先日、「空ばかり見ていた」を東京渋谷のBunkamuraシアターで観劇することができました。
森田剛さん主演でその経緯から友達に誘っていただき、せっかくの機会で満喫しようとお芝居を見に行ってきた次第です。森田剛さんのお芝居は「すべての四月のために」ぶりです。
▽すべての四月のためにの感想
そういえばこれのときのフライヤーも空でしたね。森田さん空率が高い。
こちら入り口ポスターにて。複数人の友人森田さんのファンに「かっっっっっっこよっ!!!!」って連呼されていました(笑)
ということで、のんびり「空ばかり見ていた」の感想を書いておこうと思います。
正直書きながら自分の中で精査できるのかと聞かれたら多分ずっと試行錯誤しっぱなしで、「これが正しいのか」「いやでもこの考えもあるぞ」っていうのがぽこぽこ生まれるような作品であったな……と振り返っています。
「空ばかり見ていた」という作品について
今作は「Bunkamura30周年記念」の作品として、”シアターコクーン・オンレパートリー2019「空ばかり見ていた」”という名前で公演されています。
2019年3月9日(土)~31日(日) 東京都 Bunkamura シアターコクーン
2019年4月5日(金)~10日(水) 大阪府 森ノ宮ピロティホール
作・演出:岩松了
出演:森田剛、勝地涼、平岩紙、筒井真理子、宮下今日子 / 新名基浩、大友律、高橋里恩、三村和敬、二ノ宮隆太郎、豊原功補、村上淳
(オフィシャルホームページ(())より参照)
脚本、演出、自身も俳優として活躍する岩松了氏による作品で、森田剛氏とのタッグを熱望した結果の今作の舞台と聞きます。
私は岩松了氏に関してはテレビドラマと映画のいくつかを知っているぐらいなのですが、今作で初めて「演出家、脚本家として拝見」したわけです。
俳優さんに関しては「ああ~~!」という人もいればはじめましてさんもいらっしゃり、どういうお芝居になるのかほぼ0からスタート。
また今作についてホームページで「見どころ」あがっていました。
「恋愛なんて誤解にすぎない」とはよく言うものの、誤解が解けたときにはたいてい愛も覚めているのだから、果たして「純愛」なんてものは存在するのだろうか。
劇作・演出家、岩松了が、3年半ぶりにシアターコクーンで発表する新作『空ばかり見ていた』は、そんな誤解に気づきながらもなお、恋愛をまっとうしようと葛藤する青年の物語だ。
恋愛は誤解に過ぎないと誤解に覚めるときについての冒頭指摘から「早々に結構ドロドロな予感じゃないか!」とワクワクしていたわけですが(笑)
早速お芝居を見てきた感想を書きたいと思います。
あらすじ
舞台は反政府軍のアジト。反政府軍の兵士・多岐川秋生(森田剛)は、尊敬するリーダー吉田満(村上淳)の妹・リン(平岩紙)と恋愛関係にある。
ある日リンが暴漢に襲われ、指令部のある町に派遣されていた秋生は身を案じ慌ただしく帰還する。
傷を負いながらも、リンは愛する恋人や仲間たちが自分を見守ってくれることに幸福を感じ、回復へと向かう。
命の保証のない日々のなか、結婚に踏み切れない秋生と、その考えを察して共に闘いたいと願うリン、そんな彼女に戸惑う満。
やがて、秋生が絶対的な信頼をおいていた満に対して不信を覚えざるをえないような出来事が起こる。満への感情と連動するようにリンを否定する気持ちがわき上がり、戸惑う秋生。
同じころ、政府軍のスパイが組織に入り込んでいたことがわかり、事態はさらに複雑さを増していく─。
(オフィシャルホームページより)
あくまで今作は架空の時代の、架空の時代の物語です。
で、その上でわかるのは「政府」と「反乱」とでそれぞれ分かれている状態でした。
観劇感想
第一幕と第二幕でのスピード感が劇的に違ったことが第一に驚きました。
第一幕は登場人物と状況の説明をする中で「どういう感情が合って」「どう変化していくか」に注視していった感じなのですが、みやすさでいえば第二幕の疾走感のほうがわかりやすかったかなと言う印象があります。
場所が駐屯地(反乱軍のアジト)での劇で大きく転換するわけではないので、セットはほぼ変わらない中で動き回る人たち。
