柑橘パッショナート

二次元、三次元、映画、アイドル、サッカー他諸々の多趣味の結果、好きなことをアウトプットするためのビュッフェタイプになったブログです

「良い子はみんなご褒美がもらえる」4回目以降~東京楽までの所感

 

見れば見るほど、噛めば噛むほど考えがぐるぐると変わっていき、「結局お前は何が言いたいんだ?」という疑問が生じるわけですが、その上ででも自分がこう思った、こんなことを感じた、こういうふうに今は結論付けられたっていう「考えること」と「人と話すこと」が本作に於いて必要なこと、求められていることと定義づけられているんじゃないかと自分の中での《真実探し》をしています。

 

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3回目の記事になります。「良い子はみんなご褒美がもらえる」

ということで、5月7日に無事東京楽を迎えられた堤真一A.B.C-Z橋本良亮主演の「良い子はみんなご褒美がもらえる」についての雑感を書いていきます。

前回ひたすら馬鹿みたいに長く長く「お前どこまで書くんだ」ってなりそうなぐらい長く書いちゃったわけですが、それを踏まえながら、「これはこうなのかも」を東京楽で感じたことを綴ります。色んな人のいろんな視点のいろんな「考え方」があるので、そのへんもSNSを中心に様々な箇所で検索ができるので調べていくと楽しいです。

 

▽初回・2~3回目の感想

amanatsu0312.hateblo.jp

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初回/2・3回めの感じ方を分けてみると「何」を見るのかで全く異なっていて、その視点が自分でも読み返す度に面白いなと思います。

初回は「作品を通して」で、以降は細やかなポイントについて。なぜこれをこうなってこうしていったのかのどんどん演出家の意図について考えさせられている気がします。

 

 

4回目の雑感

この日は俯瞰して観劇することができたので「どういうふうに」「誰が・何をどんな表情で見ているのか」を見られました。

初回や2・3回目とは違う位置で「今回は表情を汲み取りながら」「どんなふうに」「何を考えていそうかな」を考えて見ていたわけです。

途中までは「これはコメディ…そうこれはコメディ…」という認識で見ようとしていたのですがどうやってもコメディには視えなくて、チェス盤がひっくり返せませんでした(笑)

 

「心配ないよ、マエストロ?」というタイミングについて

イワノフがね、簡単でしょっていうシーンでご丁寧に「マエストロ」というシーンがあって、「なんでわざわざマエストロなんて単語使ったんだろう」という疑問が生じていました。

世間一般的にマエストロ(Maestro)=指揮者だしこの翻訳(そのまま使っている)にした理由はって思ってたものの、この部分お芝居の流れでは「違和感」でもあるんですよね。

イワノフが「楽器を弾くのか」というアレクサンドルの問い(もう彼の中では演奏者、音楽家と思っている・確定している中)のなかなんですよね。

自分は音楽家に対して偏見がない。といいつつ、彼の言葉の節々にはなぜかわからないけれど「音楽家を下に見る」発言がある。

例えば「フレンチ娼婦……いいや、フレンチホルン」だとか、「ジゴロ…ピッコロ」とか。意味についてはお察しいただきたいし、突然のネタに「おいおいどうした~~?」って思わずにはいられない。シモネタを悪いとは言わないけれどあまりにも唐突のぶっこみにびっくりするんですよね。

 

それに加えると「自分だってトライアングル持ってるじゃないの」というすごい素朴な疑問。めちゃくちゃ矛盾まみれなんですよね。

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指揮者でトライアングルを持って「音楽家」をdisるという矛盾

エストロになりたい、なっていると思っている一方でのネジがはずれきった前の段階で自分がそのトライアングルであるという承知・認識(社会における自分の立場の把握)があるんじゃないかなと最初に感じていたのですが…。

 

自分は何も持っていない/誰でもできるトライアングル という現実に対しての逃避。ないしはコンプレックスから生じる「音楽家なんてみんなクソだ」っていう《それでも、自分がそこに入りたい羨望》も混じっての「矛盾」なのかなという考えができました。

