柑橘パッショナート

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Paraviで「北斗 -ある殺人者の回心-」を見ました

Paraviに登録して久しいのですが見るものがとても偏っているので「こういう作品もあるのだなあ」とネットサーフィンのようにザッピングするように最近しています。
結果的に、今まで見なかったようなコミカルな作品に出会えたり、一方で今の精神衛生上は120%よろしくないからいつか見よう――そう思って数年経過してしまった作品に再会できたりと、サブスクリプション特有の特徴で楽しんでいます。

「いつか見よう」となっていた作品のなかで、丁度目に留まったのが「北斗 -ある殺人者の回心-」。

 

WOWOWでの放送が決定した時にインターネット上でさらっと見かけた記憶があり「いつか見よう」と思っていた作品だったのですが、見そびれていた作品です。
一挙見することが出来たので、ざーっとですが感想を綴っておこうと思います。
それにしてもWOWOW作品もこうやってサブスクリプションしてくれるのありがたいなと思います。時間帯に何かしらとかぶってると録画しそびれちゃったりして、そのまま見れなくなるって結構ありますよね(WOWOWは何度か放送してくれる+最終回直前に一挙放送もしてくれますが)

ということで感想雑記として綴っておきます。


 

本作品の原作小説について

原作は「池袋ウエストゲートパーク」や「約束」を綴られた石田衣良さん。

両親から激しい虐待を受けて育った少年、北斗。

誰にも愛されず、愛することも知らない彼は、高校生の時、父親の死をきっかけに里親の綾子に引き取られ、人生で初めて安らぎを得る。しかし、ほどなく綾子が癌に侵され、医療詐欺にあい失意のうちに亡くなってしまう。心の支えを失った北斗は、暴走を始め―。孤独の果てに殺人を犯した若者の魂の叫びを描く傑作長編。第8回中央公論文芸賞受賞作。

(原作小説「BOOK」より引用)

 

 

 此方が原作小説。映像のキービジュアルとやっぱり雰囲気がちょっと違って見えますね。

回心は「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す」ということですが、「改心」ではない理由というのを本作ドラマを見ながらつらつら考えていました。

原作小説は残念ながら手にとったことが無かったのですが、概要を読んですでに心が潰されそうな作品だな――と構えていたのですが、こうやってドラマなどの映像になることで知る機会がまた増えていくことありがたいな、と思います。


本作品について

脚本・監督は映画『脳男』『グラスホッパー』の瀧本智行氏。
近年だと「去年の冬、きみと別れ」(2018年)を手掛けています。去年の冬、きみと別れは友人に勧められて見に行ったのですがテレビの予告などを一切見てなかったので良い意味で裏切られた作品でした。TVの予告編だいぶハイライト的ネタバレしちゃっててもったいない。


ちなみにこの「北斗」は彼の持ち込み企画らしく、WOWOWに二度落とされているということで、気持ちが強いことが伺えます。*1

主演はジャニーズ事務所中山優馬君。

彼の作品について余り細かく知らないのですが、ジャニーズ主体のエンタメショウであるPLAYZONEや、堂本光一さん主演のEndless SHOCKに出ていたりと何かとお芝居を中心にご活躍をされている印象です。(PLAYZONEは手持ちの円盤でご活躍されていました。気持ち若い)

しっかりとお芝居を見たのは多分映画のバッテリーぶりぐらい。個人的にとんがりコーンのCM出ていた記憶があります。
さかなクンに似ているとご自身で言っていたような、そうではなかったような――それぐらいのふわっとした認識です。

 

また、「蜜蜂と遠雷」の舞台版も風間塵を演じていると聞きました。*2
「シンフォニー音楽劇」とタイトルが変わっているとのことでしたので、どのように変わったのかの興味があります。

此方の朗読劇、初演のときは橋本良亮君が同じ役を演じていて、その時の印象はつらつらブログに書きました。

 

amanatsu0312.hateblo.jp

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その後に三浦大知くんが起用されているのを見て「三浦大知によるひかりを聴け聞きたいな~~~~~~~」とすこぶる思った思い出あります。

 

映画はドラゴン桜以降、話題の鈴鹿央士くんのデビュー作です。

「多分これは実写化不可能だろう」といわしめた作品を実際に形にしていった美しさみたいなのがあった劇場版(松坂桃李くんが非常に良かった)、朗読劇版の3人。それぞれに「見せ方」は違うでしょうしどんなふうに違ったのだろう、なんても考えるばかりです。

