シアターコクーンで現在故蜷川幸雄氏の追悼公演となる「ビニールの城」が公演中です。
出演は森田剛、宮沢りえ、荒川良々他蜷川幸雄作品において重要なポジションにいる方々。
蜷川幸雄作品というと中井貴一さんが出ていた「十二人の怒れる男」が好きです。なお原作映画も大好きです。あれは見に行って本当に面白かった。
今回の「ビニールの城」についてはいくつか色んな雑誌の対談を見たりして知識を得て行きました。といっても原作そのものには触れていないので「どんな物語か」というのの漠然とした概要だけでいってきたわけです。その感想をつらつらとレポート。
今回は幸いに2回観劇することが出来ました。片方がとんでもなくいい席で「世の中本当にこんな席当たることってあるんだ」と震えてます。ビギナーズラックってやつか……と一緒にとってくれた人のくじ運の良さに震えています。
全然関係ないけど東急のポスターの隣にピーターラビット展が並んでて思わずほっこりしました。可愛いね!?
※盛大なネタバレを含みます。観劇後または「別にネタバレ気にしないよ」という方のみお読みください※
あらすじ
物語の舞台は東京・浅草。
腹話術師の【朝顔(森田剛)】は、8ヵ月前に別れた相棒の人形の「夕顔」を探し続けている。
彼は腹話術師業界からは「気違い朝顔」と称されており、人形と喧嘩をしたり人形を巧みに操る人間だ。「頭がおかしいのは“デンキブラン”の飲み過ぎだ」と言われ、デンキブランを飲むことで夕顔を見つけられるならいくらでも飲んでやる、と彼はデンキブランを飲み干すところから物語は始まる。
浅草にある「神谷バー」でデンキブランを飲んでいると、かつて朝顔と夕顔の暮すアパートの隣室に住んでいた【モモ(宮沢りえ)】と出会う。
モモは朝顔を忘れられず、朝顔に自分を愛して欲しい思いを受け止めて欲しいというが、朝顔は生身の人間と向き合うことも出来ず、またモモに「あなたは私を愛しているといった」といったが記憶に無い。
モモは結婚をしているが朝顔をわすられないがための「仮初」の夫婦となっている。そんなモモへの愛故に仮初でも旦那を演じる【夕一(荒川良々)】。
彼らが織りなす「人間と人形の境目は」「あちら」と「こちら」の物語。
最初はモデルプレスさんとかのあらすじを引用しようと思ったんですが見てたら「これ違うんじゃね?」と自分の中で思ったのでいろいろ組み合わせてみました。
まぁ要するにざっくばらんに言うと「朝顔という男が居ました。朝顔は自分の相棒の人形・夕顔を探しています。夕顔を探している時に昔隣の部屋に住んでいたというモモに出会いました。モモは朝顔が好きだと言います。朝顔は自分には関係ないといいます。そんなモモを愛している夕一という男。人を愛せない朝顔、朝顔を愛しながら秘密を秘めたモモ、モモを愛するあまり自分もまた壊れる夕一」の物語。
ざっくばらんになってない。要するに色んな気持ちがぐっっちゃぐっちゃにミキサーの中に突っ込まれてまぜこぜになった作品だよ!!!ってことで。
キャスト・スタッフ
スタッフ
作:唐 十郎 演出:金 守珍 監修:蜷川幸雄
美術:中越 司 照明:勝柴次朗 音響:井上正弘 音楽:大貫 誉 衣裳:宮本宣子 ヘアメイク:鎌田直樹 腹話術指導:いっこく堂 振付・演出助手:大川妙子 殺陣:佐藤正行 舞台監督:足立充章
出演
森田 剛、宮沢りえ、荒川良々、江口のりこ、大石継太、鳥山昌克、柳 憂怜、広島 光、塚本幸男、澤 魁士、松田慎也、申 大樹、八代定治、染野弘考、小林由尚、三浦伸子、渡会久美子、プリティ太田、赤星 満、野澤 健、石井愃一、金 守珍、六平直政
公演日程
感想
取り敢えず言いたい。夕一を愛してくれる人早く来てあげて。
なんだろう見ていて朝顔がどうとかモモがどうとかっていうのも当然あったんですが、霧の中からモモを愛して、モモのために仮初とはいえ(彼にとっては)穏やかな生活を崩された体の弱い夕一のことを考えると「もうなんだよ!!なんでお前はそんなさぁ!!可哀想なんだよ!!!!いい人見つけろよ!!!!誰か幸せにしてあげて!!はやく!!!」と言いたくなるわけです。
荒川良々さんのコミカルな外見と、それに反してのどっしり重たい役に言ってしまえばピエロ感みたいなのを感じてもうなんかもう心苦しいわ!!!としか言えない今日。
この作品の初演が85年。当時ビニ本がまだあるご時世なわけですが、浅草ってレトロと伝統が融合している町だと個人的に思うわけです。「眠れる町」とも作中で言われていますが…。