 

一方で、この上記に対しての「オレは本当はすごいんだぞ!」という逆説的な部分もありえて(「音楽家はみんなリュックに指揮棒を隠し持っている」という主張から、今はトライアングルの自分がのし上がってやった、という誇示?)、そう感じると、この矛盾に対してのイワノフの「狂った人」(※オフィシャルでの記し方ではこう明記)でありながらも人間味あふれる部分が出てくる瞬間だったなと。

 

「ねぇ聞こえる?」の温度差

舞台では何度かイワノフはアレクサンドル、または「いない」誰かに向かって”ねぇ聞こえる?”と尋ねます。

それは自分のオーケストラ(何ならオーケストラを指揮しているいるはずのない指揮者/これは”自分への問い”にも見える)へ聞き、アンサンブルに聞き、様子様子が一貫することはなくバラけているのが本当に面白い。

 

「オーケストラなんかいない」「いたことない」「いらない」という医師に言われての叫びからの豹変・発狂に近しい形からの必死に誰かに「肯定」されたいがためにアレクサンドルに近づき、揺さぶり、叫声する”ねぇ聞こえる?!”は確実に恐怖感がありました。

あのときの橋本良亮くんの表情は鬼気迫るものがいつもあり、アレクサンドル・イワノフ(イワノフ)という男がいかに狂った人かということをより認識させるための展開でした。

しかし一方で「聞こえる!?」という言葉の叫びの後、「ごめん」と何事もなかったかのように自分の行動について詫びるイワノフの姿は非常にアップダウンが激しく彼が何の精神病なのか、と一考せざるを得ないような表現をします。何なんだお前は一体なんなんだ…。そりゃ堤真一のアレクサンドル・イワノフ(アレクサンドル)も怯えるに決まってるだろう…。

 

また、二回目の「ねぇ、聞こえる?」は非常に軽やかな形で、かつ音楽に合わせてタクトをふるようになったのか。このときの表情はすこぶる笑顔です。テンション振り切れすぎて寒暖差で風邪引きそうになりますね。なにそれ怖い。

このときの音楽はヴァイオリンが中心の軽やかなもので、しかも「オレめっちゃこの曲好きなんだよね~~」っていうテンションだったので、おかげで最初の部分で思っていた「イワノフは音楽家になりたいのか」「ヴァイオリンに対する憧れでもあんのかお前」っていう疑問が結びついていく気がします。最後の最後のシーン、ヴァイオリンを持ち笑うイワノフのシーンの伏線であったようにも感じられました。

 

最後の「ねぇ、聞こえる?」に関してはもう完全にお前にも聞こえているだろうという確信を持っていっているような気がしました。

あの瞬間まで、他の2回では「何」とか「嫌そうな顔」をしていたアレクサンドルが表情を変えてしまっているのは「聞こえてしまっている」のかなっていう指摘をされている方がいらっしゃり、確かに……と膝を打っているこの頃です。

 

これまでの「ねぇ聞こえる?」は最後のためにあったと思えば喜怒哀楽の概ねをイワノフはこの部分につぎ込んでいるような気がします。

逐一確認していたのは、自己否定を己で行ったことで起きる精神バランスの崩れではないでしょうか。

謝罪したのはなぜか。「イワノフの中にはすでにオーケストラは”い”る」のに、なぜアレクサンドルに謝罪したのか。

これは医師に「いない」と言われ、また自分自身でも「いない」と言ったからこその自我の崩壊と再構築(いない、と思い始めている)に向かっている状況なのかなあと思いました。自分で言ったがゆえに自分自身で自信を持てなくなってきている。

 

ここから「勇気を出せよ」という流れはもう完全に「い、医者~~~お前ってやつは~~なんてことをしくさったんだ~~!!!」って流れですよね。

医者が「あるとも」と言ってしまったから、ひっくり返った。傾きかけていたものがもう一度形を変えた。チェス盤がひっくり返った、またはシーソーの片方に完全に傾いた状態。