「多分これは実写化不可能だろう」といわしめた作品を実際に形にしていった美しさみたいなのがあった劇場版(松坂桃李くんが非常に良かった)、朗読劇版の3人。それぞれに「見せ方」は違うでしょうしどんなふうに違ったのだろう、なんても考えるばかりです。原作小説の軽やかなピッチで動きつつも青春群像劇としてのアップダウン含めて面白くてコンピレーションアルバムを買ったのは良い思い出です。

そんな風間塵と絶対キャラクター性として180°異なる北斗をどう描くのか――どうキャラクターとして受け止めながら演じるのか、非常に気になっていました。

 

感想雑記

「どうしようもない」けど「どうにかしたい」

お話として、非常に粛々と進んでいく作品です。

全7話という昨今のドラマ市場のコンパクトさを伺い知れる(昔って1クールで12話あったと思うので)(何なら2クールぶっ通しで24話やってるドラマも多かったような印象があります)なかですが、この作品はもう最終的なポイントが「どう」なるのかが分かっているような形で、それがゆえにじわじわ浸食されていくものでした。

誰にも愛されることなく激しい、激しすぎて1話でこれはドラマ切ってもいいかもしれない……と思いたくなるような描写が続きました。

 

最近「オッドタクシー」というアニメを見て「動物だから、アニメだからできる“ほのぼの絵柄だから見れる部分は世の中確実にある”」ということを実感していた中だからこその、突きつけてくるというか目を背けたくなる描写の詰め合わせが凄かったです。

オッドタクシーもじわじわ侵食する感じはありましたがダイレクトな描写思えば少なかった(ないとはいわない)なと。

amanatsu0312.hateblo.jp

 

「聖者の行進」「人間・失格~たとえばぼくが死んだら」等が私はとてもトラウマレベルで苦手なのですが、それとは違うにしても同様な「見ていてしんどい」の流れが本当に心をえぐっていて、そういう意味で本作もまた「これは…つらい…」と顔を覆いたくなりながら見ました。なるほど確かに地上波ではやれない。

いじめ、虐待をテーマにした作品というのは色々ありますが、そのどれもやっぱり描写は昨今のコンプライアンス含めて考える作りになっているのかなと感じます。勿論そうじゃない作品は漫画や映画等でもありますが、そういったものは「選ぶ」という中でうっかり見てしまわないような形になっているのかな~とも。


ずっと“つらい”

前半が「つらい」で中盤が「つらい」、そして後半が「つらい」なのが本作なのですが、其々における「つらい」のベクトルが全部違うのが印象的でした。

最初は幼年期からの、肉体的に「痛い」になっていくこと。北斗という人物の人格形成にあたって、確実に“普通”ではない環境下におかれて始めから崩れていることがよく分かる流れ。
両親からの虐待があって「はやく救済してやって…救済してあげてよ…」という気持ちがあって、ようやく父親と死別して少しは報われるかと思ったら依存体質、そうであることが当たり前になった同じようにバグってしまっている母親からの自らへの暴力の肯定は「もうこの子を踏み外してやるなよお!!!!!!」と心から思いました。
暴力への依存は、ストックホルム症候群*3に近い感情なのだろうと思うのですが、絶対メンタルケア必要だし、そんなどうにかこうにかなるって問題じゃないし、でもじゃあこの環境から手を差し出すのだろう、とも考えさせられました。

結果的に「父親と同じ」にならなくてよかったと心から思います。別のベクトルでまた変わってしまったけれど。これもまた辛い。


実の母親に抱きしめてもらって、もう大丈夫だからと言ってもらいたくてもそれも出来ない。むしろ同じことをしろと恐怖を「与える側」として求めてくる。
このジェットコースターとも言えぬ急降下をどう言葉にしたらいいのだろうと思いましたし「この作品救いないのか?!」と正直思いました。


だからこその中盤の、里親である綾子の存在がキーになってくるのですが、このくだりから少しずつの浮上に本当に真っ暗な世界に僅かわずかな灯が見えました。
人に恵まれたからと言って消えることはないからこそ、今一度「自分自身」として北斗が綾子と生きていく姿に同じドラマながらに章が変わったような気持ちになりました。
まぁそれも突き落とされるんですが。
綾子を演じていた宮本信子さん、あまちゃんの夏ばっぱのイメージが非常に強くて「あさイチ」にゲストでいらっしゃったときに「あま受け」(井ノ原くんと有働アナの反応)を楽しんでみていたことが発覚したときのチャーミングさが印象的でした。ひよっこの鈴子さんもいいですよね。NHKドラマのキャラクターたちは芯があって、それこそ明確な「強くて」「明るくて」「かっこいい」人達の印象なのですが、今回の綾子は芯が通りながらすらっとした印象です。北斗との言葉の応酬で柔らかな心で尖ったもの、真っ暗なものを少しずつ溶かしていくのが伺えたからこそ諸々が辛い。

