先日、直木賞および芥川賞が決定しました。直木賞/芥川賞の受賞作品についてあまり詳しくないのですが(取り敢えず芥川龍之介に心酔している太宰治が芥川賞候補に選ばれたのに川端が「素行がな~」という理由で音した結果「刺す」というどストレートな言葉を綴ったという話が好きです。太宰治ネタに事欠かないタイプの人種すぎて面白いですよね)今回の受賞作品のうち、直木賞受賞作品の「少年と犬」という作品が目にとまったので、購入しました。
ということで、その感想をつらつらと。ネタバレしまくっていますのでご注意ください。
「少年と犬」という物語
文藝春秋から出ている本作。ホームページには作品の紹介が次のようにありました。
傷つき、悩み、惑う人びとに寄り添っていたのは、一匹の犬だった――。
2011年秋、仙台。震災で職を失った和正は、認知症の母とその母を介護する姉の生活を支えようと、犯罪まがいの仕事をしていた。ある日和正は、コンビニで、ガリガリに痩せた野良犬を拾う。多聞という名らしいその犬は賢く、和正はすぐに魅了された。その直後、和正はさらにギャラのいい窃盗団の運転手役の仕事を依頼され、金のために引き受けることに。そして多聞を同行させると仕事はうまくいき、多聞は和正の「守り神」になった。だが、多聞はいつもなぜか南の方角に顔を向けていた。多聞は何を求め、どこに行こうとしているのか……
犬を愛するすべての人に捧げる感涙作!
本作はいくつかの物語で構成されていて、主人公はあくまでも「多聞」という犬です。
ちょっとタイトルが「●●と●」で老人と海みたいなゴロで言いやすくて好きだなと感じた次第。
多聞はシェパードと和種のミックスで、カバーイラストにあるような通りの雰囲気の犬。彼が色んな人と、どんなふうに過ごすのか、という物語でもあります。
- 男と犬
- 泥棒と犬
- 夫婦と犬
- 娼婦と犬
- 老人と犬
- 少年と犬
章はこのように分けられていますが、登場人物が重なる瞬間はほぼなく、それこそ「多聞」でありながら同時に多聞はいろんな名前を持ち合わせています。人は彼をレオと読んだり、クリントと呼んだり。その名付けるまでの名前も多種多様です。
”多聞”は毘沙門天の別名で「多聞天」から取られているということを何度も描写されています。
多聞天は梵語でバイシュラバナ、毘沙門天と訳されます。多聞の名が表すように仏教の教えを聞いて精通しているとされます。多くの夜叉を従え帝釈天の配下であり四天王の一体で北方を護る守護神として仏教の世界観の北倶廬洲を守護するとされます。四天王の一尊として造像安置する場合は多聞天、独尊像として造像安置する場合は毘沙門天と呼ばれます。四天王の中核をなす武神です。
(多聞天像(四天王写真画像) 仏像ドットコム より引用)
その名前の通り、彼は「守り神」として描かれる要素もあり、「犬」と「人」である中でちょっとだけ不思議な利口な犬がゆえの描写が非常に多く感じられました。
「多聞」という犬が見る”人”
今作の帯には「人という愚かな種のために、神が遣わした贈り物」という言葉で綴られていました。
でも、実際じゃあ多聞は人々に対して明確な応えを与えてきたのかとか、彼らを救ったのかといわれると、「すべてがすべて」ではないように思います。
これが一番印象的だったのは第三章となる「夫婦と犬」。冷めきった…特に妻となった紗英さんの苦しみが痛いほど伝わってくる小説で、身勝手過ぎる夫の大貴に「お前いつまで大学生気分なんだ」とビンタの一つぐらいしたくなったわけですが…その間に入るように多聞(この中では「トンバ」「クリント」と呼ばれる)がやってきて、少しずつバラバラだったのに「一緒にいる」ということへの違和感が如実に形になっていっている気がしました。