「ずっといたんだ」「わかっていたんだよ!!」とい喜び方的に半信半疑、そうじゃ”ないかも”しれないと思っていたもの(自分が否定したもの)が「医師」という力を持った存在による肯定で、しかも力強い形で言われてしまったがゆえに、彼にはもう「覆すことができない」んじゃないかという以前の友人の指摘(2回めの感想にて明記)を彷彿とさせました。

 

大佐の視線について

見ている限り、ロジンスキー大佐は完全にイワノフをほぼ見ていない形に感じられました。

あくまでも彼の目線は「アレクサンドル・イワノフ(堤真一)」に向けられています。

だというのに彼は「イワノフ!」「アレクサンドル・イワノフ!」という。そしてそのシーンは強い圧力のある叫びから孫に会えて嬉しい爺さんのような振り幅。何これ怖い。

これを見て思ったのは「喜ばしい声のかけかた」に反応をしたのはイワノフ、医師、サーシャ、教師でした。アレクサンドルは顔をうつむかせていたからわからないんですが、あの段階で「彼が言葉を優しく(喜ばしく)かけるわけがない」という先入観が生まれていたのではないかと感じます。

まぁ立ち位置的に政治犯であるし、何よりロジンスキー大佐はイワノフを向いていたというのもありますが、でもそれをいったらうつむかせている彼にとってみれば「関係ない」ことでもあるんですよね。

しかし、「普通の人間を精神病棟にソビエト軍は入れると思うかね?」という質問をイワノフ(橋本良亮)にするにもかかわらず、目線が完全にアレクサンドルであること。

質問してるなら相手を見てやれよ!!!!聞いているくせにそっぽ向いてるのめちゃくちゃ失礼じゃないか?って思うんですけど(確実に狙ってやってるからだと自分の中では考えています)、そこから狙ったとおりの言葉をいうイワノフを思い切り「よろしいよろしい」という言い方も完全に”ご褒美”的な言い方でした。

 

で、あるにもかかわらず、じゃあアレクサンドルの時はどうだったかというと、彼は確実に《軍人》としての問い方でした。

それはつい先程までじいちゃんと孫みたいな、ヴェルタースオリジナルのじいちゃんみたいなテンション*1だったのに…なんなんお前も情緒不安定か(違う)っていう。

「見る相手」によって変えることで”好意的”なのか”悪意的”なのか(敵意とも言う)が変化しているのかなあと。あんな露骨に変えてるし、しかもその時のアレクサンドルは目線で大佐を見るよりもイワノフに対して向けている。

「この質問がイワノフに向けられるべきものであるにもかかわらず、答える自分」という意思にも見えました。イワノフがそうだったように。

 

面白いのは目線としてイワノフは「どう答えるのか」という時医師との目配せをしています。この瞬間だけを見ていると「イワノフは社会適合をした」ように見えました(人の言葉に耳を傾ける、人の様子を見て自分がどう”答えるべき“かを一瞬で把握、行動した)

 

で、大佐はどういう見解を彼らに対しているのか自分なりに精査したのですが、ざっくりと大佐の知っている情報だけ(憶測)でまとめてみると以下の通り。

  • 【アレクサンドル】
    政治犯/息子がいる/イワノフと同名であることを把握している/まともだけど自分がおかしいと精神病棟に入れられていると主張している。

  • 【イワノフ】
    精神病/オーケストラが聞こえる/アレクサンドルと同名であることを把握している

ここから「大佐」にとって好都合なのは何かって考えると、作中で言っていたとおり「アレクサンドルが負け(=自分が間違っていた)と認めること」であるに過ぎないんですよね。他はどうでもいい。だから同名で、その質問をすることも”敢えて”やったのだとしたら鳥肌がたちます。

「アレクサンドル」がその返答ができる様子を伺い、待ち、その上で「あえて」イワノフに問う形だった?策略家(意味論という学問をするにあたっての発想)だと考えたらもうなんだ…大佐は将棋とかチェスに於ける名手ですよね。先の先の先を読む力。

