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森田剛×吉岡里帆「FORTUNE」観劇記録/悪魔とは常に魅力的な生き物である

先日池袋・東京芸術劇場にて「FORTUNE」が上演されました。ちょうどいつもお世話になっている友人にお声をかけてもらって幸いにも観劇する機会を得ました。ありがたい。

森田剛さんのお芝居はこれまで「夜中に犬に起こった奇妙な事件」、「ビニールの城」をはじめ、色々観劇してきましたが、心を抉るような突きつけてくる現状と「考えさせられる」という作品としてとても楽しんでおります。

で、その中で「パルコ劇場」との組み合わせで考えたらまぁ至極当然に自分の好みの作品であることも感じ取れたので嬉々としながら見てまいりました。以下、その感想になります。

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FORTUNEという世界

※ネタバレはいつもどおりしまくってます※

 

 

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劇場の話

池袋駅から直結。東京芸術劇場にくるのはなんだかんだ回数が重なってきているので舞台の見える印象もある程度わかっているつもりです。

その中での今回の観劇も全体が全体を見れるような座席だったのでラッキー!と思いました(笑)

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いろんな舞台でお世話になってますね

地下から通っていくと雨にも濡れないというメリットがある。あとなにげに地下のおにぎり屋さん美味しいよね。

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東京芸術劇場

 ということで舞台にやってまいりました。キービジュアルを見ていると劇場(映画館の椅子にも見える)に座った森田剛さんと吉岡里帆さんだけという実にシンプルな作りなんですね。

 

舞台「FORTUNE」

FORTUNEという名前からして「未来」という意味なわけですが、どんな内容なのかあえて触れることなく見に行こうとしていたわけです。というか前半は見なかったんですが途中から「これは見なくてはだめだ」と思いパンフレットとにらめっこをしていました。

 

この作品は数年まえ、森田さんが日本版で出演された『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(見に行ってすごい衝撃を受けたのを覚えています)の戯曲を生み出した英国演劇界の劇作家サイモン・スティーヴンスの最新作になります。

 

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

 

夜犬は突然のサッカーネタで静岡で「?!!」ってめちゃくちゃ驚いた想い出がある(笑) 

で、今作のFORTUNEは「ファウスト伝説」を現代に置き換えた作品になります。

ファウスト伝説というとゲーテのそれの印象があるんですがメフィストフェレスといえば昨今ではFate/Grand Orderでも話題ですし、遡れば水木しげるの「悪魔くん」でもメフィストフェレス老は出てきますね。悪魔の名前として言うなら青の祓魔師でもメフィストフェレスという名前でも使われている大変ポピュラーな人物(悪魔)です。

ファウスト伝説―悪魔と魔法の西洋文化史

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主演は森田剛(V6)。そして彼が恋い焦がれる存在を吉岡里帆が演じます。

森田剛さんに関しては年に1度ぐらいのペースでお芝居を見る機会が幸いあって色々考えさせられながら見ています。

 

【空ばかり見ていた】の感想

amanatsu0312.hateblo.jp

 

ストーリー

映画監督として成功をおさめたが、自分を幼い頃に捨てた父親とその自殺という事象から常に喪失感を抱えて生きているフォーチュン。

自分に対して素直に意見をぶつけてくる若きプロデューサーのマギーに好意を抱くが、彼女は幸せな結婚生活を送っていた。

欲しいものが手に入らない焦燥、そして逃れられない悲しみから、出会った女ルーシーに誘われるまま、半信半疑である[契約]を交わしてしまう。

(公式ホームページから)

映画監督として結果を残している一方でどこかしらの穴があるなかで生きているフォーチュンがマギーと出会うところから物語ははじまります。マギーは才女でありながら逮捕歴があったり、ただただ「頭がいい」「はっきりしている」だけではない部分があります。

だからこその彼女に対してフォーチュンが惹かれるというのは見ていて「そりゃ惹かれるよなあ」っていう部分と同時にフォーチュンは線引をしようとしている部分が随所に出ているのが印象的でした。

悪魔との契約じゃないけれど「死神との契約」というとDEATH NOTEをふと思い出すんですけど、何かと契約するなんてろくなことないですよね(笑)死神の目*1システムとか。

DEATH NOTE 完全収録版 (愛蔵版コミックス)

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 舞台の感想

ファウストという作品そのものを現代にアレンジし、その上で現代人特有のものと今も昔も変わらないネジ曲がってしまう人の「感情」がダイレクトに伝わってくるお芝居でした。

フォーチュンにとっては「こんなはずではなかった」「全部うまくいくはずだった」という後悔に悩まされながら生きざるを得なくなり、当初より悪魔・ルーシーと決めていた「12年」という月日のなかで生きなくてはならない。途中で死ぬことは逆に言うと許されないのだということを知ったときの絶望感たらなかったです。

 

前半が「全知全能になっていく」「神になろうとした男」だとしたなら、後半は完全にそんなてっぺんを上り詰めた男がひたすら転げ落ちていく話でもありました。

根本としてこれを「ラブストーリーだよ」というふうにサイモン氏は話しており、キャストたちは「ルーシーとフォーチュンとマギーの三角関係」というように指摘もされていました。