新宿渋谷みたいに都心都心しておらず、かといってど田舎でもなく。
なんてったってこち亀の両津勘吉の生まれも育ちもなんとやらですしね。下町/人情の街、そんなふうに今も根付いている浅草です。
そんな中の物語として追いかけてきたのですが、あいにくと私はその時代を知っているわけでもなく…。当時の時代背景も含めて過去のものを知っている、当時を生きている人と一緒にたまたま行けたのでどうなのかということを終わってから考えて話してきました。
ストーリー的には一緒にいった人曰く「唐十郎の中ではわかりやすい方なんだよ……」ということでした。
最初は語彙の困難さに何度も何度も噛み砕いて自分の中で飲み込むのに時間がかかりました。言い回しが本当に独特で、その言葉の意味と言っていることをリンクさせるのに私の思考回路は一瞬「お、おお!?」となりましたが。なので2回行けて良かったです。
何故朝顔は夕顔に執着するのか。
何故朝顔は「人を愛せない」のか。何故モモは彼に「固執」するのかを考えました。
もともとこの作品はアングラ的な部分がかなり強くあり、こうなったのは社会が悪い的な社会批判も強くあったそうで。
前回のものは、文学的に言えば「エログロナンセンス」…という言葉がありますが生々しさと猥褻さとドロドロ感が強かったとか。
エロ・グロ・ナンセンスの象徴ともいえるのがビニ本でもあるそうで。
「そもそもビニ本とは」と思ったのでWikipediaで調べてみました。エロ本とは違うの?と。
ビニ本(ビニぼん)とは、書店で陳列・販売する際にビニールの袋で包装し、店頭での立ち読み防止のため内容が見られないようにしてある成人向け雑誌(いわゆるエロ本)。
ビニ本という言葉が死語になって久しいためか「違うの?」と思ってたんですがどうやら同じでよかったようです。
で、ふと見おえて、特に2回め、ストーリーを把握しているからこそ確認しつつ見終わって踏まえた上で、なんとなく自分の中で行き着いた答えがありました。
朝顔とモモについて
最初に見ていたイメージは、「アイドル(または二次元)という偶像を好きな人間がそれしか愛せない状態」に近いのかなと。
朝顔が人を愛せないのは「自分の腹の中すらわからない」のに、他人の考えていることなど分かるわけもないからで。
でも同時に人ではない、道具としてある「遠くから来た人」(=二次元とか、付喪神的に言えば「人とは語り合わないけれど”い”るもの」か)人形たちとは話が出来る、彼らの声が聞こえる、彼らを代弁できる。
いわゆる「コミュニケーションが苦手」な人(あえてコミュ障とは書きたくないので失礼します)は、他人の考えていることがわからないから怖い、苦手、嫌、となりやすいといいます。ある意味朝顔もこの人達に部類されるわけです。
まぁ、ぶっちゃけ他人の考えていることなんか誰だってわかんないから言葉にする、それがコミュニケーションだとも私は思うわけですが。
その結果自分の考えが否定されるのが怖い で閉じこもるのが原因ともいいますね。
別に全員が全員コミュニケーションが苦手だから二次元(3次元でもアイドルとか)に走るわけではないと思います。
オタクだからといって全員が全員ガチ恋じゃないのと同じだと思います。十人十色。それはそれ、これはこれ。ただ、人との交流ではなく没頭できる、ある意味で自分の思うがままにイメージ出来る2次元/アイドルに走る、というのは一つの可能性としてあり得る形です。
そもそも作中で「オナニスト」と言われているわけですが、朝顔は「僕は半オナニスト」と言っていました。半なのか反なのか言葉遊びとしてどちらにも見えましたが、片足突っ込んで「不潔!」と言っているようにも思えて戯曲らしさがとってもあったように思えます。
ほら中学生の子たちが性に対して関心はあるけれどそれに対して認めることが出来ないってなるのに似ているな~とか。そんな感じです。
夕顔が「俺が嫌いなのは子どもで、二番目に嫌いなのは子供の心を持った大人」と朝顔の言葉を借りて言っていましたが、朝顔って思春期男子の要素がとってもあるように思えました。
夕顔=人形の口を借りたもう一つのお前 とするのであれば、「俺が嫌いなのは子ども(自分の思い通りにいかない存在/夕顔を浸けこんだという意味で)で、二番目に嫌いなのは子供の心を持った大人(=朝顔自身)」とかにも思えました。
朝顔は「人を愛せない」「人形しか愛せない」。でも自分は?