新選組も作品の描き方次第で全然色が違うんですけれども、見ていて第一に抱いた吉田⇔秋生⇔リンのいびつな関係というのは実に「なるほどわからん」だったんですけれども。なんかそう思うと自分の中で「信頼が揺らいでしまう一瞬」っていうのは「し、知ってるそれ新選組作品の何かでみた」っていう気持ちになりました。局中法度だ…!(ちょっと違う)
時系列が結構行き来しているのが本作の特徴で、冒頭すでに「死んでいる」人がいるっていうのが特徴で、「ああこの人死ぬんだな」っていうのがわかる。それからはその人達が「死ぬまで」を見るのかなって思っていたのですが、過去と現在を行き来している状態だから「今はどっちだろう」という疑問が生まれます。
ライトの使い方で「生死」を描いているという友人の意見で(※この友人はすでに何回か見ているので「なるほどなあ」って終わってから私は感心しました。そういうことか…!)オレンジと青(消灯に近いかな)での生死的な描写。
また、これが「どこまで物語なんだ?」という袋小路に陥るような気持ちにもなりました。
秋生とリンは恋人である一方で、秋生にとっては「リーダー(吉田)に対する不信感なんて自分にはあってはならない、それはリンを愛する形で自分をごまかしている、罰している」というふうにいいます。
尊敬する上司に「俺めっちゃ忠誠誓っています、お嬢さんを俺にください!」みたいな政略結婚的な要素(?)として見てみると結構心がしんどくなるわけですが、リン目線になると、それを見抜いているようにも見える。「だってそう求められているんだもの」と彼女は言う。
その二人の様子を吉田というリーダーがあえて何も言わないっていうのが印象的でした。
ここにかかってくる「土居」という男と「カワグチ」という男の存在がすごく引っかかっていて。
カワグチに関しては最後まで引きずって引きずって引きずっているからこそ「彼という存在は何なのだろう」って考えます。
カワグチは捕虜(政府軍)たる存在で、自分たちの武器であるものを埋めるためにひたすら穴を掘らされていた。
でもって、土居は実質No3的な立ち位置なのかなって印象だったんですが「それだけでもない」ようにも感じていて、私は彼が実際はつながっていた存在なのかなと当初思っていましたがどうやらそうでもないらしい。
妄言なのか、妄想なのか、リアルなのか、虚像なのか、虚実なのか、夢なのか、回想なのか。すべてが折り混ざっている舞台で、見ながら自分の抱いた第一の感想は「難しい」「複雑」「なるほどさっぱりわからん」でした。
最終的に全滅していくなかで、では一番最後のあれは何だろうかと問いかければ友人の意見である「色」から現実であることを示唆していて。
でも土居は死んでいる。自分も死んでいる。リンのそのタイミング的には…って考えるとリンもまた死んでいておかしくないわけだけれどもという。
作中で確実に殺された人間は二人、田中さんとカワグチとともに居た捕虜。そして彼らは「死者」としての描写があって「秋生」「カワグチ」と対峙する。最後の最後にカワグチお前死んでるのかって言われてカワグチも死んでいることになるんですが……これまで話していたことはすべてカワグチの書いていたレポートという見方も出来るような作りになっています。
「ここまでの下りで、じゃあこれ削っちゃいますか~」という話に「今までカワグチのレポートを聞かされていたのかな」とも思わなくもない。
境界線が非常にあやふやで、掴みどころのない、それでいて後味がざらついたものがある。そんなお芝居でした。
この作品には「異物」として、戦場には似合わないくスカートスーツの生命保険のレディがいます。それが田中さん。
田中さんは存在として「ぱっと明るくしてくれる」一方で違和感が塊になってやってきます。そもそもこの作品における世界観ってどうなっているんだろう、立ち位置は?って疑問になるわけですが、反乱軍/政府軍問わずとして保険には入れるのだろうかっていう素朴な疑問。入れるんだろう、勧誘があるってことは。
