2019/05/12、大阪のフェスティバルホールで「良い子はみんなご褒美がもらえる」の大千秋楽がありました。
かくいう私も最後の一瞬までをできれば噛み締めたくて、チケットを握りしめて遠征をしてきました。
まず、平成最後および令和はじめての舞台として赤坂ACTシアターおよびフェスティバルホールでたくさんの「考える」を与えてくださった皆さんに大きな感謝を。
そして見終えた今。
「で、私は今何を考えるのだろう」と振り返りながら、一つ一つを改めて精査していければと思います。
まぁ何だかんだいって、結局の所言いたいのは「お芝居として今作の”良い子はみんなご褒美がもらえる”が、自分にとってとても好きな作品であった」ということなんですけれどね(笑)
ちなみにこの芝居が終わっていろんなことを考えている矢先にボッコボッコに試合で負けて、もうメンタルがベッキョベキョに折れて「も~~!!!」ってなってたら監督解任*1になってメンタルがやってらんねーぜーオラァ!!とブチギレて散財しまくったのは内緒です。ちなみに酒を飲みまくって友人に「もうやだ~~~!!!!」って泣き散らかしたという。良い子どこいった。
「いろんな趣味を持っていたほうが片方がだめになったときに他のものに逃げられるよ」という言葉はよくありますが、そのいろんな柱が片っ端から膝カックンされるとしんどいんだぜ~~!!ってしみじみ思います。同時期にくる可能性もあるからみんな気をつけてください。複数まとめて同時期にくると結構どころかだいぶしんどい(真顔)
話がそれましたが、ということで良い子はみんなご褒美がもらえるの感想を。
▽今までの雑感まとめ
この段階ですでに3つ記事書いていることに自分でもドン引きをかましています。しかも言ってることが色々紆余曲折しすぎてグニャグニャである。
フェスティバルホールの写真を撮っておけば良かったと後悔しましたが、バタバタしてて撮り忘れたので今回だけ画像が違うのはまぁそういうことです(笑)場所が違うのに「おなじのでいっか~~」と思った自分をぶっ飛ばしたい。
大千穐楽の感想を振り返る
すでにもういくつも感想を書いてきた上で、このお芝居を作り上げてきた人たち、このメンバーこのタイミングというのが「最後」になるであろうことを前提として、自分も最後は何も考えずええい確認じゃなくて「楽しむぞ」という気持ちで観劇しました。
まず第一に赤坂ACTシアターとの大きさの違いにとてもびっくりしました。広い。席数の違いは勿論のことステージがより大きく大きく視えました。
で、この上でどんなふうにお芝居が始まってどういうふうに幕を閉じるのだろう、という気持ちで見ていくとあっという間で。
このお芝居を何度も反芻するように、噛みしめるように自分も観劇してきたので(といっても全通というわけではなかったので、一つ一つの「確認」という形が近いかもしれません)見ながらこういうふうに変わったんだなっていうように感じさせてもらいました。
演者の”息遣い”から感じる「大千穐楽」
堤真一さんが「炭水化物抜きダイエット」をしている話はネットニュースやワイドショーでもお見かけしていたのですが、「疲れている」「やつれている」という要素がすごかったなと。
「アレクサンドル」という怒りを腹の中に込めて、己の主張を曲げることをよしとせず主張した果ての”精神異常者”としての烙印。牢獄の中に入れられてもなお曲げたくないという気持ちの持ちかたは東京のときと変わらず強い意思が視えました。
とにかくお疲れ様と一番いいたい俳優さんですし、是非お米を…美味しいお米を食べてほしい限りです。\お米食べて/
W主演となる橋本良亮君のお芝居としては「大千穐楽のお芝居が一番好きだな」という意見になりました。
東京初日で感じた「滑舌」の部分(※オーケストラについての説明部分がうまく聞き取れなかった)が変わっていたこと。何を言っているか、わかる!わかるぞ!みたいになりました。進研ゼミで見た(?)