最終的な流れを見て「救われたのか」という問いは非常にナンセンスで、紗英は「こんなことを思ったから」という風に己を悔いる一方で彼女は「群れが崩壊したからこそ、クリントは立ち去った」と最後に触れているんですよね。
この作品に出てくる人々はそれぞれにそれぞれ、全く違う悩みを抱えています。
「因果応報」といってしまえばそれきりな形で亡くなる人もいて、そのタイミングに多聞がいる描写がはっきりとあります。老人と犬ではまるで多聞は間違いばかりしてきた彼を看取るように、寄り添っています。けれど穏やかな形ではないからこその「一瞬の輝き」みたいな命のゆらぎも感じられました。
たくさんの彼が見送った人たちのキラメキと同じような形で全ては「少年と犬」というタイトルに帰結するように、最終章にたどり着くのでしょう。一様にして多聞は「行くべき場所」を決めていて、そこを気にしながら生きていますが、そこにまっすぐいけるわけではなくいろんな「人」と出会いながら、まだ「そこ」を目指します。出会う人々は彼が「行きたい場所」を分かっていながら、それでも多聞の魅力に捕まっていて、そばにいてほしいと願います。
命という考え方
この作品は東日本大震災後の仙台から始まり、2016年の熊本地震に繋がっていきます。物語に出てくる「少年」こと光は笑えなくなった、言葉も話せなくなった男の子ですが、多聞が最後に選んだのは彼と彼の家族という”群れ”でした。ここに続くためのストーリーがそれぞれにありました。
人と犬は種族が違うからこその言語がわかるのか、というものがありますが、動物というのは愛情がわかるのだといいます。そして、多聞と光のふしぎな「結びつき」、種族というものを飛び越えたソウルメイトとして見つけてそれからともに過ごす一瞬の輝きは美しい事この上ないです。
光は東日本大震災で受けた心の傷を多聞との出会いで少しずつ雪解け、多聞は「彼」とそばにいることをやめない。
恐怖に凍てついた心に、唯一射していた一条の光。それは多聞との思い出だったに違いない。
(本編より)
この描写がすごく美しくて、また同時に切ないんですよね。よかったねと思う一方で段々とページが終わりに近づいていくのを感じる。この”場所” ということも踏まえての考えれば考えるほどじわじわとくる焦燥みたいなものがありました。
光と多聞が一緒に眠っている姿はさながらネロとパトラッシュのような描写で優しく、美しく。その姿を父親である内村と久子は感謝し、愛しくなるわけです。
だからこそ、一番最後のいなくなっても”ここ”にいると胸を指差すのはすごく心を打ちます。人と動物はどうしても進むスピードが違います。ある日突然失うこともあるし逆もまたしかりです。
あいにくと私は犬とともに生きたことはないのですが、彼らとともに生きた人々と話すたびに「そこ」に「いる」「居続ける」といいます。思い出の中で住まうのか、それとも、一緒にいた「経験」を糧にするのか、それはわかりません。
それでも「一緒に過ごして」だからこそ「そばにいる」という言葉を選ぶというのはやっぱり美しいなぁと感じるばかりです。
本作を綴った馳星周氏も愛犬家であるらしく、インタビューを読んでいたら、愛犬家だからこその伝わる「何か」がきっとあるのだろうなぁとなりました。
その中で、近年の「ペットブーム」から、コロナの一件で犬・猫たちもコロナウイルスにかかる事例が発表され、結果として捨てられるケースも見ました。どうあるべきか、どう生きるべきか…とかふと読み終わったときに考えるばかりです。
多分今までもこれからも「人が犬と一緒に生活している」「ともに”群れ”を作っている」のを見るのは大好きなので変わらないなかで、自分が彼らの命を預かって過ごしていけるのだろうか?という疑問は多分ノーで、そういう選択肢が取れることを眩しかったり羨ましかったり、色んな気持ちを抱いていくのかもなぁ……とかそんなことを思った次第です。