 

「完治する」ものはないから、縋りたくなる

綾子の闘病生活も虚しく、そして彼女の友人経由で知ってしまった「治るといわれている水」へ手をのばすというのは、すごくあり得る話で。
心が弱まっているからこそ、信奉しているからこその綾子に対しての思いが強くて、そして儚くて悲しい。

2人に1人が癌だといわれる時代だからこその止める人がいたら違ったのか、という疑問もありますが、もしそうなったとしても「彼は止まれなかったんじゃないかな」というように考えます。もうこれに関しては運命の歯車というほか言いようがなかった気もする。

絶望しながら逝くことも辛い。もし知らなかったままなら、騙し騙しでも、とも思うこともあります。

まぁだからといって医療詐欺をした相手を許せないという気持ちはすごく同意なのですが。社会的な報復があってほしいと願うばかりです。作中の中なのに怒りしかなかったです。

自分の身の回りの人間で、大切な人がいるとき、そうなった時果たして自分は縋らないという確証を持てるのかという自らへの問いかけにもなりました。そうなりたくないけどそうなるかもしれない。人は弱っているときに一番当然ながら付け込まれやすいですしね…。


法廷に立つ人々の芝居が印象深い

北斗が粛々と、淡々と、冒頭で手にかけてしまった人への罪の重さは受け止めている一方で医療詐欺を行った生田への怒りを決して手放さず、そこにあるのは鬼といえるようなもので、目が虚ろで本当にナイフどころかむき出しの真剣みたいにギラっとしているような単調さが怖かったです。判決を受け止める、だけど感情は別。オーディションを受けたという中山優馬くんのチャレンジ精神すごいなと思うのと同時にこの「北斗」という人物を演じるにあたっての解釈や読み込んだ上での役作りはきっととても苦労しただろうな~と。それぐらい良い芝居でした。

お芝居をするにあたって、どういうもののどういうシーンが「良い芝居」になるのだろうかと考えるのですが本作でいうと特に印象的だったのは、とにかくこの北斗の法廷シーンでした。

感情をむき出しにするから良いのか、それとも静かだからいいのか、喜怒哀楽の中に見え隠れする闇がいいのか、とかいろんな意見が出てくると思うのですが、この物語における終盤の、粛々とした空気感での法廷というのは重さで潰されそうなものでした。

証言台に立つ一人ひとりのお芝居に重点が特に当てられていて、最終話は特に「大きな波」はないからこその、その狭い世界での彼のここまで、そして罪を犯したことまでの流れを語られます。

弁護側の婚約者、母親、養護施設の人間。また、被害者家族としての登壇。
彼の過去を粛々と語られているシーンに息がつまるばかりである一方で被害者側の、遺族側の「そうだとしても、やったことは許されない」という無念さも感じるシーンが多かったです。

「どんなに辛い人生だろうと、どんなにひどいことをされても関係ない人を手にかけた」ということは変わらない中で、一方での尋問は辛かったです。事務における一般的年収とあまりにも「違う」年収を受け取っていることを示唆した弁護士は本当にやり手で、「うわ~~~~!!!!」と感じさせるのですが、一方であえて追求するのではなく、「一般的にはこれくらいといわれていますが、亡くなられた人はおいくらでしたか」と聞き、その倍額だったことを遺族にいわせた上で「終わります」という。恐ろしい……わかるけど恐ろしい。

北斗に対しての罪を少しでも軽くするために奔走している中で、世間からのバッシングは当然な上でこのことを突きつけるというのは、世論的に「被害者も実は知ってたんでは?」「加担していた説はないのか?」と思わせるコントロール的なものでもあって見てて肝が冷えました。そりゃ遺族の息子はキレ散らかすだろうなとも…。自分があの事件が実際にあって、ニュースを見ていたら北斗を残忍な人間だと思うし、それは死刑であっても仕方ないと考えただろうし(ニュースで見る一面というのはどうしたって断片的なものだろうし)その上で弁護士がこういったことを持ち出してきたら「何て非道なんだ!」と憤っていたかもしれない。