自分が”何度も舞台にいっていて、かつ戯曲を読んでいる”という前提をもっていたとしても、明らかに意識して良い方向に転じているように見受けました。これは私が東京後半の「良い子はみんなご褒美がもらえる」を観劇していなかったという点も大きいのでしょうが…。
”橋本良亮”という俳優は比較的「憑依型」の芝居をするタイプのお人であるような認識をしています。感覚としてイワノフとしてその瞬間を生きて、その口から飛び出してくる言葉はリンクした上での「イワノフ(=橋本+イワノフ=”ハシノフ”)」になっている部分が非常に強い。これが東京公演を見てきた上での私と友人との共通見解でした。
それゆえに橋本くん自身の状況に非常に左右されやすく、「毎日違う」ことを良いとするか「安定感がない」と取るかは人次第かなとも。
で、それを踏まえた上で大阪での大千穐楽を見て非常に驚きました。
「言葉一つひとつ」「動き一つ一つ」に対して組み立てて、考えて動いているかのように見ていてとても安定感がありました。私は芝居に対して専門知識があるわけでも何でもないような、ただの「1ファン」という枠を抜け出せないような人間です。
こういった自分のようなタイプの人間が見ててもわかるほどの、少なからず昨年の物議を醸した「コインロッカー・ベイビーズ」の大千穐楽とは明らかに違っていました。
【コインロッカー・ベイビーズの感想】
何が彼の中に「変化」としてあったのか、私には全くわかりませんが、お芝居の中で「イワノフ」という狂気がスタンダードになっている人間(彼の中での正常と、周囲に対しての正常が異なるという意味で)として決してブレることはなかったと思います。
これはウィル・タケット氏の演出の中での結果なのかもしれないし(海外の人の演出方法が”どうしてそう思ったの?”から始まるということを先日Myojoで戸塚祥太さんとのインタビューで橋本くんが話していました。)他のキャスト・スタッフさんからの言葉で吸収したのかもしれない。
「憑依するタイプ」のお芝居が好きなのか、「組み立てていくタイプ」のお芝居が好きなのか、結局行き着くところは「どういった芝居を意識して作る橋本良亮が好みであるか」であると思うので、あなたはどう思ったか、という話になったとき「私は今回、大千穐楽のイワノフが一番好きだと思えた」というのが結論です。
お芝居を見ながら「橋本良亮」ではなくイワノフとしての見解を考えることができたのはとてもプラスで(どうやっても演じている上で「橋本くんが何かいってる~」となりやすいのは正直”仕方ない”部分もあるので)、自分の中でイワノフがどういう顔をしてどういうものを見て「どういう発言をして」いったのか…より考えられたし、また、お芝居として見て楽しかったと思います。
斉藤由貴さんとシム・ウンギョンさんに関してですが、お二人のお芝居も私は大千穐楽でとても安定したように感じられます。
シム・ウンギョンさんは特にすごかった。喜怒哀楽の中における「取り残される」部分が痛々しいほど伝わってきて、言語が違う場所でチャレンジしていくと決めた彼女がこのお芝居で「少年」という役柄の難しさを演じているのが、なんかこう…見ていてすごかった(言葉が下手で申し訳ない)。少年という「あどけなさ」と、「ピュア」がゆえに、真っ向から「それは違う」「悪いこと」ということの境界線がサーシャの中にあって、その「悪いこと=(ほぼ)自殺」という見解をわんわんと泣きながらも曲げなかった彼のお芝居というのが良くって、千秋楽は特に見入ってしまいました。
斉藤由貴さんはシム・ウンギョンさんと対比しての「精査された大人」としてのお芝居で、教師としての律し方がピリピリしていて非常に良かった。見てて「こういう大人いるいる…」みたいなのがあって、それがすごく、にじみ出ていたように思う。
また、すごく聞き取りやすさがあり、「それってツルゲーネフ?」というあの「やばい怒らせた怖い」ってかんじがにじみ出るピリッとした怒り方が学校の先生を怒らせるときの印象を彷彿と思い出させました。
小手伸也さん、外山誠二さんについて。小手伸也さんに関して言うと、まずとても「関西」という土地柄なのか東京の公演に比べて「笑わせよう」としている顔芸含めたお芝居が多いように感じられました。シリアスとコメディの行き来ができる作品なので、私としては東京公演でやっていらっしゃった「シリアスな笑い」のほうが好きかなって思いました。一方で、この作品をより「コメディ」として受け取りたいという方の意見として考えると非常に医師という「お前のせいで大惨事じゃねえか」という存在がコミカルに「小憎たらしく」「愛嬌もある」形で作られていったのではないかというふうにも思えました。