でもってこの作品で重要なアイテムになる「携帯電話」。携帯電話はガラケーであることからスマートフォンがあるわけじゃない。携帯電話は何を暗喩するのだろう。トランシーバーという意味なのだろうかってもちょっと考えたんですけれどもそんなダイレクトすぎるダイレクトではないと思うんですよね。
また、「サプリ」って言葉も出てくる。反乱軍は追いやられている中だからこそ「?」って思う部分だったし、何をこれも暗喩していたのかはわからない。
ただ、「タイムカプセル」があって、それを埋め直す秋生というのが描写としてありました。
そしてそのタイムカプセルの中には女の子の言葉がありました。それを私は「リン」の未来の声としてなのかなとも考えています。
一方で埋める秋生にはどんな意味があるのかって考えてみたのですが、
- 未来が不要
- 1からの派生で秋生はもう死んでいるという意
- この人間たちが生存していないという否定
- 学校にいた人間<吉田さん(ないしは反乱軍)という考え
などなどなどだったんですけれども……2だとそれって「事象として秋生がやったこと」であるものから未来は見えていないわけで多分違う。
何を意味するのか、いかに意味するのか。
一つ一つを紐解こうとしたら別の場所が絡み合ってしまってがんじがらめになる。そんな感じがします。
ストーリーの読み直しをするために書籍化されているので、ちゃんと読んだほうがいいな…って真顔になりました。あの言葉の意味はどこだったんだろう、何にかかったんだろう、とか。
考えていけば考えていくほどこんがらがって「え、ええ~~?!」ってなっているんですが、その一方で伝えたかったことをコメント見ながら考えています。
岩松氏の考える今作のコンセプト
「恋愛がそれ単体では成立しない面白さを描きたかった」
こう岩松氏は伝えています。
思い思われ、振り振られ。そんな言葉の中で秋生とリンを取り囲んでいるのは「組織」とか、「周り」とかになるわけで。
この作品は「恋愛もの」であるということを根底におくと、「思い合っていたのになんだか違う」部分があって、その微妙な違和感がどんどん大きくなって最後は「違うんだ」なのか「それでもやっぱり」なのかのがんじがらめになってしまうという印象を受けました。
最終的にプロポーズをする秋生と、その答えを出していないリン。最後のシーンには「夫婦なんだから」と言うけれど、答えは出ていない。思い合ってもだめだったと取ることもできるわけで…。
独特すぎる「言った」「言っていない」「言ったかもしれない」
この話では会話がキャッチボールとして成り立たないシーンが随所に散りばめられています。
お前今こう言ったな、それはどういう意味だ?と問いかけるような図が何度も何度も繰り返される。
その度に会話が引き戻されて突然のリアリティになっていく、というか「読んだ本を何度も読み返し、確認する作業」に近いものを感じます。
いまのセリフはどんな意味?どんな意図を込めた?って繰り返し繰り返し繰り返し反芻させ?。やだ今の私じゃないか。
この作品における人たちって聞き返しが多くて、それって「回想」だから本当にそう言ったのか、の反芻として取ることもできるんですよね。
じゃあこの反芻って誰の反芻、誰の記憶?って聞かれると私は秋生ではないか、と考えているのですが……。
物語の中で作品のキャラクターたちが「おい!本当にこれはそう言ってたのか?こいつはどういう意味でそれを言ったんだ?!!!」という問いかけをされてるみたいでした。待って今それを考えるから!!って思っている間にもドッジボールが続いている。
人の目というのはどうやっても主観的になります。私がみているものと相手がみているものもまた違う。
ほんの少しのズレだけど相手と自分の認識の違いがあって「考えていること」も異なってくる。
「好き」「思い合ってる」はずなのに、それがズレてくる。これは秋生とリンの関係だけではなく信頼を寄せている吉田との関係にもいえて。部下が本当にそうだろうか?と思うことに対しほぼ自分にいうようにして秋生は噛みついています。
誤解、誤認で物事は膨らんでいく。同じものを見ていたはずなのに、変わっていく。
わかっているようで、相手のことを分からない。