 

”全部うまくいく”ってなんだ

そんなかんじでだいたいオッケーって言われても1ミクロンもオッケーじゃないわけなんですが(笑)そもそも「全部うまくいく」っていう「うまくいく」って何?って考えるとアレクサンドルや大佐(社会側)って違う方向を向いているし相容れないんですよね。

で、みんながぶつけあう。何このずっと投げっぱなしのドッジボール。受け止めないどころか「オラッ!!喰らえ!!そして外野にいけ!!」みたいなかんじが半端ない。

着眼点がそれぞれ違うから理解し合うことは120%無理なわけで、「アレクサンドル」が社会側の言葉を飲む形は有る種棄教にも近しいものではないでしょうか。

なにそれ完全に遠藤周作の沈黙じゃないですか。

 

沈黙 -サイレンス-(字幕版)

めっちゃしんどい。めっちゃしんどいがすぎる(二度言う)

▽「沈黙」の映画感想

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自分がその意思でなお死んだほうがましだと取るのか、という理論でいうと布教にしきたけど弾圧されて「棄教」することなく死んでいったキリシタンたちと同じなわけで。

アレクサンドルは「意思を貫けばまだやれる」という言葉を言っていて、これは自分を信じている別の種(人)が自分が死することでつながっていく考えなんじゃないかなとも思いました(「板垣死すとも自由は死せず」的な発想に近いかもしれない)。

ただそれを他でもない自分の分身であるサーシャからの否定が入ることで歪んでいく部分もあり(少なからずそれで心はわずかながらも波打っているように見える)…だからこそ最後のシーンを「どう」取るのかが非常に聞き手/観客に委ねられているように感じられました。

 

じゃあなぜこの見解のズレが生じるのか。

「トロンプ・ルイユ」*2に近しいものを感じます。

一つの作品を見て、どう見るのか…っていうあれですね。

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エドウィン・ボーリングの有名なものから

例えば上記の絵には「女性」が描かれています。

果たしてこれを「若い女性」と取るか、「老女」と取るのかは人の目線によっての違いです。そしてそれは結局「どちらも正解」であるわけで…。

本作に於いても見かた一つでコメディ/シリアス/サスペンスどれにでもなりうるのかな…と感じます。そしてそれを感じやすくさせるのは個々人の環境等にも起因するのではないでしょうか。

 

あの作品は「誰」のもの?

今回一緒に見に行った友人は「これ、大佐の議事録…記録から派生した考えだったとしら相当な補正かかってるよね」というお話をしており、なぜ大佐が客席から来たのかという考えを示してくれました。

言われてみると「あれだけめちゃくちゃ表に名前が出てきた」大佐が何故かまったく後半の最後のワンシーンまで出てこない。それこそ回想とかで出て来たっていいのに。なぜか出てこない。

じゃあなぜか。

「大佐はあくまでも”探偵”としての枠では?」という意見でした。事象が起きてその解決に至るまでを俯瞰する探偵。

ノックス十戒及びヴァンダイン20則を踏まえて考えていくと本作品は「なぜこうなったのか」という探偵役に大佐を据えているようにも見えてくるんですよね。突然の探偵小説。

  1. 犯人は物語の当初に登場していなければならない
  2. 探偵方法に超自然能力を用いてはならない
  3. 犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない(一つ以上、とするのは誤訳)
  4. 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない
  5. 中国人を登場させてはならない
  6. 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない
  7. 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない
  8. 探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない
  9. サイドキックは自分の判断を全て読者に知らせねばならない
  10. 双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない

    ノックスの十戒より)

 

まぁこれをいうと前回のブログで書いた「アクロイド殺し」とかも含めて色々考えさせられてくわけですが…。

意味論として大佐が「この男に《自分は精神異常者だ》とさせるための事実」からの議事録、振り返りとして書いていけば「医師のカルテ」から紐解ける部分は数多くあり、それまで「登場」してこなかったのにラストに出てくるのは「謎解き」パートとしてありかなあなんて。