「人形のような人(≒モモ)」や「人形になるしかない、なりたい人(≒夕一)」と踏まえて見ていると朝顔は「人間でありながら人形しか見ない」で、それはどこかおもちゃ遊びをしている子どもにも見えるなあとふと思い至りました。
朝顔が人形しか愛せなかった、彼らは「遠くから来た」人たちで、その「遠く」とは何か。これを2次元とか自分(朝顔)が入り込めないものだと考えると私の中ではしっくりきてます。
そりゃね、遠いよね。次元が違うもん。
ビニ本を破いて本を開けない。「そこ」にある本をめくれない。それを捲ることで彼は彼のアイデンティティである「人間に興味を向けられない朝顔」を失うわけで。
夕一が「霧の向こうではなく、霧の晴れた場所からいきなさい」という言葉が胸に刺さりました。
霧の向こう、見えない場所、大多数の1、いるのかいないのかもわからないところではなく、真っ向の個人として、1として向き合えという意味なのかなあとか。
それを言える(人として見れる)夕一は「もう殆ど夕顔なんだ」という言葉に泣きました。人間だったのに、人形になっていく。彼の「誰かへ向ける愛」は失われて。そして彼は霧の中の「眠る町」の浅草に生き続ける。停滞していく。「人」は眠る。でも「人じゃない」人は眠らないで生きている。「人として眠る=じゃあここにいる「人のまがいもの」は何だ??」みたいな風にも見えてきて、なにこれ辛い。
大多数の1で思い出したのは「アイドルは紙の上/ステージの上だからいい」にも結びつくのかなあとか。「手に届かないからこそ、見てられる」なのかなあとかも思いました。
「アイドルはトイレなんかいかない!」じゃないですけど、当時のことを振り返ると”アイドルの私生活など知りたくもない”という考えが主流だと思います。アイドルって幻想とリアルの間を行き来する、二次元を飛び回る悲しいほどアイドルじゃないですか。
三宅くんの言葉を借りるなら「虚像」です。その虚像を踏まえて、その虚像がリアルになったときにどうなるんだろう……ということを見てて考えたり。
多分唐十郎が描きたかった話とは私の意見は違うんだろうけれど…。
でも朝顔のグダグダしたような状況を自分に置き換えたら「分からんでもないかな」と思いました。
例えば自分の話ですけど、竹内涼真くんのファンでもあるわけで。
そんな彼の写真集を開けないままでも大事に掻き抱き「あーめっちゃ好き!ほんと好き!」とか言ってたのを隣にいたとしたら。
多分私は朝顔と一緒で ご め ん 。
ってなるし、その罪悪感と「あああああすいませんでしたいっそ殺せええええええ」ってなるだろうなと思います。
そもそも写真集普通に開いてたわ。いい脚してんなあとか言ってたわごめん。そして自分で買ってるわけでだいぶ違うわけです。
なのでモモにも朝顔にもなれません(笑)
ビニ本というものについて私は知識がなく、朝顔が破けない気持ちに対してインターネット世代の人間としては「わかんない」のですが、一緒に見に行った人曰く、「切る時の高揚感と罪悪感にさいなまれる」ということでして…。
そういう意味で「高揚感」「罪悪感」に朝顔は耐え切れるものではないのかなあとか。
しかし朝顔にしても明治の人たちにしても若きウェルテルの悩みとか、罪と罰とか夏目漱石とかもそうなんですが皆なんでそんな悩んじゃうの…もっとポップに明るく生きよう…?!ともなります。
でもその悩んで悩んで答が見いだせないからこそのもがき苦しみというのは生きる上で絶対必要なことで苦悩している様を見ているのはこう、痛いけど、つらいけど、しんどいけど、好きだなと。Mじゃないです。Sでもないです。
夕一の「僕はまだ誰にも愛されていない」という言葉が胸にきました。
おじさんのヒキタ(六平直政)は別に彼を思うがゆえの行動じゃないし、おじさんのお友達も夕一ではなく、自分の過去にあった出来事に対しての憤りなわけで。
愛したものに愛されない、けれどそれを相手にぶつけることも出来ない。優しくて弱くて可哀想な人だなと思いました。でも彼は「夕顔」ではなくても「夕ちゃん」であり、とても大事な登場人物として鍵だと思います。