外山さんに関しましてはあの重厚な雰囲気と、「大佐」という圧倒的権力者としての圧がいつ見ても安定していらっしゃった印象です。本当にセリフ的には少ないし、うたの☆プリンスさまっ♪における初期の鳥海浩輔氏かってぐらい出番もあれですが*2、それでも《存在感》という意味でも圧倒的に群を抜いて印象に残り、「いやー大佐すごかった」といいたくなる。
また、あの短いシーンだけでも「どうして取り違えたのか」「わざとだとしたらその意図は?」「なぜアレクサンドルを見ながらイワノフに質問をする(牽制をしている?それともわざとやった上で、イワノフが否定することに対して様子見をしているのか)」という”疑問”を考えることができるお芝居に目がいくばかりでした。大阪での大千穐楽ではより「イワノフ」を可愛がるようなブリーダーのような祖父のような雰囲気と、アレクサンドルに威圧を向ける軍人としての素振りの差が明確化されているように感じました。また、外山さんは舞台でのカーテンコールに合わせての挨拶のとき必ず軍帽を外されての一礼をされているのが非常に嬉しかったです。
お芝居の感想
いろんなことを見ていて感じた一方で、また同じぐらいいろんな事を考えているであろう方々のブログを回って「そうなんだ」「確認しなくては」と思って見てたのですが、”最後のサーシャの「全部うまくいくから」の歌の後、アレクサンドルはふっと微笑を携えている”というご指摘をお見かけして意識して見ていたのですが、本当にふわっと笑っているんですよね。びっくりしました。あれほど意固地になっていた、パパに食い下がったサーシャに対して、実際にコミュニケーションを取る時は「怒り」が先に来てどうしようもない…というか「笑う」という部分が0に等しかった(記憶の中では笑ったりしているけれど、サーシャとのコミュニケーションではもう笑わなくなっていました)アレクサンドルが、あの瞬間、確かに笑っているというのがゾクッとしました。
また、別の方のご指摘で、”最後のアレクサンドルが指揮して奏でた音が「Every Good Boy Deserves Favour」として覚える”E G B D F”である”、というのを聞いて、実際に意識してみたら「うわ~本当だ…うわ~…」と言いようのない気持ちに。
この終わり方に対して「常識」というもの(いわゆる”普通”という概念)を受け入れてしまったという意味で絶望するようにも見えるし、一方で穏やかな表情を浮かべているという意味ではサーシャにとっての”ご褒美”と、アレクサンドルにとっての”ご褒美”がマッチした瞬間にも視えなくはない。
アレクサンドルが病院から出た後、どういう生き方をしているのかは描写されていないし、ここからの描写はどこまでが空想でどこからがリアルなのかという境界線も非常にあやふや。
あの作品の《ご褒美》という立ち位置ってなんだろうって考える度に全く意見が落ち着かず四散していく気がします。自分の中でも「これが正解」ではないし、逆に言うと「それはおかしい」ということにはならない。
「信じる」「疑う」ことで得るものと失うもの
この作品に関して思うのは其々の「信じる」「それっておかしいよ」という信用/懐疑の危うさも非常にあるな、と思います。
なんか同じ傾向として「怒り」という映画でも感じたこのやり場のない誰も助からないどうしようもない状況っていうのが似ているなっていう。
ぶつけたい怒りがある。でも誰にぶつけたいのかももうわからないぐらいのもの。自分が泣き叫んだって怒り狂ったって「どうしようもない」という虚無感とそれを自分自身にぶつけてしまう部分。
自分が「理解されない」と社会の考えから否定をされ、周囲からのリークにより精神異常として打ち込まれ、行き場がない。行き場がないからそれを《社会》が悪いと主張したアレクサンドル。
また一方で「理解されない」としても、怒りを抱くよりも自らの精神異常状態を楽しむイワノフのあり方というのは本当に両極端でした。
サーシャはアレクサンドルを「信じる」けれど絶対的な信仰ではなく、間違っていることに対しては「悪」だと言います。自分から死のうとすることは悪。
ハンガーストライキといえば昨今ではイルカがハンストしたことがニュースになっていて(これの正誤性はわからないけれど)、なんというか、いつの時代も「生きる」ための主張としての一つの表現の場でもあるのだなっても感じます。