そうやって見るとこの作品は「犯人がどうやって犯行に及び、それを探偵がいかにして謎解きを行ったか」というふうにも見えるなあという風に感じました。

 

「愛がなければ視えない」というのはうみねこのなく頃に重要なキーワードとして特記されてきましたが、その理論で行くと「愛」と「憎」は紙一重と仮定し(愛憎、という言葉から)

「愛」を向けるのはどこかと考えるとアレクサンドル(→「敵意」という憎の紙一重で)、そしてその対比として「無関心」のイワノフと描けば非常に興味深いです。

 

また、その理論でいくと、「イワノフ」という男についてのバックグラウンドが「オーケストラと食事をオレはしたぞ!!」という部分しか彼の口から書かれていないっていうのもうなずけます。イワノフという男が「どうしてこうなったのか」「なぜなのか」という部分がない分、それはアレクサンドルの対比になっているようにも感じるのですが……「大佐のレポート」「記録」という形であれば、なるほど、まぁそこらへんカットするよなあ…とも。

 

ロジンスキー」という人

 「実名でロジンスキーという人はいないんだろうか」と思って調べてみたら、”アルトゥール・ロジンスキ”という方にぶち当たりました。

その方について調べてみるとオーストリア出身の、アメリカ合衆国で活躍した指揮者かつ、時代的なものを見ると本作ができる前に生き抜いた人です。

この作品はトム・ストッパードとアンドレ・プレヴィンが「こういうのやりたいよね!!!」っていうのの話の流れで出来上がった作品でもあり、音楽家であるアンドレ・プレヴィンが「ロジンスキ」を知らなかったなんていうことは果たしてあり得るのか…?と考えると答えはNoではないでしょうか。

 

ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団音楽監督時代に、その強大な権限を行使し、厳しい練習と楽員のリストラを行った上で、その無理やりねじ込んでいくやり方にリストラされなかったメンバーとの諍いも耐えなかったお人だそうで…。楽員のリストラは「血の浄化」と言われるほどで、そのお話も聞いてて「ヒエッ…」となるほどです。

ロジンスキー自身、身の危険を感じ、拳銃を忍ばせてリハーサルに臨んだという話も書かれており、「そんなんある!?!」って思っているのですが…、それぐらいのピリピリとした緊張感(※悪い意味で)があるわけですが、彼については経営者側との衝突も絶えず、彼が音楽監督を辞任する際にはオーナーのアーサー・ジャドソンから「音楽の進化を不可能にした独裁者。」と非難されるほどであったことが解説されていて「独裁者」で「指揮者」で……っていうことを踏まえてみるとこの人が与えた影響というのは果たして0とは思いにくいなあと考えます。

 

息子さんによってその「とんでもねえ」なライヴ録音も現在は販売しているらしく*3正直「クラシック音楽」についての知識が私はネオロマンス金色のコルダを筆頭にあげるくらいのゆるふわ民なので「指揮者によって音楽は変わる」というのぐらいしか念頭になかったためめちゃくちゃビビりました。

アルトゥール・ロジンスキ指揮 チャイコフスキー:交響曲第4番 他

アルトゥール・ロジンスキ指揮 チャイコフスキー:交響曲第4番 他

 

 

ただ、「指揮者によって同じ音楽も変わる」という意味合いで言うと「同じ規律を持った組織」でも「それをタクトをふる、総司令官(ないしは支配者)が違う」だけで良いようにも悪いようにも規律は変わる……っていうのは本作の《社会》の縮図としてさもありなんだな、っていうふうに今、この瞬間書いてて思いました(笑)

 

5回目の観劇から視えたこと

この日は非常に前の列で見られることでよりいろんな人たちの表情、また、客席にたった状態の彼らの表情も見ることができました。

その上で気づいた「大佐本当にイワノフのことを見ないな」っていうのが印象的で。客席を通って最前の列を歩く時、彼はほんの少しだけ頭を揺らし、視線をくべた先がありました。アレクサンドルでした。