終始夕顔はあくまでも「想い出の中」「記憶の中」でしか話しません。朝顔は夕顔を動かして話をさせませんでした。彼らの言葉を通じて見える「夕顔」という人形の性質は何だろうと考えます。
途中で夕一が「女を失うでしょう、そして遠くからきた人の声も失うでしょう」という言葉を言っていました。
あれってどういう意味なのかなと思いました。
女=モモです。遠くから来た人、諸君=人形の声です。でも人形の声を聞くことは出来なくなる、それってすなわち「自分のことがまたわからなくなる」なのかなあとも。
“人形の口を借りた「あんただから」”の言葉に朝顔の戸惑いとか迷いとか「どうしたらいいんだ」の焦りがあります。
夕顔を手に入れて取り戻して自分の心をようやく安堵にしたのに、その「自分のこと」がわからなくなる。そして自分に救って欲しいといった、「ビニールの城で眠るお姫様」は一度彼を見放して「そちらに行くためじゃない」と穴を開け、その結果彼女自身もまた霧に包まれる。大衆の1、いるのかいないのかわからなくなる。
自分が目を向けるようになってしまったのは「ビニールの城のお姫様」じゃないモモだけれど、自分から手を離した、拒絶したモモを探す。
夕一は「夕顔」になりつつありました。途中から背中に夕顔を抱いて。彼はモモが朝顔に固執していたのを知っていたのかいなかったのか。でもバザーで彼らの演目を見ていたのは間違いないだろうし、「自己催眠にかけられたモモ」とその腐れ縁の鎖と、縛られていることに対しても不満に思えない状態の弱さ。ビニールに囲まれた夕一。
ねえ彼の救済まだ?
もうあの散々言ってますが、こう、超短絡的に言えば、朝顔とモモはね、別にね、仕方ないんですよ。良くも悪くも自業自得なんだとも思うんですよ。
夕一…ええ……。モモと夕一に関して言うと惚れた人が駄目だったというか「あんなやつ見限っちゃいなよ!!」って友達にモロ言われる流れだ…って思いました。
この作品の感想はまさに「なんてジメジメした陽気だろう」ですよ。
メリバとも言えないしハッピーエンドとも言えないしだからといってバッドエンドとも言いがたいし。喜劇とも悲劇でもない。愚かしい人間の話だと思います。 愚かしいけど、その愚かしさが愛おしい。
一度に2つのことが出来る。平和を願いながら戦争の準備をする。
これって前述のアイドルとファンにある「幸せになって、でも結婚はしないでほしい」の二律背反とかジレンマに似ているな~と。
「幸せになってほしい」けど「結婚しないで」というのはビニ本を開けた時の獣臭さがアイドルというヴェールを破いてしまうから、というようにも感じられました。
結局「ビニールの城」とは何だったのだろう。調べていたらビニ本で成り上がりビルを立てた白夜書房さんとか出てきたけど。そういう即物的なものでもないだろうし……。(むしろそれでビルを建てるってすごい)
「エゴ」だとか「建前」とか「開いてはいけない何か」とか「社会」とか「アングラ」とか「表と裏」とかいろいろなものを見立ててみたのですが、いまいち私には分かりませんでした。それでもずっとずっと引きずっていて、見えていて、どうやっても朝顔は空気銃を打ってみても「そちら」には行けない。自分から行かないと選んだから。
あのビニ本を開いたら僕もまた「客」になる。それは「朝顔」という立場ではなく、「大多数の1」として。とかね。
なんだ、こう、全然うまいことがまとめられてないし綺麗にまとめる気なんかもうとう無いんですが。終わってから余韻にひたる舞台であったと思います。
でも決して「どす黒い」「暗い」だけではなくて、すごくコミカルでポップで明るいシーンも散見されます。
「おじさんの友達も心配してるぞ!」とかね。水めっちゃかかるシーンの時に「ごめんなさいね」と謝っちゃうの好きです。おじさんの友達のキャラクターがとても好きです。
何気ないシーンでもくすっと笑いが起きる部分がいろいろあったように思います。
リカちゃんとのやり取りもそうですね。面白かった。
名前から考えること