「信じる」とはなにかに対しての否定につながる危うさもあるだよなあ改めてぼんやり見てて思いました。”飛影はそんなこと言わない”なんていう迷言も世の中にはありますし*3、要するに信じるということは何かに対しての否定もまた孕んでいるわけで。
拍手のタイミングの難しさ
インターネット上で結構波紋を呼んでいた「拍手が早すぎて余韻に浸れない」という件について、実際に大千穐楽にて感じたことを言うと「確かになあ」でした。
お芝居に関して、キャスト・スタッフも観客も「リピーター」であればあるほど、このタイミングでどうなるかがだんだんとわかってきてしまうからこそ難しいと感じる部分でもあります。
この作品は「…えっ、ここで終わりなのか…終わるのか…そうか…マジか…」みたいな余韻に浸る部分もあるので、だからこそのもうちょっと…もうちょっと作品の世界に浸っていたいという人の意見もわかるわけです。一方で、「まぁでも終わりって言われたら終わりなんだよね」って言われると、それもまたしかりで。
音が《無音》になり、暗転するからこその、終点であることは変わらない上での「芝居」ではない「リアル」に戻ってくることへのタイミングって非常に難しい。
自分自身は見ていて「もうちょっと浸りたかったかも」という側の人間なのですが…こういうのって難しいですね。
どっちの言い分もさもありなんというか「わかる」でもあると思うので…。
「真実」と「現実」と「事実」
この作品に於ける、真実ってなんだろうって考えると、人によって「真実」というのは全て異なっているのではないかなという結論に至りました。
以前ブログで 事象+主観=その人にとっての真実 ではないかなという自分なりの意見を出しましたが、現実と真実は異なるということを前提にしたうえで(この前提を踏まえるということ自体が、また私の”真実”であるに過ぎない部分だとも思います)
答えを出さないという考え方は無知の知じゃないですけどソクラテスの発想と同じな気がして(ぶっちゃけ私はこれを何度聞いても「なるほど全然わかんない」ってなった派ですが)、この作品の思想的/哲学的要素を考えながら「社会」という大きな太枠にかこわれているがゆえの部分を考えさせられているわけです。
相対主義の「いやそんなもん知るわけないし、わかるわけなんかない」っていう発想はある意味国家にとってみりゃ「うるせー!!今作ってんだから異論言うなー!!!」っていうふうにも見えるし。
そういう意味では「なぜ」「なぜ」「どうして」という言葉に対してうるせえ!!っていう側の今作で言う「国家」目線としてもわからなくもない部分もあるんですよね。
誰しもが太枠で「なんとなくそう」という発想があって、このなんとなくを享受し、楽しみ、その中での平穏を楽しむわけで。いわゆる「守られたいなら我々のルールに従っていただこう」的な発想なのかなと。それをおかしいだろって思うならじゃあ出てけやって話になって、じゃあルールが守れないなら邪魔だから除外しようという発想になりうる。
”フェイクニュース”は罪なのか?という疑問
この作品における「フェイクニュースがはびこる現代だから」という言葉が使われていましたが、”フェイクニュース”をフェイクと見破るにはある程度の《目》が必要になります。その《目》を自分を持っていると過信するのか、それともフェイクニュースそのものを「なぜフェイクだと思うのか、思い込みにすぎないか」と取るのか、またはどちらであろうとも自らの主張をせず沈黙するのか。これはキャラクターそれぞれによって違うんじゃないかなと。
虚構新聞が先日「東京23区、全面ドーム化へ」なんていうネタなものを上げていましたが、これについて結構本気にしてしまう人を見かけました。
虚構新聞については「ガセ」「ネタ」「フェイク」であることは知っている、わかっていること前提で物事が書かれています。読んでみても「いやそれはないわあ」みたいなものが詰まってます。
インターネットに対して「ウソをウソだと見抜ける人でないと難しい」と昔ひろゆき氏が言っていましたが*4、この虚構新聞の騒動に関して「これは嘘!!」「いやそりゃないわあ」って言う人と色々いるでしょう。
私はこの一件についてブログを記すにあたり、探してみたら「そういう話が虚構新聞であがっている」となっていたので、そうなんだーってなった派ですが(この記事を書くまで、そんなネタがあるとは思っていなかった)また、結果としてトレンドタグ入にもなったらしく、本当と信じて問題にした方もいたようです。
フェイクというものについては誰にとってのフェイクなのか。楽しめるものなら果たしてついてもいいものなのか?誰にとって「嘘」なのか。