共通認識のものでも、違うもの。
作中で「あんな人じゃなかったと思うんだけどなあ」という言葉が吉田さんに対して出てきました。
あれって日頃の我々人間関係でも言えることです。作家として小説家(あるいは漫画家)がいて、この人はこんなに素敵に違いないと思っていて蓋を開けたら違った時の絶望感に近いというか(笑)また、友達だと思っていた人と時間を経過するにつれて仲違いをするケースがあります。
人間というものは変わるものなので、付き合う人間や付き合うものが変わっていくことにより「自分の知らない一面」が出てきます。それに対して自分が享受できるか否かは大きく関わってきます。ジャンルが変わっても友達でいられる!っていうのは相手に対して新しい一面も含め享受できるからです。
理解できない、この人無理だなっていう仲違いで言えば「もともと知っていた部分が、自分の中で変わってしまった」になっていくものというか。また、同時に許せたものが許せなくなったのは≪自分≫でもあり、変化したのは相手だけではなく≪自分≫でもあるのではないでしょうか。
人間というのは性格や考え方、価値観も全て込み込みで「同じ」はあり得ません。家族だろうと親友だろうと恋人だろうとそれは然りで、一方で我々全てに共通しているのは「流れる時間」です。
秋生が変わったのか吉田が変わったのか、はたまたどちらでもあるのかないのか。
リンのことを好きだと思った自分はどこだ…吉田を信じようとした自分はどこだ…その変わってしまった(ように感じる)吉田さんへの気持ちの変化に自分自身で戸惑う秋生もまた動揺しているというか。
表現で「今お前はAAといったな、AAとはどういう意味で言った」に対して彼らは感情や考えに名前をつけようとします。「AAには意味なんてないのかもしれない」とは言っていない。
セリフに対してAAとは言ったけれど全てはBAかもしれない、BBかもしれない。
かもしれない、ということで可能性を示唆し、同時に「人の感情」と「人の記憶力」の不明瞭不明確さがよく出ていたと思います。
好みなのか好みじゃないのかと問われると主題も、本筋も、問いたいことも含めて「私は好きにした、君たちも好きにしろ」と言われているような感覚で多分答えなどなく、その答えの中答えをぐるぐる探している感じがします。
終わり方について「なん、えっ、ここで終わり?!!!まじか!!!」と衝撃を受けたんですけど、お芝居に関してはみんな少しの違和感(ざらっとした感)をはらみながら「朗らかな」矛盾を持つ反乱軍という中にいます。
全てがどこか歪さを持っていて求められた言葉を紡ぎ、答えながら自問自答を繰り広げられる様も興味深かったです。お芝居としては勝地涼さんの土居に目がいきましたが(なんか彼はニコニコしながら目が笑ってない感じがするんですよね、良い意味で)、その辺も含めて鈍く光るナイフみたいだなと感じました。
森田さんに関しては秋生はどこまでも人間臭く「吉田さんを信じていたい。リンが好きな自分の感情は忠誠心の表れが故のことではない」というジレンマを抱えながら吉田さんに「俺にどうあれというのか」という問いの滲み出る必死さが「考えることを放棄して素直に吉田さんに従いたいが吉田さんはそれだけでもダメだという。かといって横に並び立つことも良しとしない」という袋小路四面楚歌二進も三進も行かない感じがよく出ていて、「見ているこっち側もなるほどどうしたらいいのかわからん」感があって印象に残りました。
多角的に見ることができる芝居ではあるけれど感想はと聞かれて、難しいんですけど、見終わってからああでもないこうでもないこうだったんじゃないか、と意見を言い合う時間というのは何にも変え難く心に残りました。
なんかこう…なんかこう…好き嫌いすら分からない、内面の奥底の「お前がそうとったならそれでいいよ」みたいな(もっと言い方悪くすると「お前ん中ではそうなんだろう、お前の中ではない」ってやつ)感じで、こう…どれもこれも多分間違いではなく、また、どれもこれも正解ではなう中なあ……なんて思います。
行き場のない感情のまま、まさに「空ばかり見ていた」を見て、考え事ばかりしていた、って感じです(笑)