フォーチュンは誰かに自分の父親が自分たちを捨てた上で自殺したという”事実””虚無感”をわかってほしいのと同時に埋めてほしかったんじゃないかなと思いながらも、その空虚を埋めてくれる存在は誰一人として「あり得ない」わけで。なぜならその痛みはフォーチュンにしかわからないし、また同時に寄り添ったところでフォーチュンが受け入れるかどうかは別になる。

才覚があり、映画監督として成功を収めた彼がそれでも「空虚」に苦悩し、安らぎとして「マギー」という女に出会ってしまったが結果追い求め、焦燥をもやし、そして叶わぬ恋をしてしまったのだろうか、とも考えます。

フォーチュンにはもともとスタッフがいて、そのスタッフたちについて「もしかしたら彼らが天使かもしれない」という指摘が記されているのを見た上で見ると、なるほど後半彼らの出番は悪魔に「食われている」わけで。

 

今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者

 

このキーワードはルーシーが唱える部分。過去も、今も、昔も全知全能たる神様(がいる)、というキーワードなんですけれども、この言葉を使う理由ってなんだろうって考えるわけです。

ヨハネの黙示録では「わたしはアルファであり、オメガである」と伝えているわけで、アルファっていうのはそのままαだろうし、オメガはそのままωで、意味は「はじめから終わり」ということだとされていますが……そういう意味ではあの瞬間、あの場所で、フォーチュンは「未来」である自分の名前とともに父親を失ったことで穴があいた「過去」も含めて全てを手に入れたという認識もできるんじゃないかなと。

 

そりゃあハリーポッターダンブルドアのくだりも出てくるし「ウィンガーディアムレビオーサ」のキーワードも出てくるだろうなとも感じる。このへんはサイモン氏がイギリスの人だしハリーポッターという世界的大ヒット作品の浸透を改めて幹事されました。

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より親しみやすくなったと言うか、ほんのちょっとした語感だけでも見ていて楽しかったです。「ググって!」という言葉とかも含めて、すごく現代的だった。 

 

そして何より思うのは「FORTUNE」という名前でおいて未来を奪われる(死期が決定している)ていうのはなかなか…なかなかしんどいものがあるな…とか改めて思いました。

 

悪魔は常に魅力的である

天使と悪魔っていうのはどうやっても常ついてまわる作品だと思いますが、人は天使に憧れる一方でずっと蠱惑的で魅力的なものは「悪魔」であると思います。だって悪魔って人の欲望とか、諸々を詰め込んでいるわけじゃないですか。

だからルーシーも、あの「地獄」「煉獄」のなかに居る人々(悪魔なのか、魂を売った存在なのかは解釈で異なると思う)も、とても魅力的に見える。恐怖と同時に覗き込みたいという気持ちを与えるというか。

ルーシーという悪魔は実にチャーミングで表情豊かです。はずんだボールみたいに話をして、その上で楽しそうに物事を起こす。「ごめんね」という言葉で、罪悪感というか、止めたい気持ちも嘘ではない。でもどんどん崩れていくフォーチュンに対して決して手を伸ばさない。彼女はあくまで、悪魔だから。自堕落に落ちていくフォーチュンを見送って、その上で魂をもらうことが彼女の全てなんですよね。

名前がルーシーなの、名前の由来的に「ルシファー」なのかなあとかも感じたり。そこらへん詳しくないのであれなんですが、知能も高くて……っていうのを見ていると天使が引っ張られっていて堕天したようにも思えました。ごめんねえ、っていう言い方がすべてを含んでいる気がします。

 

で、まぁ思うことは「悪魔っていうのは皆優しい」んですよね。そして前述したとおり魅力的。

最初から牙を向いているのではなく、優しく優しく包んで段々と囲っていって、そして落とす。だから悪魔は「優しい」。そう考えるとルーシーの「ごめんね」も優しい口調で申し訳無さそうではありますが、やっぱり彼女は悪魔なんだなぁとも思います。

ルーシーからマギーは見えるけれど、マギーからはルーシーは見えない。この二人は嫉妬しあうわけでもなく、存在を確認し合うわけでもなく、ただ「あ」る。導きはしないけれど鍵を握っている様相を見ているととてもシュールで、そしてまたとても辛い瞬間だなあと感じました。

 

なぜヤギだったのか

「お前はヤギになれ」って言っているのをみて、「ああ~~悪魔的~!!」ってなりました。生贄と言えばヤギ。

迷うのは子羊だけど、贖罪の山羊こと生贄に使われる(スケープゴートって意味で)、サクリファイスは子羊で、山羊はスケープゴートだから、そういう意味では山羊に代えた理由を考えるわけです。

サクリファイス尊いものを犠牲にする、神が中心

スケープゴート:汚れを追放、排除するのが目的、人間が行う

このへんを考えると、「悪魔的」な力を持ったフォーチュンが排除するにあたっての山羊(悪魔、生贄)に化けさせたっていうふうに考えたらすごくしんどい。

もちろんマジックさ!とマギーに伝えていますがマギーはもともとクリスチャンなわけだから悪魔的な状態、彼自身が悪魔憑きになっていることに恐怖するのは実に当然というか…。