とてもむずかしい点ではないでしょうか。
だってそれって「わかっていていて、それを”違う”と知りながらも敢えて言うわけではない」ことは今作における「医師」に該当します。また、「悪いやつは何したっていいじゃん。違っていても、心の中で舌を出しておけばいい」という考えのサーシャの考えもそちらに近づいている印象です。
だから一概に「フェイクニュース=すべてが罪」というふうには私は感じられないし(実際虚構新聞のネタはたまに話題になってると”また虚構新聞か”(笑)って思う部分があるし)、正直全てを一概に否定はできない部分もあるので、どこまでがどう、という線引はその人の主観で異なり、ゆえにこうやってめちゃくちゃこじれるのではないでしょうか。
「怒り」への恐怖感
アレクサンドルは「怒り」の人です。ネタにマジレス(笑)と言われようとなんだろうとそれは「違う」といって叫んでいる、上記のネット記事に対して怒りちらしている人にちょっと類するタイプなのかなって感じました。
それを「嘘」として楽しんでいるタイプ。嘘なのをわかっていて(おかしいと思っていて)でも楽しんでいる人は「そうだと思いこんでいる人」として噛み付く…とかそういったようにも見える。
ジャニーズでも何でもそうなのですが、基本的に人って「怒っている人」に近づくのが嫌なんですよね。だって何かわからないけど怒り散らしているのって嫌じゃないですか。怒鳴るにしたってそうだし、ものに対してブチ切れてるのだってそうだし、正直私は関わり合いたくないです。二次元でも宮ノ杜雅様に「う、うるせ~~~~!!!ゴミゴミ人のこと言ってんじゃね~~~!!!!」って初期思ってたので*5、最終的に「心の交流」することで変わっていった雅様は「根はいいやつ」ってわかったけれど、これがリアルになると完全シャットアウトしますよね。その交流する前に「関わり合いたくないな~~」ってなっちゃう。
この辺は以前Love-tuneというジャニーズJrのグループの子たちの一件について感情でいろんなものが行き来しました*6。
こちらのお方の「怒ることの難しさ」という点は今作の伝えたいことにも似ているなと私は思いました。
私はぶっちゃけジャニーズ事務所に対してそこまで強い思い入れがなくて(※もともとは声優やらアニメやらサッカーやら他のところが好きな人なので…)、くだんについては何かといろんな話題を見ては「大変だなあ」と思いました。まぁでもLove-tuneの子たちについて、ABC座で話題に上がらなかったことをLove-tuneのファンの人が「ひどい!あんなにいろいろ関わり合ったのに!」って言っているのを見て「一介の事務所に所属している契約社員(※アイドル)に切り込めって難しいのでは…?」とも感じたので、そういう意味でもちょっといろいろ「主観」が異なることで感じること、見えることは変わってくるんじゃないかな。
で、話を戻しますが「怒り」というのは非常に難しいです。
極端に何かが起きた→事務所のせい、政権のせい、●●のせい!!っていうのは正直「いやそりゃねえよ…」って思う部分もあるし(アレクサンドルはこちらに部類してるように見える)、だからといってじゃあ一概に「それが全部正しいのだ、仕方ないのだ、このような場所(=事務所、国)を選んだのはお前じゃないか。嫌なら出ていけばいいのだ」という側(この場合では教師が類するかな)は少しまた違うし。
わかり易い例として、先日Twitterで話題になっていたものを上げます。
そもそも上司であろうと何だろうと「お前」って言われたら「ハァ?!!!!!」って思いますよね。それを「(上司だから)飲み込んで受け取る」かこちらの方みたいに意思表示するかって違うんですが、素早い怒りを表に出すことで謝罪に持ち込んでテキパキ話が進んだわけですが、何にしても「怒り」を表に出さないと伝わらないということはよくあります。
「嫌がっていなかったから」「こんなのネタだし(笑)」「ネタにマジになるとか」とかいじめ現場で聞く光景ですし、被害を被っている側としては「うるせー嫌なもんは嫌なんだよ!!!」ってなるわけですし。
で、まぁこの怒りを向けることによって付き合いが悪いとか言われたり、怖い~ってなったりとかするのってよくあることで。その相手の人付き合いにもよると思うんですけれども。
まぁだから、何がいいたいかって言うと「怒り」をどこに向けるのか。なぜ向けるのか、相手に理解してもらおうというのは難しいんじゃないかなと。
