019
演者のコンディションと、お客さんのコンディション。それぞれでどんなふうにでもなる。それが「生」だからこその怖さであり面白さではないでしょうか。
で、その上で見ていて思った疑問。
Question01/冒頭のライムについて
また、冒頭の「準備はいいか」というイワノフのセリフは戯曲にはなく、それに対してのアレクサンドルの「可愛いサーシャ 時間があるからお前にあてた詩を考えるよ」という下りも同時にないんですよね。
前回の記事にて全てに於いてライム*2が刻まれているという部分が着目点としてあったわけですが、それが冒頭部分では「存在していない」のはなぜなのだろうと思ったのと、また、その”ライム”がどうなのか?って聞かれると、そこに意識したときに「ぜ、全然ライム刻まれてないじゃないか~~!!」っていう部分もあったわけです。
他のライム刻まれたポエムに対して、英語→日本語にしたときに「意味合い」を重要視していてリズムを度外視しているのかもしれない。
じゃああそこの冒頭も英語→日本語になっているのだとしたらそれはどこから来たのだろう?って思っていました。ウィル・タケット氏が考えたのだろうか。それとも諸外国で演じられた舞台にて付加されたものなのだろうか……とか思ったり。
Question02/イワノフからのキスを省いた理由
お芝居の中で、アレクサンドルが「戦争と平和」を読む中でイワノフがそれを後ろから読むシーンがあります。
そこに対して「それでも戦争をしないとおっしゃるのなら!!!」という下りが出てきます。そのあとのもみ合いが有るわけですが、このシーンの違いみたいなのを感じました。
戯曲
Ivanov holds Alexander by the shoulders and there is a moment of suspense and imminent violence,then Ivanov kisses Alexander on both cheeks.
(Every Good Boy Deserves Favour より 27ページ目から引用)
Googleで直訳
イワノフは肩でアレクサンダーを保持し、サスペンスや切迫した暴力の瞬間があり、その後、イワノフは、アレクサンダーは両頬にキス。
Googleそういうところだぞ!!!意味がわっかんなくなっちゃってるじゃないか!!!(笑)
ということでまぁとりあえず自分なりに変えると「イワノフはアレクサンドルの肩を抱き、めっちゃ緊迫した空気になったよ!そのあとイワノフはアレクサンドルのほっぺにチューしたったで!」ってことかなってしました。
→頬のキスの意味を考えたんですけど、頬のキスって「親愛」「厚情」を意味するわけで。挨拶的なものでもあるわけで。
でもそれをするって何の意味があるのかなって考えた時「君に親愛の意がありますよ!」っていうのってアレクサンドルからすると”あんなメンタルやべーやつ!”ってなってるし直前に自分の本音読するしのメンタル揺さぶりにも見えますよね。
なんで外したのかってやっぱり「意味があって、意図して外している」だと思うんですけど(そういう「挨拶」「親愛」という描写が日本ではやっぱり希薄という意味も込みで、イワノフが同性愛的な意味を持つのではないかという印象も多分与えてしまうからかな、ともちょっと思った。だからこそ【外した】のかなとも思ったり)(でもそれだけではきっとないだろうし、ジャニーズだから外す、というのは「コインロッカーベイビーズ」を演じているからありえないと思う)
作中でなんどもサーシャに対して「キスして」と親子愛としてアレクサンドルは求めていますが、作中でそれが実現はされていません。されてないのにイワノフは頬にちゅーしてたらそりゃあアレクサンドルは「解せぬ」ってなるよね。求めているのはアレクサンドル・イワノフはアレクサンドル・イワノフであっても「自分の息子の」アレクサンドル・イワノフなんだよ!!っていう。
考えたいこと(1)「勇気」とは?
