2019年「ドラえもん のび太の月面探査記」という映画が公開されました。
この映画を映画館ではない形でようやく見終えて、その作品の脚本を手掛けた辻村深月氏が「ドラえもん」というキーワードで物語を作った作品「凍りのくじら」に興味を持ち手を取りました。
その感想をつらつらと書いていきたいと思います。
あらすじ
藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、その作品を愛する父が失踪して5年。高校生の理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う1人の青年に出会う。戸惑いつつも、他とは違う内面を見せていく理帆子。そして同じ頃に始まった不思議な警告。皆が愛する素敵な“道具”が私たちを照らすとき――。(講談社文庫)
冒頭で出てくる新進気鋭の女性フォトグラファーの一番の転換期を描いた作品になります。
理帆子は本が好きな高校生ですが、同時に自分をどこか俯瞰しているような「誰とでも仲良くなれるけれども、誰とでも近いわけではない」といういわゆる一歩離れたところで物事を見ているタイプです。友達がいないわけではない、そのジャンルも偏っているわけでもない、でもどこか少し「離れている」。そんな彼女が青年と出会って自分が「少し・不在」な状態から変わっていくような物語でした。
ドラえもんという世界
ドラえもんフリーク、というわけではないのですが自分自身がドラえもんが好きなこともあって(オタクというには全然足りないのですが)、理帆子のいうひみつ道具たちに対しては非常に聞き馴染みがあるものたちがいっぱいありました。大長編ドラえもんの描写があるのは純粋に嬉しかったです(私は日本誕生が好きです)。
この辺は辻村氏が相当ドラえもんが好きなのだろうなぁという気持ちが詰め込まれているのをしみじみと感じました。
ドラえもんという世界は「日常の中にスパイスのように非日常が入っている、でもそこにあるのは日常」というものです。これを藤子・F・不二雄氏は「SF(すこし・ふしぎ)」と表していますが…。
アニメ化をするにあたっても、アニメスタッフに藤子・F・不二雄氏が言ったことは「サザエさん」を意識すること*1。だからこそ、のび太が大きく変わるわけでもないし、ジャイアンは相変わらずのジャイアニズムだし、スネ夫は姑息な部分もあるし、しずかちゃんも良くも悪くも「みんなのマドンナ」にあたる。そして、一番のび太が敵わないような描写をされる出来杉くんはいつもどこかみんなに認められながら、どこか距離を置かれている。
ドラえもんは子育てロボットでありながら、時に友人として時に共犯者としてのび太と接する描写が面白いところだと思います。
「だめったらだめ!」というフレーズが大山のぶ代さんで再生されるんですけれど(水田わさびさんのも好きです)(LINEスタンプ御用達です)、そういうところの「ちょっとした」部分で距離感が見られるのが面白い。大好きなんですよねこの流れ。
では、そんな世界が好きな理帆子にとって「ドラえもん」は?というと、「父親が好きだった」からこその傍にあって、また同時に自分自身も好きなもの、身近なものとしてそこにあります。けれどドラえもんについて誰かと話をすることは作中一人を除いてありません。その世界が羨ましいのか、それとも自分が入れないからこそ美しいのか。いろんなことを考えさせられます。
彼女はすべての人間を指すときに頭の中で「SF」で組み合わせて生きます。「少し・●●」。
例えばイライラカリカリしている正義癖のある友人は「少し・不満」みたいな形で。
絶対友達になりたくない(笑)(笑)無意識に人を俯瞰しているといいながらラベリングしている底意地の悪さに正直好きにはなれなかったです。表面上のやり取りで決して自分を出さないことを「賢い」という考えを持っているのが、青いなぁといってしまえばそれっきりなんですが。
章はすべてドラえもんのアイテム名で取り上げられています。
「どこでもドア」「カワイソメダル」「四次元ポケット」などなど。また、本編の中で出てくるドラえもんのひみつ道具には概ね説明が付与されていました。だからこそ「入りやすい」部分も大いにあったと思います。藤子・F・不二雄ミュージアムでちょうどその内容を見たからかもしれませんが、「ああこの話か」となったりするので、テンポがわかりやすかったように感じられます。
対比としての「若尾」と「理帆子」
前述したように私は主人公の理帆子が理解できないので(そつなく動こうとしているけれど一番自分が滑稽じゃん、みたいな)若尾のことを彼女が下に見ているシーンは「全部ブーメランでは……?」と首をかしげていました。
若尾は弁護士を夢見る、「俺はまだ本気を出していないだけ」タイプで、環境のせい、親のせい、諸々のせいと斜にかまえています。理帆子よりもだいぶ年上で、それでいて「少し・腐敗」と言わしめる人物。