「う、うわ~~~」ってもう4回目の考えをまとめている中だったので思いましたよね…本当に…なんてこったい。

 

イワノフはなぜヴァイオリンを大切そうに抱えていたのか

最後のシーンについて、アンサンブルに囲まれてイワノフはアンサンブルから手渡されたヴァイオリンをアレクサンドルに渡そうとするものの、それを拒まれ、それを嬉しそうに抱きかかえて、かつ「高笑い」に近しい大きな笑顔を浮かべていました。

これについてなぜ?と考えたのですが、「オレはヴァイオリンを手に入れたぞジョジョ~!!」という自慢の発想なのかな、と考え、次に出てきたのは「イワノフにとってのアレクサンドルの位置が降下したのではないか」というものです。

 

 1つ目で言うと「ええっこれの価値がわからないのかい!?人生半分損してるよ!」みたいなまあそんな考えだったんですが、そうするとイワノフは「社会に属する」ことについて彼の願いどおりになった(4回目の考察で「彼は他の誰でもない世界に入りたい」という仮定を立てた)のかなっても思うんですよね。

 

で、2つ目は「集団的に属している生き物」の考え方からです。狼や犬などの習性にあるものなのですが、「集団行動をする動物として群れの中にリーダーを作る」のがイヌ科の特徴です。まぁこれはヒトもしかりですが。

petokoto.com

こちらの方の記事を読み、「しつけ」を行ったときの主従関係を踏まえると「社会」という枠に「帰属」しておいたほうが有益であるとイワノフに”思わせている”というふうにも感じます。この方の「リーダーになるしつけはもう古い」で逆説を考えると「ホンが書かれた当時ではそれが主」になるわけで、「主が明確化されること」によっての帰属は犬もヒトも変わらないんじゃないかと思います。

で、これでめっちゃわかりやすいのが「はだしのゲン」です。

 

〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

 

 よっ私のトラウマメーカー!!

こちらは戦時中の日本を描いた漫画で、小学校などにも置かれている本です。

この作品に出てくる鮫島伝次郎という町長がめちゃくちゃ私は嫌いなんですけれども、先見の明はあるんですよね。自分の立ち回りがうまい。

「戦争をしている日本は正しい」という部分(国のために生きて死するべき、非国民として扱う)、そしてそれが終わった途端の「反戦主義者」としての描き方。

これは社会としてのリーダーが変わることでの起きる出来事として非常によく描いています。「おいお前さっきまでこっち言ってたじゃん!!!」って意味で。

彼をこの理論で行くと「どちらが有益なのか」見て、それに応じて動いているパターンだと思います。

 

狂人とはいえ「ヒト」であるイワノフをこの理論で当てはめていくと、それまで「同等」であったアレクサンドルがいて彼の考えに「賛同もしなければ否定もしない」状態であった。

ただ、そこから医師という存在に全面的に自分の考えが「肯定」された。大佐にも「褒められた」これは《社会》という一括りからの彼への肯定になるわけです。

で、その段階で彼自身には「有益」「有利」になったわけですよね。アレクサンドルが拒否しているのに対して「自分はこの立場を手に入れた」「自分はこうしておいたほうが良いと知っている」「自分はオーケストラに入っていいと言われている」という部分からのニュアンスで考えると、戯曲における「トライアングルを鳴らしながら、オーケストラの中に入るイワノフ」とも合致するんじゃないかなと(戯曲との意味合いは変わってくるけれど)。

 

深淵を覗く時……

かの有名なフリードリヒ・ニーチェの言葉で「深淵を覗く時、深淵もまたお前を見ている」という中二病の人(私)が好きな言葉があるんですけれども。

まぁこれはPSYCHO-PASSでさんざん話題になっているしMONSTERでもネタになっているし二次元御用達の一つでもあるんですけれども(笑)

この言葉をふと全部を通して思い出しました。

なにかっていうと、冒頭でアレクサンドルはサーシャに向けたリリックで「あっちのベッドにいるのは」とイワノフのことを紹介しています。

俺は、オーケストラなんていませんよ、というべきか。

きっと言うさ。

 この下りがあります。勿論リリックになっているので噛み合わせている部分はあるのでしょうが。結論的に言うと一番最後の審判のとき「オーケストラはいない」と彼に言っています。