イワノフとアレクサンドルのもみ合い(戦争と平和)の部分で「勇気を出すんだ!今に君の番がやってくる。オーケストラはみんな自分のリュックの中に指揮棒を持っている」というイワノフのセリフがあります。
この言葉にどんな意味があるのかなあということもまぁ相変わらずわかっていなくてめちゃくちゃ引っかかっていて「なんでだ」「どうしてだ」とか色々思っているんですが、それをさて於いておくとして、この話のあとに、アレクサンドルが「勇気を出すんだ、サーシャ。キスして」とサーシャに語りかけている(※独り言。この部分もポエム。)のシーンがあります。
更に言えば、サーシャもまた、アレクサンドルにいいます。まずは歌で。「パパ、いう事聞いて。勇気出して嘘ついて」。そこから「奴らに嘘をついてよ」。
3人のアレクサンドル・イワノフが全員「勇気を出せ」という。これは偶然なのか必然なのか、恣意的なものなにか全くわかりませんが(基本わかってるものなんか1つもないと思うわけです)。
そもそもこの「歌」のサーシャは果たして「サーシャの意図」なのか「イメージとしてのサーシャ」なのかそれとも「はいここテストにでます重要箇所ですよ」っていうお知らせなのか。
まぁそれを言うと「全部うまくいくから」というのは登場人物が皆口にしていることではあるんですよね。
アレクサンドルは「この状況下を耐える」ことについて。ハンストをすることで、「全部うまくいく」(きっとうまくいく)ということを言っている。
先生は先生で「ぜぇんぶうまくいくわ」と諭すようにサーシャに言う。
サーシャはサーシャで言っているわけじゃなくて「歌」でいっている。果たして之はサーシャなのかなんなのかっていうのがまたやってくるんですけど。堂々巡りしている(笑)
考えたいこと(2)大佐の見る”ひと”
また、もう一つ発見というか、改めて気づいた点として、大佐が話をするシーンです。
イワノフに「アレクサンドル・イワノフ」と聞くシーン。
このシーンにおいて、大佐(先生)は、イワノフを見ながらもアレクサンドルの反応を確認するようにいいます。
「正常な人間が精神病棟に入れられると思うかね?」という問いに「そんなことないと思うよ。なんで?」とあっけらかんといったイワノフに対して、イワノフに結構!と笑いかけながらも、アレクサンドルにはなかなか高圧的な…というか威圧的な目や行動を取ります。
アレクサンドルに問いかけている時、彼はイワノフをほぼ見ません。
そのへんも含めるとやっぱり「イワノフ」という存在と「アレクサンドル」という存在を認識しているように私は思いました。
前回言語学である「意味論」を専門としていると医師のセリフの中にある彼が、アレクサンドルとイワノフを見るときに「あえて」逆にしたことで何を期待したのか。何を見たのか。
自分の中では「逆にすることでの錯覚を与える」のかな、とも思ったわけです。
で、じゃ「意味論」ってなんだろうって自分のなかで疑問を持って調べ始めたわけです。
「人間の社会的行為を出発点に,それを規定するパーソナリティ,行為の交換である相互作用や集団,行為の社会的様式としての文化を総合的にとらえる」
意味論の「言語学としての意味論」というのが大佐の専門です。「Semantics」と言われていますが、数学的な意味学もあるらしく、でも一方で「言語学者」という表現があったから多分之で間違いないでしょう。で、その中に出てきた興味深い大学のレジュメが出てきました。
広島国際学院大学の授業の一つで配られたレジュメ?なのかな。「シンボリック相互行為論の世界」という見出しで、内容を拝見できました。昨今のレジュメはこんなふうに見れるなんてありがたいぜ!!
で、その内容ですごい似たようなことが書いてあって、「じゃあこれも全部大佐の意図的なもの、”アレクサンドル・イワノフ”をあえて同室にした、あえて”彼らを同じ”にした、あえて”彼らに逆に質問をした”結果でどうなるのかって考えるとえっ…めっちゃ怖くない…?」ってなりました。
あと大佐は「礼は」って言うところで「Thank you」を言わせるっていうのを徹底していて、そのへんに関して「なにに対する」とは言っていないんですよね。そのうえでアレクサンドルは「どおも(戯曲ではThank you)」と言っているわけで。それって「アレクサンドルは屈したと思っていないかもしれないけれど、大佐の中では屈した」という感じになるのかもしれない。
結局見えない格子でアンバランスなようで取れたバランスの中、彼らは自由であろうとしてもまた別の枠で囚われている……って思ったら「エエ~~!!!?」ってなってました。しんどいがすぎる。フィルターが何枚も重ねられているかんじおっそろしい。
引っかかって調べたこと/「父と子」を読ませる教師の意図とは?
