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僕らはみんな「生きている」の問いかけ/ポケットモンスター「ミュウツーの逆襲Evolution」感想

ポケットモンスター、縮めて「ポケモン

人とポケモンが出会って交流を深めて、そしてさらなる高みを目指す。それが「ポケットモンスター」という世界。

この下りを聞いてイマクニ?ポケモンいえるかなを思い出す世代の私なわけですが、そんなこんなで今年のポケモンは「ミュウツーの逆襲」という世代ホイホイ以外の何物でもないものを上映されるということで。

ミュウツーの逆襲は子供の頃、さんざん見てきたし内容覚えているしポケモンスタンプラリーでクソほど遠いところまで人生で初めて行って(なんなら多分ポケモンスタンプラリーやって以降もう行っていない場所も結構ありそう)たことも含めてしみじみ記憶にあるし、何より当時声優の「せ」の字も知らない私にとっては山寺宏一さん=おはスタの人、だったのでミュウツーの逆襲をやるとき「ミュウの声だよ」っていうのをおはスタかなんかで見て「え?!!大丈夫?!!」ってめちゃくちゃ思ったわけです。

当時の思い出はどうやっても「思い出補正」も含まれてしまうのですが、当時を「見てきた人」として、今作ものんびり初日にいってきた感想です。

 

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世代ホイホイ「ミュウツーの逆襲」

 

 

ポケットモンスターミュウツーの逆襲」とは

そもそものポケットモンスターミュウツーの逆襲」は、アニメポケモンの最初のアニメになります。

劇場版ポケットモンスター「ミュウツーの逆襲」「ピカチュウのなつやすみ」

アニメの影響もあってポケモンがどんどん人気になっていった印象なのですが、ハナダシティの近くの洞窟に何故か1匹静かに佇む「謎のポケモンミュウツー

私の最初のポケモンは「赤」なんですけど、その時の説明がこれ。

 けんきゅうの ために いでんしを どんどん くみかえていった けっか きょうぼうな ポケモンに なった。

 このあとに説明がどんどん変わっていったのですが、そのどれも結構しんどいんですよね。

「クローン」というものを題材にしていて、結構根深いものがそばにあったように感じられます。

また、アニメでは主人公・サトシのライバルであるシゲルくんをトキワジムジムリーダーのサカキのポケモンとして出てきてなぎ倒した記憶がありました。

トキワジム!さいごのバッチ!

(容赦なさすぎて見てて「し、シゲル~!!!」てなった思い出)

 

「自分とは何で、どこに向かうべきか」というのはアンジェラ・アキの歌にもあるように、また、「我思う故に我在り」という言葉があるようにずっと誰しも一度は通るものでもあるように感じられますが「作られた命」であるからこその問いかけがポケモンという世界観で入っているのが印象です。

 

今作について

オール3Dになったことによってグラフィックが2Dアニメーションのものとは確実に異なって時代の進化みたいなのを感じました。

www.youtube.com

3Dというと、どうやっても直近で思い出すのは「名探偵ピカチュウ」なのですが、そことはまたちょっと雰囲気を変えたからこその生き物たちが見られるのが良いなと。

内容に関しては本当にほぼ「3Dアニメーションに組み替えたミュウツーの逆襲」っていうかんじでした。

細かい部分で言えば例えばポケモンの技が最近のものになりました。そのへん見てて最新作から入った人でも入りやすくなっているな~っていう。

 

今こうして再びやる理由を考える

私は基本的にリメイクをやるのに対して「知らなかった人も知られるように」っていうのもあるとは思うのですが、一方で「新しいものだからこそ新しいものでやってほしい」気持ちもあって(ドラえもんの「日本誕生」のときにこれは感じた)

親子で楽しんでもらいたいに対しては「親子で楽しみたい人は円盤やレンタルでやると思うんだよなあ」っていう気持ちになってしまうので(何よりも、親世代も親世代で新しいものを見たい気持ちもあるんじゃないかとも)、なんともいえなかったのですが、今作の映像化について昨今の命に対しての考え方についての問いかけっていうのが含まれているんじゃないかなあっていうように考えます。

プラスアルファで、タイミングとして「名探偵ピカチュウ」との連動性も感じられました。

 

amanatsu0312.hateblo.jp

 

名探偵ピカチュウの中で「20年前にミュウツーは一度カントーで発見され、その後消息を絶っている」というくだりがあり、その20年前の発見というのが今作の原作になるであろう「ミュウツーの逆襲」のことだろうな、と感じました。

まぁそのあとに「ミュウツー!我ハココニ在リ」っていうのやってるんですけどね!!