モモって桃=ピンク(コケティッシュの象徴)=ビニ本 みたいなそういう……?とか一瞬思いました。
名前に対してどこまでそんな意味があるのかはわかりませんが。
後は単純にアジアと西洋における「桃(モモ)」の扱いの違いかなとか。
アジアだと「神秘」とか「清める存在」なわけで。封神演義で太公望といえば桃食べまくってましたし。中国において桃は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれているわけです。まぁ実際桃まんとか有りますしね。桃園の誓いとかあることを考えると中国にとって「桃」って特別なものなんだろうと思います。
日本だと真っ先に某携帯三大キャリアの一つでCMやってたりとか、某飲料メーカーのCMで小栗旬がやってたりとかの桃太郎が真っ先に思い出されるわけですが…。要するに清らかなもので「悪を断つ」、「邪気を祓う」神聖なものでして。
今作における「モモ」という女って、偶像崇拝の本尊そのものでありながら個でもあるわけで。でも愛をひたすらに朝顔に捧げ、だからといって見返りを求めないわけでもなく(拒絶されてるわけですし)夕一からの愛は見ない聞こえない嫌だなわけです。
「聖女」ではないけれどかといって「汚い」だけでもない。
「ふしだらな女」の意味を持つ西洋の「モモ」の意味と、東洋の「邪気を祓う・誰かのためにある」モモがあるのかなあとか思いました。
それも込みだとモモと朝顔の関係ってモモ=桃=中国/朝顔=「朝」鮮/もしくは「日出づる国」=日本? とか、なんかそんな風に差し替えてみたりもしました。この辺は唐十郎氏のことをちゃんと調べて考えた方の方がしっかり描いてくれると思うし、こう、私が考えなくてもいいかなって。そんなこんなでうだうだ考えてました。
花言葉の話
上記と前後しますが、朝顔/昼顔/夕顔/モモと名前がひっかかったのでついでに調べてみました。
▽朝顔
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
もうなんか「うわぁ…」って早々になってるんですけど。何故巡りあうのかを私たちは誰も知らない。中島みゆきか。糸か。この「固い絆」がどうやっても夕顔との固い絆/人形との絆と思うと、あの昼顔の手錠を思い出します。彼もまた、無自覚のうちに己で手錠をつけてるのだなあとか。
何だそれBUMP OF CHICKENか。グロリアスレボリューションか。
▽昼顔
朝に開花して昼にはしぼんでしまうアサガオ(朝顔)に対して、ヒルガオは朝に開花して昼の間も咲き続け、夕方に花をしぼませます。
モモが名付けた「ひるがお」。朝と夕の間、そしてちょうどお昼でお腹がすいたから、昼顔。
でもその昼顔の「情事」という意味はビニ本の象徴でもある性的な意味を持つことにも繋がりますし、この後のモモと朝顔のビニール挟んだやり取りを 彷彿と思い出させます。
人形と朝顔の「絆」を託し、人形に名前をつけた「友達のよしみ」としてこの後の「情事」を思い出させるビニ本の女である彼女が名付けた人形の名前が「昼顔」。うわあ…うわあ…。
▽夕顔
和名の「夕顔(ユウガオ)」は、夏の夕方に開花し、翌日の午前中にはしぼんでしまうことに由来します。
ユウガオ全般の花言葉は「夜」「はかない恋」「罪」
アサガオシリーズもうやだ……「罪」って。罪て。人を惑わす、自体を結局引っ掻き回した罪なのかな。罪と罰か。もうなんか考えだすと胃痛がやばい。もうやめて差し上げて。調べた私のLPが0だ。
▽モモ
モの名称の由来は諸説ありますが、たくさんの実がなることから「百(もも)」が果実の名前になったという説や実が赤いので「燃実(もえみ)」が転じたとする説もあります。
モモの花言葉は、「私はあなたのとりこ」「天下無敵」「気立ての良さ」
※西洋での花言葉・英語 Language of flowers
「I am your captive(私はあなたのとりこ)」「unequaled qualities(比類なき素質)」
も、も、モモーーーー!!!!!