「父と子」(ツルゲーネフ)の話。父と子は自由主義の父親とリアリストじみた子どもがメインになる話。
ニヒリズムという言葉が出てくるわけで、これは19世紀ロシアの思想をしっかり如実に表にだしてきたっていう印象なんですが…。
19世紀ロシア。農奴解放令にともない、古い貴族文化は、新しい民主的文化に取って代わろうとしていた。その転期に、「ニヒリスト」なる者たちが台頭しはじめる―。旧世代と若者たちとのさまざまな議論を通して世代間の思想の相克を描きつつ、そこに新時代への曙光を見出さんとした。
まんがでしか読んでないタイプなんですが(笑)それでも触れてみると「もっと……もっとポジティブに…こうさあ…」ってなりつつ、勉学に対しトルストイが「学校つくったろ!!」ってなったりするのはこういった貴族と平民の格差社会によったものなのだろうと思うし、チェーホフやドストエフスキーの作品に対して「どうあがいても覆せない閉塞感」「耐えるしか無い」「耐えるしか無いけど耐えきれない」 の中にこのツルゲーネフもまたあるのかなと感じます。
父親の目線に対しての「自分たちが古い考えである」という部分と新しい部分、ニヒリズムニヒリストという部分の差異。ズレ。これを「サーシャ」に教えるっていうことの意義を考えます。
ニヒリストというのは、いかなる権威の前にも頭をさげぬ人、いかなる原理(プランシープ)も、たとえその原理がひとびとにどんなに尊敬されているものであっても、そのまま信条として受け入れぬ人をいうのです
(父と子より)
これの部分を伝えたかったのかな…?とも考えたり。前時代的な思想の時代遅れ感についてお前たちはこれだとサーシャに教えたかったのか。そのへんも気になるところです。
早く読めよ!!って話ですね。今読んでる本読み終えたら読んでみようかな(笑)
Aの見解【”ロシア”という部分について】
折角だし、色んな人の意見を聞いてみたくて今回色んな人と観劇しているのですがAさんは、「いや~~閉塞感!」とにこにこ清々しいほどお話していて面白かったんですけど(笑)
見終わってああでもないこうでもないと話していたら「橋本良亮くんはA.B.C-Zの他にどういうことがしたいんだろうね?風間俊介くんみたいにお芝居がしたいのかな」って聞かれて、正直そこらへんは私はまったくわからないし、自分が【何】をしたいのかなんていうのは橋本良亮君そのものに聞いてみないとわからないんじゃないかなと(笑)
ロシアという国の歴史から、Aさんは自分の考えを作り出していました。
大佐やべえな大佐~っていう話もしていましたが(わかる)、見ていて思い出すのはやっぱりロシア帝国がその後ソビエトになって、ソビエトから現在に変わるまでの流れを羅列していったら「じゃあどうしてそんなに自由で、信仰の自由も合って画期的だったはずのあの国がどうしてだめになった?」という疑問も有るわけです。
チェーホフの「ワーニャ伯父さん」「かもめ」「桜の園」から指摘された「彼ら主人公は身動きが取れないからこその閉塞感で耐えきれなくなっていった結果のあの話になっていたからソビエト時代は貴族社会に対しての批判として受け入れられたんじゃないだろうか。そしてトルストイの”戦争と平和”はナポレオンによるロシアに向けての頃に対しての話だから貴族社会の歴史小説面がある。だから読むなって言われたんじゃないだろうか」と話していて、ああなるほどなとも。
トルストイがソビエト時代に発禁になっているのかどうかはわからないのですが(調べても色んな意見が四散した)、彼は政治批判をしている人でも有るし「トルストイ主義」という考え方も確立した人だし(結果ロシア正教から破門にもなってるし)、そういう意味での人物像みたいなものに果たしてアレクサンドルが惹かれていったのか……とも私は聞いていて思ったんですが。
その人的には「あんなクソ長い話を黙々と読むなんてそりゃ頭おかしいんじゃねって言われるんじゃないだろうか」っていうフラットな言われ方で笑いました。いや長いけど。しかも疲れるけれど!(※ロシアで教科書とか宿題で読めって言われて「やだ~~~」っていう人が多いというのもインターネットで見かけた。ちなみに私は授業でやって「ヤダ~~~」「意味わからんわ~~」「もう無理~~」って頭抱えたのでめちゃくちゃ同意したくなったもんです)
Aから派生して、調べた「ニコライ・ブハーリン」について
法律作ったニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリンについてもちょっと話を聞いてて興味深かったです。結局ブハーリンはレーニンに認められて骨格を作っていったけれど最後は「射殺」させられてます。
ということで、私もブハーリンと、そして「モスクワ裁判(21人裁判)」について調べたら(英語できないけど調べたらこんなかんじで出てきた→Case of the Anti-Soviet "Bloc of Rightists and Trotskyites" - Wikipedia)まぁそれが公開裁判で、さらに言う慣れば今作における内容と結構似てるなあと感じたわけです。
ブハーリンについて紹介されている頁を見たら、「うわ~~~」「うわ~~~~」ってなったので更に追記。
1938年3月のモスクワ裁判でブハーリンは、自らの罪を認めればブハーリン自身を死刑にしないことと、妻子を助けるという約束のもとに有罪を認める。
しかし、約束は守られること無く、ブハーリンは「ドイツ、日本、ポーランドの手先」として、1938年3月15日に銃殺された。49歳だった。
まことに ろしあのころしやおそろしあ。
この辺を調べながら、Aさんが「自由で、先進的で、宇宙工学に強くて…という彼らがそれでもなお閉塞感がある」という指摘を見て今作のお芝居を「ロシア」という部分で注視したらやってることが「うわあ…(顔覆い)」でした。
死の直前には、スターリンへ宛てた一文を残している。そこには、スターリンの政権掌握以降ほとんどの人が使うのを避けていたかつての愛称を用いて
”コーバよ、なぜ私の死が必要なのか?”