人によって「感情のキャパシティ」は違うし「おかしい」と思う倫理観っていうのも違ってくる。その上で出てくる「ルール(秩序)」という太枠。その太枠にいる間はそれで良いけれど変えようとする、変えることによって別の太枠がまた出てきてしまう。それが「社会」であり「オーケストラ」であり、属するということなのではないでしょうか。
オーケストラが「あ」る、「い」ることで生じること
オーケストラを「社会」としたなら、イワノフにとっての「空想のオーケストラ」がもう不要としてタクトをあっさりと渡したのは「自分にとってはもうオーケストラはある」という意味になるのではないかと感じました。
イワノフは最終的に「ずっとオーケストラがあるとわかっていたんだ!」という風に言っています。これを「社会」に置き換えると、「ずっと自分に適した、自分を認めてくれる社会があるとわかっていたんだ!」という答えになっていきます。中学生あたりの思春期の頃にある「自分にはもっと適している世界がある」「自分にはもっと見合った立ち位置がある」っていう感覚に近いかな。黒歴史じゃんやめてくれ。
めちゃくちゃ極論につないでいくと、影羅様*7とかそういう類にもちょっと近いんですが、自分が認められたことで自分にとっての空想が消えて(もしくはいたとしても、もうだんだん聞こえなくなっていくという可能性が高い。影羅様も中学の時はいたけど、高校生になったらぱったりなくなった、というように)いくんじゃないかな。
イワノフって「勇気を出せ」といい、「オーケストラはみんな指揮棒をリュックに入れている」という。そして「今に君の番が来る」という。突然のIt's your turn!!
俺のターン、ドローじゃないですか。
\伝説の決闘者、武藤遊戯さんだ!!/
知らない間にコスパがまたよくわからんアクリルキーホルダー出してておののいている。そういうところだぞコスパ。
俺のターン、といえばもうどうやってもカードゲームで変換されるし武藤遊戯さんが頭をよぎってしまうのは私が遊戯王めちゃんこ好きだからなんですけれどね。
まぁそれはそれとして。
俺のターン、というのをどういう意味で考えるかっていうと「次はお前の時代だ」的な発想なのかなあっても思えるし(=指揮者(支配者)となりうるのだ、という中二病的発想)、孤立しているアレクサンドルが(音楽をやらないとあれだけいってるのにまっったく聞く耳を持たないイワノフからしたら「アレクサンドルが音楽をやっていようとやっていなかろうとどっちでもいい。練習しろ」)世界を持つアドバイスをすることで「同等」という扱いを見うるようにも感じられる。
オーケストラはある、となってからのイワノフはずっと笑顔であるように感じられるし、社会に触れようとしている気がします。
いつまでも音楽を聞いて自分の世界(=オーケストラ)にあるのではなく、アレクサンドルの「戦争と平和」に興味を持ち、それを音読する。で、「勇気を出すんだ」につながっていく。
アレクサンドルと「戦争と平和」はドン・キホーテの騎士道小説か
ふと思ったんですけれど戦争と平和についてなぜ「査問会でみんなの前でアレクサンドルが読んでいることを率先して”言わなくていい”と医師が止めたのか」ということを考えたのですが、まぁ「余計なことをいって余計な波紋を広げるな」っていう彼のストップだとは思う一方で、掘り下げていったら「戦争と平和ってアレクサンドル一世の頃合い」というポイントが出てきました。
つまり、アレクサンドルからしたらどこに感情移入するのかっていう部分で「同名」であることも踏まえ、この作品に感情移入をしたようにも視えます。戦争と平和ってあくまでも群集劇的要素が強いという印象なので(若者がどうあるべきか、民衆がどうありたいのか、とか将軍が悩んだりとか)。
その理論でいくと、アレクサンドルは「正常に見えて正常ではない」。いわゆるドン・キホーテになっていくんじゃないかと思えてきました。
私は「ラマンチャの男」というイメージが強いので(ミュージカル)原本となる小説を読んでいないし、どっちかって言うとドン・キホーテって言われて「ああ、あの安売りの」というイメージが出てきてしまう日本人タイプなのですが(笑)あと幻想水滸伝のマクシミリアンのイメージはおそらく彼がモチーフになっているであろうという印象なんですけれどもね。
そうなるとアレクサンドルの「他のお父さんとお母さんは」とかも含めての”孤立”にも視えてきます。いつから政治犯として団体で動いていると思っていた…?的な。教師の「あなたのお父さんがしたこともそう!!」っていう部分からすると周囲からすれば「理解してくれる人がいないなかで自分の妄想妄言に猪突猛進に走っていった結果、政治犯として本当に捕まってしまった」みたいな。