 

ミュウツー!我ハココニ在リ(2)

 

なので、どちらから話が上がったのかはわかりませんが、「連動性」としてよくできているなあってしみじみ思ったものです。

 

また、今作の楽曲「めざせポケモンマスター」のアレンジが98のものに近いものになっているように感じられて、当時を見ていた私としては「うっわ~~~うっわ~~懐かしい~~~ひえ~~」ってなったわけですが。

めざせポケモンマスター

めざせポケモンマスター

  • provided courtesy of iTunes

そんなこんなを見ながら、ポケモンの作品に触れて、改めて当時の問いかけを今もう一度考えてみます。

 

「生きている」とは何になるのか

「ぼくらはみんな生きている、生きているから楽しいんだ」って「てのひらを、たいように」という歌では言いますが、ミュウツー(クローン)にとって「生きている」とは何になるのでしょう。

 

「生まれたくて生まれたわけじゃない」「誰が生んでくれって頼んだ」

 

これは反抗期のときにまぁ実際にありがちな話になるんですが、親との衝突をふと思い出します。意味は絶対ここに関しては違うとは思うのですが、そこに注がれた「愛情」とか「大切」って気持ちがある/なしで立ち位置は子どもと親にも言えることなんじゃないかなと。

後年、テイルズ・オブ・ジ・アビスでクローンの話題はあり、問いかけとして「作られた命だけどここにある」っていうのは同様にあります。

そして「同じ立ち位置で同じ存在がふたつあるとき」、その片方ははじき出されてしまう。

BUMP OF CHICKENが歌っている「カルマ」でもそのへんが示唆されています。

カルマ

カルマ

  • provided courtesy of iTunes

 

ミュウツーにとっての「存在する意義」というのは「ミュウツー」そのものの存在の肯定にあたるけど、ミュウツーとは生まれながらにして「最強」で「人に作られた」ポケモンなわけです。「この世で何かを生み出せるのは人か神だけ」というサカキの言葉で、「最強」と言われながら人には勝てないと否定され続けるのって「じゃあ最強って何?」という気持ちにもなります。ゲシュタルト崩壊起こしそう。

ポケモンじゃない」「人でもない」。

生まれながらにして「最強」として作られ、求められるのは力を使うことで、でもその力を使うことで誰かを傷つけていく。利用されていく中で「お前なんか人が制御してあるべきだ」と言われてまた自分の存在がわからなくなる。

 

「ここはどこで、自分は何なのか」

何、とは「人の遺伝子組み換えで作られた存在である自分は”いきもの”なのか」という問いかけもはらんでいるようでした。

クローンである自分はどこまでも「ミュウツー」ではなく「ミュウの遺伝子組み換えで作られた」という部分が強調されてしまい、そこにあるのは「個」ではないようにも感じられます。

いわゆる「○○くんの子供」として周りからずっと扱われるとかに近いのかな…とも。

そしてそれを乗り越えるべきとしてクローン(コピー)であるミュウ(オリジナル)と戦うわけですが、それについてはロケット団が言葉にしている言葉が非常に突き刺さりました。過去の自分を痛めつけているようで、という下りは「過去の自分への否定」をするときの自分を更に達観した自分が見ているようなものに近いんだろうな、とか

 

「最強」は2つはない

ミュウは「オリジナルにコピーが勝てるわけないだろ(笑)」というめちゃくちゃかわいい声で、めちゃくちゃブチ切れているミュウツーを前にしてい口にしてるわけですが、それって生まれながらの生き物の頂点にいる存在がゆえの傲慢さと無神経さでの成り立ちですよね。

「コピーはコピーに過ぎない」という言葉を言うことでミュウツーを切り捨てているのは場の空気が誰がどう見たってよくならないし、あ、煽ってる~~煽りまくってるよ~~っていう気持ちにもなります。