なんてこった。なんてこった!!
名前の由来ぼーっと考えてた上記から調べて「たくさん実がなる」ってあれだよな……沢山の人の慰み者になる(写真の上でだけど)って考えると子どもは出来ないけれどその種子を飛ばされるとかそういう…あー……。
「私はあなたのとりこ」って最早もう何も言わなくてもいいぐらいにあああ…ってなるし「比類なき素質」って朝顔をあそこまで愛している、という意味にも繋がるよなとか。
なんかもういろいろ頭抱えました。どこまで分かって作られていたのかわからないけど、もう。あの、もう。もうなんか許して差し上げろ……!!ってなりました。
俳優さんについて
森田剛さんについては「声がかすれている」というのを見に行く前にTLで拝見していたので「大丈夫かなあ」と思うばかりでしたが、そこまで私が思っているほどひどくはなかったです。そしてあの長くて難解なセリフを言い回すの大変だったと思います。朝顔の挙動不審な行動と、堂々とした口上を見せるところ。「YOU!!」と叫ぶところ。後しっかり水泳帽とゴーグル持っていたの笑いました。持ってるんかい。
なんだろう、逐一全部を覚えているわけではないのですが、すごい印象に残るシーンが節々にありました。荒川良々さんとの論争というか言い争いのシーンは見ていて勢いがあって激しさに飲み込まれそうになるというか。
2度やっているうちの、引っこ抜いちゃうんだから!のなんか良くわからない不幸自慢なのか悪い子自慢みたいなやり取りはテンポがとてもよく、その後の論争との温度差みたいなのをひたすら感じてすごいなーと思うばかりでした。
荒川良々さんの専門用語に「何いってんだか」という言葉には正直見ている側も「うん何いってんだ!!まるで意味が分からんぞ!」となっていました。でも多分それでいいんだと思います。
腹話術指導にいっこく堂さんがいらっしゃいましたが腹話術の動きも「あっ腹話術ちゃんとしてる」と思いました。頬にてをよせて隠した上でやる行動とかも含めて、うまいなあさすがいっこく堂…と思います。腹話術業界を変えたお人ですもんね、いっこく堂さん。一度生で見たこと有りますが本当この人なんなの……と最早脱帽しか出来なかったのとを覚えています。そんな彼の演技指導があったから、朝顔という腹話術師も3人の腹話術師も人形をいきいきと躍動させていたなあという印象です。
2回目も1回目も、見た時の印象は「宮沢りえの驚異的な女優力」が一番最初にありました。すごかった。ただただすごかった。他人を寄せ付けない力強さみたいなものを感じました。
映画の「紙の月」でもそうでしたがとても良い女優さんだなあと思うばかりです。モモとしてのメリハリ、ビニールの「あちらがわ」での色香。恐ろしい。すごい。
最後のビニールに包まれた状態でいらっしゃる姿はひたすらぞわりと背筋が粟立つばかりで。女でこれなら男の人だったらもっとすごいだろうなあと思います。
宮沢りえさんは少女のような女性だなあと思います。お声も年を取っているような感じをさせないし、溌剌と動きまわるところは愛着がある。妹分のリカちゃんとのコミュニケーションも良かったし、マスターとのやり取りも面白かった。「つけまつげ多くない!?」「少女フレンドのような目にしたくて」とか。だけど、決して彼女も気楽で楽なわけじゃなくて、なんだろう、「喜怒哀楽」における一部分をなくしたうえで仕事をしているのだなあと思いました。なくさないとやってらんない、とかね。そういうの。
宮沢りえさんと森田剛さんで思ったのは鏡越しに見える表情の豊かさ。