そういう見方もできるわけですよね。うわぁ…うわぁ…闇じゃん。
そんなこんなで
まぁ散々あれはどうだこれはどうだとか言ってきたわけですけれど、結論的に言えるのは「答えなんてない。その分お前らこれが答えなんじゃないか、とかいろいろ考えてそれをみんなで言い合ってくれよな!!」っていうことをウィル・タケット氏はインタビューなどでも話しており、実際イギリスの演出と、日本の演出では大きく異なってきています。
「なるほどまったくわっかんねえ!!!解散!!!」ってなるのも一つの意見だし、「あれはこうなのでは?」っていうのを考えることもまた一つの意見。
見る人によって全く、ねっ異なるでしょ?みたいな感じのニンマリ感を感じました。
俳優陣にとってみてもお芝居を演じている上で「自分はこう思う」っていう意見を所持していて、一方で他の俳優と誰一人として「共通」はしていないんじゃないかなと思います。勿論芝居をするにあたってのある程度の一本筋はあるだろうけれど、この作品についてどのように感じるのかは人次第だから、キャストスタッフすべての人が「共有したこういう作品のこういう答えだよ」っていうのは持っていないんじゃないかな…と。
そうじゃなかったら堤真一さんも橋本良亮くんも「わかんないもん!!!(笑)」なんて散々言わないんじゃないかなと。
自分たちでグループディスカッションをしたことを本作に対しての「経験」として、私は観劇というインプットをし、ディスカッションやこのブログを記すことで「アウトプット」していったんじゃないかなと。
だから、本作に対して他の作品と比べて「思い入れが強くなった」のかもしれない。冒頭の「芝居として好きだと思った」部分に付随して「ディスカッションをすることで自分の意見を精査していき取り入れ、自分の中で自分なりの理解していく」という他者に伝えることで自分の意見についての理解度を深めていった→その結果思い入れが強くなったというようにも感じられます。
勉強法で「誰かに教えることで自分の記憶力を高める」というものがあります。
実際自分が誰かに伝えることで、そこに「責任」が生じ、自分なりに誰かに教えるためには「自分が理解していないといけない」ことになるわけで、より一層深めていけるわけです。
だから、「思い入れ」ができたんじゃないかなと思うし、関係者各位が「見たら誰かと話したくなる」「考えてほしい」と言っていたんじゃないかなとも感じます。いいように転がされている!!(笑)
ということで、本作についてのブログの結論はこんなかんじになったわけですけれども、じゃあ之が「正解か」と言われたらまったくをもってそうは思わないし、じゃあ自分が「記憶できたか」と言われると今は記憶していて、それがどんどん薄れていくのは英語とかもそうじゃないですか。覚えたからといって全てを覚えているわけじゃない。
でも日常の中でふとした時に思い出して、「こうだったな」「ああだったな」「いやでも今見るとああ思うかもな」っていうふうになりえたら、それはとても有意義だったんじゃないかな~~なんて考える次第です。
まさかの大阪の写真がなかったということで東京のお写真で代替。
ということで、毎回毎回めちゃくちゃ長い文章になってしまったわけですが…(笑)
もしこのブログを読まれた方で「俺は/私は こんな意見だな~!」っていうのをうおーーって書かれている方がいたら…ひっそりと……読みにいっているかもしれません。次にタクトを振るのは……あなたの番かも…しれません…(笑)
*2:うたプリでは鳥海さんは猫「セシル」を演じています。後半になると彼も人間になるけど基本猫。ずっと猫。同作品のラジオで給料泥棒ってネタにされていたこともある
*3:実際元になっている話を見たら「そりゃないわな」ってなったけど
*4:これに関しては時代の変化というものも少なからず関係していると思うので一概に答えは言えないけれど
*5:華ヤカ哉、我ガ一族というゲームのキャラクター。CV岡本信彦。
*6:「なぜ彼らが干されて、なぜ彼らが退所に追い込まれたのか」という面でファン側と”ジャニーズという事務所ではあるが別のグループ”のファンである人たちとで意見が全く異なった
*7:2ちゃんねるが発祥元?影羅という中二病をこじらせた妹さんのネタ。影羅とは (エイラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科