と記している
(同上)
う、うわ~~(n回目)もうそういうところ…そういうところ…。
Aさんの着眼点でロシアという国(ソビエト連邦という視点)で見たら、もうなんだからそうやって「反乱分子は精神的におかしい」という追い込み方をしているのは今もそう変わらないし、オッソロシイ…となりました。
その目線でみたら、「パパ嘘をついて」という下りに対して意地でもいったるか!!ってなったアレクサンドルの視点は「ブハーリン」との類似性も感じるし、認めたことで最終的に射殺されるし、一方で認めなくてもあのまま「病室」にて死ぬ訳にはいかないから外に出して厄介払いしたとして、何かの方法でそれこそ暗殺されていたとしてもおかしくないし憔悴しきったはての死でもおかしくないなと。
ぼんやりと思うのは何を思うと自由だけど、ご丁寧に人の見えるところで言うのなくない~~?っていうのとかSNS上での揉め事でよくある話なんですけ、それもまた「主観」に過ぎないよなっていう話。
【Bの見解】理系の友人より
初日を一緒に入った友人Bからの意見をもう一度聞いて「やっぱりどう思うのか知りたい」という話をしました。
まずは橋本くんの感想について「橋本君はとてもセンスがある人だと思う。ストレートでもっと見たい。いろんな演出家、いろんな本に触れて、役者として引き出しを増やしてほしい。不定期に頭の中でオーケストラが演奏するという誰がどう見てもおかしいという役柄をとても似合っていたからこそ、今後もお芝居色々続けてもらえたら嬉しいなあ」ということでした。
また、彼女はとても蟹江先生からの小手伸也さん楽しみにしている人なので(私も好き)(エグゼイドもよろしく頼む)、そういった点についても色々お話しました。
この友人Bは「解釈はどんなものがあってもいい、どんなディスカッションをしてもいい、キャラクターをデフォルメにせず観客にあくまで自由に想像させること考えさせることを目的にしているのではないか」というふうに話していて、いや本当にそうだとしたら我々はすごく手のひらの上で踊らされているなあと感じるわけです。
ちなみにこの友人Bは見終わって第一声合流してから「むずっ」と真顔でした。めっちゃ分かる。わかる。
大体の考えについては初回に一緒に見ていたからこそああでもないこうでもないと言ってしまったという(笑)
また、ふとした疑問の「指揮者以外をマエストロと呼ぶのか?」と言う話が上がりました。 イワノフがアレクサンドルに呼びかけ話をする時、「簡単だよ、マエストロ?」というシーンがあり、なぜそうなったのか。ここのシーンに関しては楽器が弾けないアレクサンドルに音楽は簡単であると教えていたものだと記憶しているので皮肉なのかな、とも思ったのですが意味がないことはないので掘り下げて考えでたら楽しいだろうなと。 これに関して、私は「楽器を弾かない」と否定を続けていて(冒頭にも出来たら言ってる、と言う話をしている)イワノフの判断で「楽器を弾かない→指揮者」と言うように見たのかもしれないなと。 だからこそ終盤の「いまに君の番が来る、勇気を出すんだ!」になったのかな、なんて考察しています。
【Cの見解】メンタル要素から考える友人より
また、同日に観劇していた友人Cから話を聞いてみたのですが、彼女はまず第一声が「怖かった」でした。
何が怖かった?と聞いてみると彼女自信がメンタルヘルスを受けているタイプのお人なので、医療的…というか精神的な面の”患者“としてのお話を聞いてみました。
「自分が患者だった部分があるからこそ、いろんなことを調べていた時期があってそのときに 、医師のあの”オーケストラはあるとも!”というあの肯定の仕方はだめ、やばい」と話していました。
そのへんは私は学がないので聞いていくしかできなかったのですが、できるだけああいうタイプ(橋本くんのイワノフのようなタイプ)は、「患者に寄り添って、全面的肯定も全面的否定もだめで、少しずついかないと、治らない」ということでした。
脳内でオーケストラがいると思い込んでいるイワノフにとって、「精神科医」がすべて自分を肯定する”あなたは患者、私は医師”である上で肯定してしまうのは精神構造のスペシャリストから妄想を肯定されることで「絶対」に変わる。それは己の妄想を捉えようとしていた矢先で「お前があっていたよ」っていわれることで、もう彼は「戻れない」ようにも見える。
彼女と話していたのは「うみねこのなく頃に」だよねっていうお話をしていまして(赤文字・青文字)「あのなんていうか投げっぱなし感」「わかる」でした。オーケストラは「あ」る。「な」い。そのうえで現実がどれかなんていうのが不明瞭であるということ。どれであっても「その人にとっての正義」なんですよね。
イワノフとアレクサンドル、そしてサーシャ、医師、教師。
彼らは彼ら全員が自分のなかの「現実」と「常識」を持っている。サーシャは比較的イノセント、ピュアで「なぜなぜどうして」「どうしてそういうものなの?」という疑問を持っています。幾何学が嫌、オーケストラなんかやりたくない(→そうあるべき、そういう役割をまっとうしろ、という考え)がそれを語っています。
でも彼らは自分たちの「正義」「常識」「現実」が違う。
そのうえでCさんの考えたのは次の通り。
脳内にオーケストラがいるというイワノフ、国が正気の人間を精神病院に入院させると主張したアレクサンドル、この両者を”精神異常”だとするソビエト軍と、それに付随する精神科医。
物語の根底はこの3つであると彼女は考察します。
また、リアルでもさもありなんですが、万人共通の”常識”という現実が前提として存在している一方で、その中で暮らしている人間はそれぞれ主観があるので「全員の現実」は実は食い違っているんではないかというのが物語で一貫して語られていると感じる。
イメージとしては「スプラトゥーンだよね!!」ってお話されていたのがすごいわかりやすかった。
真っ白な状況に2つのチームがいろんな色を塗りたくっていく。そこが白だったことはわからなくなる。イメージするとなるほど確かに。
じゃあその常識がズレている中での「良い子」って何だろうとなるわけです。