誰もが「同じ」ではないからこその、遺族のそれぞれの思いが苦しかったです。

母親が殺された息子は北斗に怒りをむき出しにして、無表情でいる北斗へ「舌を噛み切って今ここで死ねばいい」と言うわけです。これは北斗の父親が最後に死んだ時と同じようになれと言っているわけで――勿論視聴者は北斗の流れを見ているからこそ「なんてことを言うんだ」「鬼はどっちだ」とか悲しみと怒りを抱くのですが、一方で間違いなく彼は母親を理不尽な形で失っているからこその言葉です。そもそもここに至ったのは誰が行ったからだ?という問いは北斗が罪を犯したからで――とグルグル同じことへの問いかけになります。

父親と息子は同じ考えではないですが、「妻/母を失った」ことは事実で、戦う意志はあります。北斗を赦さないだろうし、それは当然でしょう。

けれど一方で姉/孫を喪ったもうひとつの家族は違った顔を見せます。姉が収入源であり、逼迫した家を支えている大黒柱であるなか、弁護士が言った言葉は証言台に立った妹はとても苦しかったことでしょう。と、同時に「危ない橋を姉は渡っていたのかもしれない」という心の隅っこにある仄暗い何かもあったかもしれない。どちらにしても、その上で、祖母と話し合って「もうこれ以上人が死ぬのは見たくない」と彼女は言います。ボロボロ泣いて、姉なら何を言うのか、祖母と一緒に考えて、同じような遺族が「赦さない」といった上で。

北斗に同情しているのではなく、けれども彼女たちなりに考えた結果だからこその痛みを伴いながらの考えであったと思うし、このときの女優さんのお芝居が対比としてとても悲しく、けれども強く描かれていました。

感情として「怒り」とは強いパワーを持っていますが、それを違う形に選ぶというのはとてもむずかしいことで、彼女の言葉というのはニュースで仮に出た時どのように湾曲されてしまうのだろう、とも感じていました。

 

だからこその、最後の「生きていたい」と、言葉を紡ぐシーンは実母が証言台に立ったこと(背景としてすでに別の男と結婚して、幸せな家庭を築いている上で自らが行ったことへの罪を認めることになるわけで、出廷したこそもある種奇跡)、自分を待つという婚約者、そして遺族の言葉も含めて考えて考えて出てきたものでしょう。

食べて、排泄して、日常を繰り返しているという言葉。どうなってもいいと思いながら、それでいながら自らは粛々と繰り返しているものがある。苦しい、しんどい、死にたい(死んでもいい)となりながら、でも目覚めて、食事をして、排泄をして、眠って、を繰り返す――というのはどういう気持ちなのだろうと改めて自分自身の「生きる」とは、と考えさせられた次第です。

 

また、判決からのキャストロールがBGMではなく粛々と閉廷してからを描いているのも印象的でした。

残忍無惨であることは間違いなく、けれど受け止めて生きていくしかない、償っていくしかない北斗と、遺族の父と子。泣き崩れる祖母と妹。遺影をただただ大きく掲げて裁判官たちに「殺されたんだぞ」と言わんばかりの父親と、言葉として牙を向き、北斗や弁護側に「これで終わりだと思うな」と投げかける息子、控訴を進めようとする検察。

間違いなく最高裁まで続くだろうし、どうなるかは分からないからこその「物語としてドラマは終わるが彼らの続きはある」という流れはどういうふうに転がってもおかしくないことの示唆にも見えました。その上で、弁護士の一礼で終わるというのは何ともいえないし、自分たちが「傍聴人」になったかのような描き方にぐっと心が引き寄せられたような気がしました。

 

よいお芝居だったけれど何回も見たいかといわれればそうじゃない作品で、けれど一度見たら心をグッと差し込んで行くものだったなと思います。

メディアを通して北斗を見た時、また物語を通して北斗を見た時できっと印象は違うからこそ、北斗を肯定したいわけでも擁護したいわけでもなく(ストーリー上、どうしても擁護よりになっちゃいますが)俯瞰した時どう見えるのかな――ともなる作品でした。

また、今回はフィルムで作られているらしくて、淡々と、粛々と、派手な動きじゃないからこその動きが見えたのかなと素人ながらの感想を持ちました。きれいじゃない荒々しさだからこそのドキュメンタリーちっくな形により見えるのかな、とも。より邦画っぽい作品だったように感じられる作品でした。

 

中山優馬くんのお芝居、また何かで見られたら良いなあ。

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