 

マギーの感情はどこまでが真実なのか

作中で「俺が言わせているだけのお人形遊び」になっている段階のマギーとフォーチュンのシーン(実際にはルーシーもいる)が印象的でした。

完全にマインドコントロールでの思ったように動かすけれど、そこにはルーシーがいて、結局ルーシーがコントロールしてマギーが言葉にしている。

じゃあ逆に言うと、「事故」がおきたのは事実だとして、マギーの感情は一体どこが「本当」だったのだろうと考えます。

フォーチュンに向けていたものは「敬愛」「親愛」であったことは間違いなくて、わざわざ彼との面会からスタートするあたりで「好意的」か「懐疑的」かって言われたらマギーは前者だったと思います。が、それがゆえにどんどん仕事上のパートナーになっていって、そこから懸想されていることへの違和感というか、に気づいていく。

ブローチのシーンは正直マギーの行動に「ですよね」って思いました。ぶっちゃけ結婚していてそこが相思相愛大事にしているしそれを知っている上で疑われるようなことをされたくないっていう彼女の気持ちと、尊敬していたいのに自分への気持ちから自分を選んだのではないだろうかっていうプライドが崩れる部分とがごっちゃになっているからこそのあの行動ではないでしょうか。

信頼している上司(またはパートナー)にそれされたらブチギレるよねわかる。

 

でもまぁじゃあ「フォーチュン」に対してどういう感情を抱いていたのかなあって考えました。デイビット(夫)を殺す必要はなかったとフォーチュンは言うけれど、それぐらい心はがっちり繋がっていて彼女の心を向けされることは出来なかったとルーシーは言います。

だから正直【心の隙間】っていうのはなかったんじゃないかな。

一方で言葉の中で「一瞬でも思った」と後悔しているマギーのシーンがありました。果たしてあれはじゃあ「心をコントロールした後なのか否か」っていう部分が出てくるわけですが、私は「否」だと思います。心をコントロールしないで解き放って絶望して、その上で「優しい言葉をかけられる」悪魔的な部分の前述したこととリンクしていくわけで。

正直マギーにとってはフォーチュンこそが「悪魔」であったんじゃないかなあとも感じます。弱い所を救ってくれて、でももう一度たたきつけるっていう意味で’。

 

 

目が語ること

歯が臭くなる、目が色がおかしくなる(見えなくなる)っていうのはフォーチュンがどんどん死期に近づいている+既にもう死人に等しいっていう部分があると思うのですが、彼が最終的に目をくり抜かれてもなお恐怖抱いてルーシーや悪魔から逃げようとしているっていうのは「つっら……」って思います。

追い詰められて追い詰められて、目をえぐられてもなお、彼が恐怖を拭うことも出来ず、極論言うと「誰かを蹴落としても助かろうとする」っていうのは人間的だなあってつくづく。飛散させる、自分が助かろうとして足掻こうとする。その姿は彼の父が言っていたことそのものにフォーチュンがなろうとする。

そのなかで「えぐられても」なお、恐怖が拭えない、そしてそこにあるのは「暗闇というまた別の恐怖」であるっていうのは印象的だなと思いました。

 

人生は長い目で見ると喜劇である

これはチャーリーチャップリンの名言です。

人生は近くで見ると悲劇だが、

遠くから見れば喜劇である。

本作においてチャップリンという人間は死人として描くとともにフォーチュンに大きな影響を与えた人物としても描かれています。

サイレント映画喜劇王。その作品は笑いに包まれていると同時にシュールだったり、実はシリアスだったりします。

古典として映画を作るのであれば…というシーンで常識としてのチャップリン(あとエルビスプレスリー)だとは思うんですがチャップリンの言葉を思うと本作、フォーチュンの人生というのは悲劇であり同時に喜劇にもとらえることが可能であると感じました。フォーチュンの初登場は41歳で、それより前については語られてません。その空白の時間、彼はどんなふうにどんな作品を作っていったのか、とかそんなことを考えたりしてみると見え方もまた変わりそうですね。

 

俳優さんの芝居について

全員お芝居が落ち着いて見ていられてて、作品に飲み込まれるというか、引き込まれるお芝居だったように感じました。

お芝居を通して演者がどんなふうにやっているか、何を話してどれぐらいの距離感で、とかも全部まるっと含めて「作品の世界」に引き込まれていきました。良い意味で非現実感があったというか……森田さんも吉岡さんも田畑智子さんも、完全に作品の登場人物そのもので、その世界の中に飲み込まれていくような旅先案内人ぽさがあるというか……。繊細な表情、言葉、容赦ない応酬。全部含めて見ごたえがありました。見ていて「楽しい!」っていうよりも感じて、考えて、考えて、行き場のないカルマと「人はなぜ業を背負わずにはいられないんだろう」とか、宗教色とか諸々を考えるのにとても良い舞台でした。

*1:寿命の半分を差し出してその分相手の名前を知ることができる

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