Cさんは本作において「バベルの塔」を思い出したそうです。
全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。
そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。
主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。
主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
— 「創世記」11章1-9節 より
バベルの塔は誰もがかつて同じ言葉を話していてコミュニケーションができていた中で、地上に済む人間たちが天にいこうと塔を立てていった結果主の逆鱗に触れて全治の言葉を見出し、彼らが意思疎通ができなくなったやつですね。
そう言われて確かにそうだなっても思います。同じだと思っていたけれど同じ景色を見ていても感じるものはそれぞれ。「育ってきた環境は違うから~」ってSMAPもいっていたそれです。言語にしたらなおさらでしょう。
この上でCさんの
- スピリチュアル観点で世界は7層に分かれているという考え
- シュレディンガーの猫(ネコが生きているか死んでいるのかなんてあけてみないとわからない)
- 5億年ボタン*3
という事象を踏まえての考えを教えてくれなるほどなあ…全然見かたが違う…!とすごい面白かったです。
あとはもう何度も言うけど「なぜ我々は数年を経てこんな…こう…言いよどむもやもやを…これ知ってる…何年か前にうみねこでやった…」「わかる…わかるよ…」という会話を繰り広げていました。一つの事実に於いて確実な事象とはなにかというあれでそれ。
また、Cさんとのこうじゃないかああじゃないかなディスカッションで出てきた発想もありした。
それが「舞台ラストでアレクサンドルが指揮棒もって、橋本くんのイワノフと同じことしだしたのって大佐にオーケストラが聞こえるアレクサンドル・イワノフとして定義づけされたから?」です。
これってその前の「オーケストラはいないんだよ」「オーケストラはあるとも!!」という精神科医って絶対的支配者に定義されたことによりイワノフにとってオーケストラは「やっぱある!!」って肯定になったことからもう覆せなくなったのと同じで、アレクサンドルにとってみれば権力者である軍人の大佐からの「お前はイワノフだ」という部分のやり取りでそう思ってしまったのもありうるかなと。
そこからの「礼は」で「どうも」と返した以上、Aに対しAと言うような従いかたをしているように見える。
アレクサンドルは政治犯だけど、支配者である大佐に「お前の現実はこっちだ!」とイワノフを上書きされたからこそイワノフに寄った?のかもしれない。その後に礼は、といわれてどうも、って言ってる(戯曲はthank you)のは歪んでいると叫んでいた国家に向けたものになるわけで、それなら何で答えてしまったんだろう?になる。皮肉なニヒリズムだとしても、あの一手はやっちまったぁー感がすごくありますよね。
少年、青年、壮年(ないしは中年)のアレクサンドル・イワノフに分け、どこまでもアレクサンドル・イワノフは対比に描いたことで、サーシャというアレクサンドル・イワノフがどちらにいくかの枝分かれにも感じられました。
また、あの「現実」はどの現実、誰から見た誰のフィルターをかけたリアルなのだろうといいあ疑問も生じました。
いつからそれがチェス盤の出来事だと思っていた、ではないですが、この展開(舞台)は誰かの目線からのものという可能性は??という疑問。
やっぱりうみねこのなく頃にを思い出させました。
アレクサンドルもイワノフも最終的には「ありがとう」といい、最終的には軍による求めている答えを認めてしまっている、それは全部誰の意向って「大佐」(ないしはその後ろの国家)なわけで…彼らもまた、意のままに操られていたとしたら。見えてようと見えてなかろうとどうでも良くで、嘘でもなんでも「そう」といえ、の医師につながっていく。医師の発言に嘘でも飲んだと言わないあれは自分がやばいと思うイワノフに与えたとまでして意固地だったのに、意図しない形、そんなつもりなかったのにいう羽目になった。
そもそもロジンスキー大佐が舞台に上がるのは終盤で、なぜじゃあ序盤からあんなに名前があったのに出なかった?となるわけです。
この状況を俯瞰してみていた、「観客」という目で同じように神としてこのサンプルケースを見ていた(いわゆる盤上の展開を眺めるベアトリーチェ)ようにも感じます。客席から来たことは「客」という目線なのだろうか、とも。医師、教師、サーシャが最後降りていくのは「アレクサンドル・イワノフ」という二人の男があり、アレクサンドルの精神面で彼はオーケストラが聞こえるようになってしまったというオチからの振り返りをみんなでしているという可能性は?とも感じていて、なぜそれをするのかって言われると「意味論」をするロジンスキーがいるからかなと。
何故大佐を大佐にしたのか。例えばこれか病院絶対的権力者である「院長」でもよかった。でもしなかった。軍の人間だった。しかも民間病院なのに。 軍人には逆らえないというソビエトという国家故なのだろうか。それを恐れる医師(面倒ごとを避けたい)かなあとも。
友人より「軍人にしたのって客側(神視点の私たち)に対してこの役柄は絶対的権力の持ち主って示したかったのではないか」 という発言により神(観客)と人々(登場人物)に示唆したいことは違うのではないか?という考えになりました。
いつからこの事象が現実だと思っていた……?的な…?なにそれ鏡花水月じゃん*4
「もう確定された事象として固定化されたからというか、いくつも存在してた世界が一つ残して消えました、可能性の枝分かれの一つの消滅的発想として大佐がこうだからこうなった、という事象になった」という見解もありかな、というのがCさんの意見。
経験と言葉から意味合いを推察する認知意味論の意味合いが強かったと仮定したら、そこにいくであろう発想は「(物語の外側にいる)大佐の記録」としてもありじゃないですかね?