ただ、それって前述したテイルズ・オブ・ジ・アビスの「カルマ」でもあったように、

 心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る 奪われないように守り続けてる

 なんではないかなと。

ミュウにとっては自分の存在というのは「そこにある」し、当たり前のことだし、それを「誰か(ミュウツー)」に脅かされても「いや自分はそこにいるから、そんなの誰にも覆せないし、お前(コピー)には自分(ミュウ)は負けない」という、なんというか「持っているもの」としての発言になってるんでしょうね。

 

しかもなんか脚本家のくだりを見ていたらもともとのミュウはすごいミュウツー煽る予定だったということらしくて…あっ…確信的だし、容赦ないなと(笑)

脚本第1稿『ミュウツーの逆襲』は、ミュウのコピーであるミュウツーを、オリジナルのミュウが「所詮、おまえは、コピーにすぎない」といたぶるセリフがいっぱいあった。

それが、ミュウツーの劣等感をゆさぶり、なおさらオリジナルのポケモンに対して敵愾心を燃やしていく。

つまり、脚本第1稿には、ミュウにはセリフがいくつもあったのである。

それも、ミュウツーを傷つける針のようなセリフである。

そして、ミュウツーの存在を問いかける、まるでディスカッションドラマのようになっていた。

WEBアニメスタイル_COLUMN より引用)

 

ミュウからしたらミュウツーなんて「誰が生みたいなんて思ったか」「しかも自分が望んでないのにお前勝手に出てきてなんなの??」って思っているっていうのがまた、すごくエグいなと。人が勝手に介入してきて「あなたの子みたいなもんです。私らが作りました」って言われたらハァ?ってなるし、しかもミュウツーは「何勝手に作ってんだチクショー!!お前なんか嫌いだバーカ!!ふざけんな俺はなんなんだ!!」っておこおこしているし。

ミュウ側からしたら「いやキレるならお前のこと勝手に作った人間恨めよ…こっちだってお前なんかいらんわバーカ」って話なのかなあとも。改めてミュウが挑発しまくらなくてよかったなって思います。収集つくわけない。

 

戦わないを選ぶ「ニャース」の考え

このへんは多分、ニャースもまた「ポケモンだけど、人によったポケモン」という部分も大きいのかなと思いました。

ニャースの生い立ちはもう語るも涙なわけですけれど、好きなニャースに振り向いてほしくてそのニャースは「人間でもないあなたが」と全否定した結果四足歩行から二足歩行になり、人の言葉がわかるようになった、マルチリンガルに努力してなったのがロケット団ニャースなわけですが、この部分ってすごく重要なんじゃないかなと。

もちろんコピーニャースが消極的という部分もあるけれど、個体値は同じであってもコピーのニャースニャースは「経験」という部分ではオリジナルのニャースとは違うから、そういう意味での差が出ているので彼らは同じでありながら「違う」という認識をしたのかなあ…とも思いました。

 

ニャースのうた

ニャースのうた

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 そういう意味では「ニャースのうた」を思い出すような台詞回しが哲学的でしんどい環境で彼らの立ち位置にじわっとさせられます。

 

オリジナル/コピーという「レッテル」

誰であろうと何であろうと、どういう立ち位置だろうと「生きている」ということをこの作品は伝えたかったのかなあって思います。

ポケモンだって人間だって何にしたって生きていて、それを「コピー」「オリジナル」というレッテルをつけていようと誰に否定される言われもないし、彼らはそこに「いる」し「生きている」わけで。

 

この作品を通して考えるのは宗教観も人種も何もかも違う世界中の人、生き物全てに言える「生きている」ということについて。

なぜ生きているのか。

自分ってなんなのか。

相手ってなんなのか。

その相手にたくさんついている「レッテル(良い意味でも、悪い意味でも)」と自分の「レッテル」を見て、何を思うのか。相手の”個”って何だ?という共存のテーマなのかなあと思います。

世の中には相容れない存在っていうのはどうやってもいて、「お前のこと本当嫌い絶対お前が潰れるまで見届けてやる」っていうふうな考えもあります。そういうのもまた「心」だと思いますし。