崩れ落ちる若尾と、理帆子の対比は非常に明確であったと思います。メンタルクリニックに通う若尾に対しての理帆子とのやり取りは「何が引き金になるか分からない」危うさがあります。そつなくこなしていた彼女が、だんだん彼に対して怯えていくながれは正直「この子いけ好かないな」という気持ちに付随して「そりゃそうだよね」とも思いました。人間というのは衝動的に生きることも出来る人間で、だからこその「自分は全部わかっています」みたいな状態の理帆子が痛い目を見るのは正直そらそうだ、とも思ったのですが……(だから正直、彼女に対してあまり同情的にもなれなかった。もちろん若尾はクソオブクソであることは変わらないけれど。宮原くんがあまりにも不憫だった)
自尊心が高く、周囲を下に見ていた若尾。そのうえで「本当の挫折」になりきれない若尾に苛つきながら彼がどうなるのか「興味」があって「娯楽」として見ていた理帆子の泥沼関係。後者に関してはなぜそこまで…と思うのですが、一方で「まぁでも自分がイライラするとわかっているのになぜか見てしまうもの」って世の中あると思うのでわからなくもない。
ここについては良くも悪くも実に対比的で「同じ穴のムジナ」「いつか自分も”そちら”にある」ようにも見えました。だからこその別所あきらの存在が光ったかなあとも感じます。
展開が見えてしまったのが個人的に残念。
この物語は「少し・ふしぎ」でもあるからこその入り込んで怒涛の展開になっていくのがピークだと思うのですが、キーである人物の招待に対して自分は「多分こうかな」という予想を立てて読んでいたからそれが当たってしまったのが残念でした(笑)
母―娘、そして父ー娘として見方を変えたときの印象が変わるのもまた含めて「見ていることしか出来ない未来」が最終的にどこに変わっていくのかはポイントだと思います。
でも、その上で、「ドラえもん」である必要はあまりなかったかな、とも思うわけです。例えばこれが「キテレツ大百科」だったら?例えばこれが「パーマン」や「エスパー魔美」だったら?とも。正直もっと具体的なスパイスとして来るかな、と思っていたから…。
もちろん辻村さんがドラえもんフリークなのも分かるし海底鬼岩城に出てきたテキオー灯の描写も必要なことだと分かるけれど、正直そこを結びつけながらでも「その必要合ったかな」とモヤモヤしちゃうのも事実です。もちろんドラえもんが一番代表作だし、父親が亡くなったタイミング等と藤子先生と照らし合わせている部分もあるとは理解しておりますが、個人的には「それでもなぁ」とちょっと思いました。
またこの作品における立ち位置として「大山時代」のドラえもんなのだろうなと思ってしまうのも少し寂しさがあります。もちろんわかります、作者はそちらの世代だし、私もその世代だから。
加えて言うなら藤子・F・不二雄先生は「ドラえもんってこういう声をしていたんですね」と大山のぶ代さんのドラえもんに対して言葉を残しているのも有名な話です。だけれど、時代は続いていく。その中で、新しいドラえもんも「それはそれ」として楽しんでいるからこそなんだか少し寂しさを覚えてしまいました。これが出版された2012年という時系列を見れば仕方ない部分もあるんでしょうけれどね。
自分の中で「好き」か「嫌い」か、「面白い」か「面白くないか」という評価を下すとき「誰にも共感できなかった」けれど、「スピード感と読み終わったときに感じたもの」はあったかなと思います。
「すこし・ふざい」でありながら「すこし・不誠実」な子が、父の面影を追いかけて痛い目を見て母親や周囲、たくさんのものに目を向けるという流れは素敵で、だからこそ「海の底からの一筋の光」というのはドラえもん大長編の「テキオー灯」が描かれた海底鬼岩城を思い出させるなあとも思うし、彼女にとっての「ひかり」がドラえもんであり父であり、そして彼女が交わり続ける郁也なのだろう。とも感じます。
ということで、ざっくりの感想でした。めちゃくちゃ大満足~!というわけでも「不満しかない!」というわけでもないけれど、【ドラえもん】という作品だからという理由で惹かれた自分にとってみると「もう一声ほしいかな~」ってかんじですかね…。ドラマ化するとしたら「世にも奇妙な物語」ぐらいにぎゅっと詰まってやってほしいかもしれないです。ただまぁ、あれはフジテレビなのでテレビ局的に考えると難しいかもですが(笑)
宝島から最終的に最新のOPにまでいたった「今の」ドラえもんのOPもこれはこれでとてもいいので聞いてほしい。私は好きです。
*1:藤子・F・不二雄ミュージアムにて現在(2020年2月8日~2021年1月31日まで)展示されている”「藤子・F・不二雄とドラえもん」”にて、アニメ化についての解説にそうありました。