この点に関し、京極夏彦氏の百鬼夜行シリーズも認知意味論の世界観であると彼女は例をあげました。
「何人もの人間が不可解な事象によって(例えば密室から遺体が忽然と消失する、20ヶ月もの間嬰児が生まれてこない)これらは怪異の仕業だと思ってしまった」という点や、それこそ物語は関口くん視点だからこそ発生した怪異もあるわけです。
「実際にはいないとされている怪異が何人もの人間の認識によって生み出されたりっていう概念化する。 怪異がいると思い込んでる人間のフィルター取り除いたら全く別の現実が見えてくる」という点はそれこそオーケストラが聞こえている登場人物とそうではない人の区切りみたいなのはありえるわけです。
この辺に関して、私はポアロの「アクロイド殺し」における叙述トリックの1もしかりだと思うんですよね。叙述トリックからすると「何があなたにとっての真実か」でもあって。今作がどこ目線なのか描いていないからこそ誰もありうるわけです。
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また、同様の「そうだと思いこんでいるけれど実際はそうではなく人間による、不可思議でも何でもない事象」といえばCさんの派生になりますが「奇跡」という風に人は捉えるけれどそれを信じていない人からすると「偶然」となる、いわゆる「神」という存在になりますね。
その理論で言えばみんな大好き横溝正史八つ墓村の祟りもしかり。
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そうだと「思い込む」または他人に「そうだと言われて定義されることによって自分にとって確定事項になってしまう」ことでおこる事象というのは果たして「誰目線」なのかっていうので置き換えて全く関係のない第三者になった結果、そこに至る考えというのはまた全然ものが(当事者たちからすると)「違う」ものになっているケースもさもありなんですよね。
【事例1】身近に起こり得る物語として見る
自分たちにとっての「リアル」はあったとして、それが相手にとっての「リアル」であるかどうかはわかりません。
例えば、Dという人間とEという人間がいて、二人が揉めたとしましょう。
このDという人間をあまり良く思わないEの友人G,Fは「あの人だったらさもありなん」と言う部分もある。
また逆にDのことを友人だと思っている・かつEのことを知らないH,Iは「そんなこというなんてありえない!Dさんかわいそう!!」ってなる。
一方で逆にEのことしか知らずDのことを知らないJからすると「Dやべえな、クソじゃん」ってなる。
ただこれって「D」という人間の主観を聞いているのか「E」という人間の主観を聞いてるのかで大きく異なってくると思います。アイデンティティの問題。
L,M,PというDとE、どちらともそこまで仲良くなくて「お互いの意見」を聞いた上の人だとそれぞれの意見がまた変わってくる。
Eの友人のSという人は「まぁ二人が揉めたとしても私は特別揉めたわけじゃないしね」と中立になる場合もある。それぞれがそれぞれで違うと思います。例えばこのSがDさんと揉めたら、最初にあがったG,Fと同じくとしてそちらの意見になるかもしれないし、今度は自分が「当事者」としてEさんとはまた違った見かたになるのかもしれない。
人間関係の、とても普遍的・身近な話としてとてもありえる「同じ出来事が起きて、見ている人間が違うだけでこんなにも食い違う」っていうのなんですよね。
それは芥川龍之介の「薮の中」の展開にまったく似ていると思います。
真相は「薮の中」で、誰にもわからない。誰が正しいというわけでもなく、間違っているわけでもない。
【事例2】自分の例を挙げてみる
ちょっとこれ自分に起きた「ズレ」というか、出来事なんですけれど、過去話も含めてつらつらと。このブログは伊於さん(@io_xxxx)にアイコンを描いていただいております。
で、このアイコンを作るにあたって、色々ディスカッションを重ねさせていただき「じゃあサンプルラフ画で2こ描くからどっちがいいか選んでおくれ~」と言われました。
で、そのラフ画を頂いて「どっちも好きで決められない…」となった時、絵を描く人(仮にOさんとしましょう)に「これどっちがいいのかな、どっちがそれっぽい?絵師だからこその意見的にどっちか教えてほしい」と聞いたんですね。英語で言えばWhich do you like ~になるわけです。求めているのは(1)か(2)という答え。
その際に「えwwどっちも似てないwwこの人が前に描いてたブログのイラストのほうが似てるww」と言われました。