アレクサンドルは「イワノフ」に向けてオーケストラはいない、と言っているように私には感じられます。視線がイワノフに向いているので。

全てに対しての結末が冒頭に凝縮されていて、あの「暗くて」「音のない」「沈黙の楽団に耳を傾けている」彼に言う。それは戦いは同じレベルの者同士でしか発生しない!というものに近しいというか。

ミイラ取りがミイラになっているというか、彼自身がモンスターと化してしまって深淵に覗かれ飲み込まれていってしまった結末にも感じられました。

 

第1話

犯罪係数が追っている間に上がっていった狡噛さんをこう…思い出させましたよね…。(画像は常守朱だけど)

 

サーシャの「父親殺し」として

本作をエディプスコンプレックス等で有名な「オイディプス王」の”父親殺し”という考え方の目線から考えるとサーシャとアレクサンドルという「分身」である息子の変化から感じ取れるものがあります。

父親殺しはカラマーゾフの兄弟についても触れていく部分があって「権威」「権力」からの脱却にも近いものを感じます。

 

 私は亀山さんのを読んでクッッッッソ意味わかんない(正直)ドストエフスキートルストイロシア文学積んだわ~って途中でそうそうに投げまくったなった人がちょっとずつもうちょっとだけ読んでみようかなと思った人なので(笑)ご紹介。

父の支配のもとにあったサーシャが「パパ」に対してそれは違うと言える、というのはあの瞬間にサーシャがアレクサンドルに対してナイフを突き刺すことができた瞬間の一つでもあるんじゃないかなと。

たまたまつい最近「小説王」という小説を読んだ中でカラマーゾフの兄弟が題材に上がっていたのでそちらもぜひ触れてみてほしいです。あの点に関して作中では「怒り」という部分、また父殺しに対しての解釈が面白かったです。

 

フード理論から考える「良い子はみんなご褒美がもらえる」

お菓子研究家の福田里香さんが以前フード理論を展開しており、そのときにこのようなものがありました。

  • 善人は美味しそうに食べる
  • 正体不明者は食べない
  • 悪人は粗末に扱う

この作品における「善人」「悪人」とは何なのか、という理論で考えるといささかまた混迷するんですけれども、”食べ方”もしくは食べ物というものだけで考えるとイワノフは他人の食べ物だろうと実に美味しそうにむしゃむしゃ食べるんですよね。それが下剤だろうと。

また、アレクサンドルは「食べない」というハングリーストライキを起こしています。この理論で行けば彼は食べないという選択肢を行った上で「どちら」にも転じるように視えます。

一方で「アンサンブルの看守(看護師?)《社会》」はどうなのか、というと、トレイで腹パンしてるんですよね。いやだめだろそれご飯が揺れるでしょという見かたもできるわけですが(まぁそもそもアレクサンドルがちゃんと食べればこんなこと起きないよって言ってしまえばこれっきりですが)、そういう意味では「粗末」に扱っているようにも見えるわけです。

 

良いのは誰か。悪いのは誰か。この作品は見かたで本当に万華鏡みたいにぐるぐる変わる。その一つの見方で、「食べもの粗末にするやつは悪いやつだ!!ゆえに!!社会は悪いぞ!!」っていう見かたもできるんですよね(笑)

だから「いろんな見方ができる」という作品としてあの理論が、こっちの理論もあり得るぞ~!とか引っ張り出してあーでもないこーでもないできるのは非常に面白い作品だとしみじみします。

 

プルースト効果から考える

プルースト効果とは「失われた時を求めて」から出てくる無意識下でイメージを作る描写なのですが、「EGBDF」という幼い頃に植え付けられた「そういうもの」という認識はある時ふとした状況で思い出すのではないかなと。