 

でも、それを踏まえて、この「ミュウツーの逆襲」を今やって、問いかけてくることで子供心に感じた”わからない”を、改めて考えているわけです。

 

作中における「これは…涙…?」という2Dアニメ(原作)のミュウツーのセリフがすごい好きでそれがなくなっちゃったのはちょっと残念なんですけれど、サトシという少年がポケモンの「ピカチュウ」が大切で、仲間が大切で、人に対して傷つけ倒したミュウツーを「許さない」といいながらも彼らがお互いを傷つけあっているのを見て止めるのは彼が「レッテル」を必要とあまりしていないからなのかなと。

サトシは初日に大寝坊をかまして最初のポケモンヒトカゲゼニガメフシギダネの御三家)をもらうことができなかった、それこそ外側から見たら「レッテルの貼られた、異端な存在」であるなかで、ポケモンを大切にしてポケモンと向き合ってポケモンが好きという「この世界観」における重要なポジションでもあるんじゃないかなあと。

そこにあるのは「今眼の前にいるポケモンが好きという気持ち」があって、そこに全力で向き合っているし、だからポケモンも彼に応える。そんな作品なのかなとも。大人になればなるほど複雑化するし、表面上だけの付き合いもあります。そのうえで、「変わらないでいたいもの」とか、その上で、「大切にしたいもの」を伝えているのかな、とも。

 

なお歌に関しては松本梨香さんが今作のために合わせて歌っているようにゲスト声優であり、歌も歌う小林幸子さんが合わせて作るだけでも良いんじゃなかったのかなあという、リメイクなら歌い直してもらってアレンジ加えるのでもいいんじゃないかなとか(笑)

中川翔子さんに関してはポケモン番組も請け負ってますし、ポケモン映画役立てる印象ですが、やっぱり今作には出ていないわけですし同時上映でポケモン作品があってそこにゲストであったらよかったのになあとも思います。立ち位置的に不憫だなあ、とも。

声優陣でいうと、もう冒頭のレイモンドが声優として出てきてサトシと勝負をするときに大号泣でした。意味わからんくらいに泣いた。

また、市村正親さんは名探偵ピカチュウでもミュウツーを演じていて、その良いお声で響かせてもらったのと、感情を込めているお芝居がすごく心に突き刺さるばかりでした。声優さんって改めてすごいなって思うのは当時より多少なりともこうやって長寿作品になっている中で変化があるなかで、当時の印象をあまり変えないお芝居ができることだよなあ…とつくづく思います。声優ってすごい(二度目)

 

リメイクとオリジナル

作品における難しさっていうのは、思い出補正(当時のノスタルジーも含めて)された原作を超えるのかどうかっていうのがあります。

この作品もまた「オリジナルのコピー(リメイク)」であるんだよなあって思うと、ストーリーという骨格が同じで、表現しようとした部分、カット割りも同じところが大多数で、その上で「今の」部分を入れたことでの違いがある。

「コピーがオリジナルを超えられるわけがない」というミュウの発言を改めて見て、ふと自分がこのミュウツーの逆襲がやるときに「どうやってもリメイクはリメイクで、オリジナルが自分の思い出補正も含めて勝てないんじゃないかなあ」っていうものがあったんですよ。それって、「作品としてある」視点でいえば一緒だよなあ…というように感じられます。

 

だから、立ち位置的に思うのはポケモントレーナーの子達がコピーを見た時のものに近いのかなあと。その上で、当然思い入れがあるのはこの20年の月日を歩んできた「オリジナル」になるんですよね。それって個として、そこにあり続けたから。

でも、これからこの作品を初めて見た人にとってはまた印象が変わる。その人にとって、その作品が「初めて見た思い出」として付いてくるから。良い悪いじゃなくて最初に見たものっていう経験によって見方は変わる。それってニャースの話と同じじゃないかな。

 

どんな状況だって、何にしたって「今ここに、世の中に出ているんだ」って言われたらしかりなわけです。

それを踏まえた上で、私は今作を見て、また新しいノスタルジックじゃない「なにか」が見つけられていたらいいなあ…とか、そんなことを思うばかりです。

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