彼女の指した私のデフォルメがこちらです。いやこれはこれで好きなんですけどね!!でもそれなら最初の段階で「このアイコンのイメージで」って話をするし、ある程度方向性を決めた上での絞り込みの話だったんですね。
Oさんが悪意はないと思っていても私からすると、「依頼している」ということを前提に話しているし(金銭面の発生についても伝えておいたことでもある)、「依頼料支払って仕事として話を展開している、しかも”(1)(2)のどっちがいい”と聞いている。そこに対してどっちも違うというのは話として求めていない」となるわけです。
結局これって私という人間とOさんの見ているものが違うからできた事象で、一つの「絵」があり、それについて見るポイントが違ったから(バックグラウンド込みで)の出来事であったと思います。
- 私→Oさん
「Oさんに”絵を描く人として、及び「仕事の依頼」を受けたと仮定してもらい” (1)と(2)のほうがより《類似》しているか」という目で聞いている(返答されるなら1か2だと思っている/期待している) - Oさん→私
「甘夏に聞かれたことを”友人として”(1)も(2)も似てない、(3)がいいと答えている」
なぜそう思うのかと言うと、絵を描く人にとって「全く違う、こっちにして」と方向性を決めていたにもかかわらず変更する、すなわちリテイクどころか0からのやり直しが面倒なことは彼女も「絵を描く人」として知っていると思うんですよね。だから多分見ている点が違った。
最終的にこの件に関しては私が「それは違うんじゃない?」とはっきりと言葉にする形で幕を閉じたのですが。この件から学べることは、人間というのは「見る世界が違う」からこその「コミュニケーション(=己の言葉を発信すること、相手の言葉を聞くということ)」が必要になってくるのではないだろうか、ということ。
で、なんでこんな自分で思い出すと「うわ~揉めたな~」ってなるようなものを挙げたかって言うとその出来事を猛烈に今回の舞台を思い返し、そのやり取りをしたときに「あの一件今思うとそうだったんじゃない?!」ってなったからです(笑)私の伝達能力不足かもしれないし、彼女の傾聴力がなかったのかもしれない。そのへんは相互によって見解は大きく異なります。
意思の疎通っていうのはお互いがお互いにおける「相手に対して聞く」「相手に対して自分を話す」のバランスで成り立つので、これを言ったOさんにとっては「あのときの自分は間違っていなかった」と思う自分の感性を主に今話し直したらそうなるかもしれないし、そこは「見ているものが違う」になるのかな、という結論です。
現実とはなにか??
私は 現実=「事象」+「主観」なんじゃないかな、と今思っています。
主観とは「常識」「思考」でもいい。そこに付随される自分の中にあるアイデンティティ。例えば「ジャニーズは顔がいい」「バイプレーヤーはコミカルもできる」とかにだって置き換えることはできる。
そのアイデンティティを持った上でどのように判別するのか、どのようにあるのか――……そしてその答えは「人によって当たり前にアタリマエのことだけどぜんぜん違うぞ!!」っていうのを今作の彼らのやり取りで感じました。
みんな自分の中の「正義」「常識」があって、その常識を守っての「良い子」でいたい、のかなと。
2・3回目を経て
ABCさんと(この書き方だとあれですね/笑)それぞれ見てそれぞれの意見を聞いてみたり話してみたりしたのですが、全員着眼点が違って非常に面白かったです。
ただ、ABCさんは共通して「大佐のあれは”ウッカリ”」(ミス)と言っていて、私は「あれは敢えてだろう」ととったんですね。そこも含めて見るポイントが違うから誰一人として「正解」も「間違い」もない。
同じ作品を見ているのにこうも違うというのはあの作品においての「何が共通認識である”同じ”なのか」が全然わからないっていうのもポイントなのではないだろうか…というふうにも思います。
また、本作において小手さんは「コメディという見かたもできる」というふうに話していました。
「予定調和の不協和音」…なるほど!信じたい人、信じたくない人、信じ込ませたい人、信じられないことを信じてる人、そのディスコミュニケーションって実は傍目には「笑える」バカバカしさを孕んでる。その視点で見ればこの作品は完全に「コメディ」です😉#良い子はみんなご褒美がもらえる #EGBDF2019 https://t.co/nbgWDNLHgS
— 小手伸也 (@KOTEshinya) April 23, 2019
私は本作に於いて「笑うポイントどこだ!?」ってわからんかったタイプの人なのですが、舞台中、数カ所に渡り確かにクスクス笑い声が出て(それは悪いことではないと思います)「どこだどこだ」っていう気持ちになったので、このように言われているのを見ると「じゃあそういう見かたで見てみようかな」なんても思います。