√2を見たら「一夜一代に夢見頃」、「パイ」を見かけたら3.14(円周率でも可能)、っていうのと同じように「ぱっと見てそう思い出す」というのは記憶の片隅に有るものを蘇らせるものです。

だからこそ、何度も何度も反芻させるように流していた「パパ、言うこと聞いて」の音楽は、サーシャの言葉としてなのか音楽としての「いい付け」として「かくあるべき」という発想を植え付けたプルースト効果を引き出そうとしている…なんて発想もありじゃないかなって思いました(笑)

 

お芝居への所感

何の舞台でもそうですが、初日がぴりっと張り詰めているのは当たり前のことでlそこからはひたすら「走り続ける」上で、日常になっていくような気がしました。日常の中の非日常。非日常が「日常」に組み込まれていく瞬間、というか。そんなものを感じます。

だらけている…という言い方は悪意があるので違うんですが、「どう反応されるのか」「どういうふうに見られるのか」という芝居であると感じた初日に比べて慣れがどうやっても出てきてしまっていて、何度も誰かを演じる、何度も同じ展開であることへの難しさではないでしょうか。

勿論悪いって言ってるわけじゃなくて、体感的にそうなってしまうのも仕方ないなと思うし、観客(私)にも言えることだよなあと思いました。自分自身もまた複数回入っているので、両者にとっての「難しさ」であるとも思います。

どうしたら新鮮な気持ちで見ていけるのだろう。どうやったら「非日常」としてより受け止めて楽しめていけるのだろう。ストーリーを把握しているからこそ、次のセリフをわかっているからこその難しさなんじゃないかな~とぼんやりおもいます。

 

観客に対してと言うか、SNSで検索をかけたときに「拍手のタイミングがあまりにも早くて余韻に浸れない」というコメントをお見かけして、実際に複数入ったときに終わる”タイミング”がわかる人と、初回の人がそれぞれにいて「えっココで終わりなの?!」という気持ちや、じーん…とこの世界に浸っていた中での現実への引き戻しというジレンマがある作品だからこその難しさではないでしょうか。

自分が果たして早いのか、遅いのかはわかりませんが、「1回しか入らない」人がいるということもまた事実だと思うので、その一回一回を全員が噛み締められたらいいよなあ……って思います。気をつけたいところです。

 

私が見た回では今の所初回が一番好みのお芝居だったなというふうに感じていますが、一方で芝居を進めていくにつれて、より流暢だったり、より「芝居に対してその人として流暢な喋り方」になっているポジティブ要素もありました。

細かい違い(イワノフが手を大きく最後に大佐にむけて振るシーン等)も「変わっている」という部分がありますが、何よりも聞き取りやすくなっていたり、表情に対して変化を付けたり……という「後半になればなるほど貯めるのと放出するメリハリが出てくる」部分もあるように思います。だから「どちらがいいのか」って言われるととても難しく、だからこその良さでもあるのかな、なんて結論づけています。

 

また、5月9日、橋本良亮くんのえびブロが更新されました。

どんなふうに「イワノフ」を演じるのか。どんなふうに「息づくのか」っていうのはしごく当然ながら橋本くんの采配一つになるわけです。

この瞬間、彼は「本作のイワノフ」という枠においての 指揮者になるわけで、どんな音楽を彼の持っているオーケストラで私達に伝えてくれるのか楽しみです。

また、同時に彼が「楽団」の一員として「求められたイワノフ」を還元し、「オーケストラ(ファミリー・座組)」として、「良い子はみんなご褒美がもらえる」がよりよい形になったら、そして新しい発見を与えてくれたらと観劇する一人として期待しております。

無事に東京が終わり、東京から大阪へ、しかもスパンを空けてのタイミングでの上演になるからこそ「どんなふうに変わるのか」が楽しみです。

 

全部終わったら「お前まだ書くのか……」と言われそうですが、また感想をうお~~っと雑感ふまえて書いていけたらと思います。とりあえず、今回はこのへんで。

なんだか書けば書くほど混乱している気がするんですが、まぁそのへんは許してください!(笑)