全員が自分の意見と違う。同じ舞台を見ているのに。
それって本作における「出来事が合って、それに対して自分の考えを捻じ曲げることなくコミュニケーションというものではなく己の主張を続けている」という一つの仮定にも似ている気がしました。
コメディと取れる人もいれば、シリアスと取る人もいる、ソビエトという国の閉塞感を感じる人もいれば、メンタル的な部分を取る人もいる。俳優を見る人もいれば、バックグラウンドを探ろうとする人も出てくる。みんな違う。
本当にどんな形でも見かたができる作品で、その都度「私こういうふうに見た!」「私こっち~!」「あ~~それもあり~~」ってなれるのってすごい楽しい舞台だなと思います(笑)
今作における重要なのは作品における彼らは「見かたが」「考え方が」「ぜんぜん違う」上で、その結果が会話のドッジボールというか、常識の「オレはこう思う!!!」「私はこう思う!!!」の投げ飛ばし合いというか、自分自身を変えるのではなく相手に合わせろっていう感じが見えるからこその、作品が終わってからの「聞く力」として反面教師に(笑)するのもありだなって思いました。
意見を聞いて「なるほどこの人の意見はこうなのね、ところで私の意見はこうなんだけど、こうなったらこうならない?」「わ、わかる~~じゃあこれはどうかな?」「うわ~~~~しんど~~これは~?」「え~それはなくない?こっちは?」「ええっそれもどうなん?!」ってやつです。突然の頭が悪い会話になった(笑)
それをソビエトという実にわかりやすい「閉塞感」「言論弾圧」があって、外側から見たら「なんでそれをよしとするんだろう?」という国をモチーフにすることで、「でも内側の彼らからしたって別に一枚岩ではなくそれぞれにそれぞれの主観を持ち、事象に対して齟齬が生まれる」ということを表しているのかなと感じました。
まぁ何にしても見て、「なるほどわからん!!!!」ってなりつつも、手繰り寄せたり考えたり、ある日突然天啓のように「待って今めっちゃ天才的なこと思いついたような気がする!!!!!みんな聞いて!!!」ってなることもあり得る。
そのへんはSMAPが散々言ってるけど「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」だし、「もともと何処吹く他人だから価値観はイナメナイ」*5なのかなーって。それを許せるか少しのズレも許せないそんな人間になってたよ*6になるのかもそれぞれかなと。
見えているものを「なんでお前には見えないの?そんなこともわからないの?」となるケースもあるし(自分の知識とか)「なんでそんな他人に私の考えを押し付けられなきゃいけねんだよ!!!」って言うケースもあるわけで。
だからこそ、誰にしたってありえる話で、またどういうふうに見ても「面白い」作品だなと思います。見る人によって、見るコンディションでぜんぜん異なる。そういう意味でもう少し、もうちょっと、いろんな形でいろんな思考を持って見ることができたら……と思いたくなるような、そんな気持ちになります。
よくTwitterで回ってくる「お前の中ではそうなんだろう、お前の中ではな」っていう煽り画像あるじゃないですか。これ二次元界隈だけなんでしょうか。
まぁ通称「おまそう」って言われてて、結構な頻度でネタになっているテンプレート的な部分があるんですけれど*7 思い込みが激しい人や的外れな意見を述べる者に対する煽りとして使われていますが、まぁ一方で「こいつの考えはこう」という多様性の意見としてはめっちゃ今回の「それ」に近いなって思うんですよね。
まぁ最終的に私はこの舞台2・3回目に対して何を思うかっていうと、
サンは森で、私はタタラ場で生きよう。共に生きよう。会いに行くよヤックルに乗って。
っていう、もののけ姫の終盤のアシタカのめちゃくちゃ名台詞の否定はしないから共存していこうっていう気持ち大事…っていう、なんかこう…そんな心持ちになりました。
ってことで、前回より短いですが相変わらず長い記事になりましたね(笑)次回はもうちょいオーケストラについても考えられたらいいなって感じるばかりです。
*1:コインロッカー・ベイビーズでは結構それが「舞台に立ってやる瞬間に「ハシ」が決まる」ということを彼は話していました
*2:rhyme。韻を踏む
*3:5億年ボタン - アニヲタWiki(仮) - アットウィキ
*5:「セロリ」
*6:B'z「LOVE PHANTOM」
*7:お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではなとは (オマエガソウオモウンナラソウナンダロウオマエンナカデハナとは) [単語記事] - ニコニコ大百科