撮影をされるときの宮沢さんの表情はエロティカルで扇情的だし、それを見つめる朝顔、森田さんの表情も険しくしんどいものを感じさせる。至極当たり前なんですが指の先から頭の天辺まで、舞台のカーテンコールまで、最後までずっと「朝顔」で「モモ」で、背中を向けていても(鏡があるとはいえ)その人物としてあるのはいいなあと思いました。多分プロなら当たり前なことなのかもしれないんですが。その表情一つ一つが印象的だったので……。
荒川良々さんについてはもう本当再三いっていますが夕一が咳き込むのを見て「この人いつか死ぬんじゃねえのか」とか最初思ってて。
そんな病弱で今にも死にそうな「夕一」を振り捨ててでも朝顔がいいモモがしんどいなあと思いつつこの人もっとしんどいよなあ…とある種二人に振り回され生活を崩された彼を丁寧に演じてくださいました。霧をシュッシュしながら森田さんと話すシーンコミカルでよかったなあ。TOO YOUNG TO DIEでもそうでしたがコミカルなお芝居が彼は多いイメージだっただけに、こういうずしっとくる役は本当逆に胸をつきました。
ミッツ(六平光成)のおとーさーーーーん!!!!かっこよかったでーーーす!!
この舞台見に行くと決めたきっかけはまぁ森田剛x蜷川幸雄という組み合わせももちろんでしたが、個人的には「六平直政さんが出る」ということがとても大きかったのですが、その重要度を改めて感じました。
おじさんの初登場シーンから、コミカルな動き。特に3章における腹話術トリオと一緒の動きは非常に見ててふふっと笑ってしまうものでしたし、彼もストーリーにおける重要なポジションでした。
夕一の無念を晴らす、という恨み。けれど彼は彼の「朝顔が本当に口だけではないか」を見るためでもあるわけで、そこに夕一に対する愛情から出たものではないとか、いろいろ思いました。
水槽の中に飛び込む前に手錠をかけるときに「なんだかお前に遊び道具提供しちゃったみてぇだな」ってセリフがとても好きです。おじさんなんだかんだネタツッコミも出来るよおじさん!!
また、最終的にビニール城(これ途中で「ビニール嬢」ともかけてるのかなあとふと思ったんですがどうですかね)で撮影に赴くモモに対して空気銃で開けたビニールを引き剥がして「さあ撮ってやる」って言って乗り込んできたの、あれは「おじさん」ではなく、アンサンブルとしてでよかったのだろうか。
もしおじさんだったら「お前も結局そっちじゃないかい!!笑」というツッコミもできるし、そうじゃなかったとしてもああ、人々の慰みものになっていく姿を見送るってこんな気持かあ、とも思いました。
ということで、蜷川幸雄氏の追悼公演でしたが、こう、あの、唐十郎作品を本当にあまり触れる機会がない私なりの意見でした。大分なんか脱線してる気がする。
非常に突き詰めていけば答はぜんぜん違うものになるだろうし、多分私のこの考えは「ねえよw」と思われる方のほうが多いと思います。ほんとすいません……なんか見てたらいろいろこみ上げてくるものがあったので走りがいてます。
千秋楽は29日。最後まで走りきってくださいね。
脱線するけど:関係ないところで結びつくご縁の話
関係者席とか私そんなに分かんないし顔みて分かる自信そんなないとか思ってたら。
舞台観に行きました。
— Genki Omae (@genki39o) 2016年8月15日
ありがとうございます‼︎
かっこよすぎる pic.twitter.com/FeWKxM0Wj9
絶 対 分 か る 人 来 て た 。
怪我は大丈夫なんですかね。復帰にはまだ遠いかな?でも彼の帰りを待っています。
流石に家帰ってツイッターひらいて声を出して笑いました。とんだ近くにとんだ分かる人がいたもんだ…。
み、ミッツは!?ねえミッツは一緒にいかなかったの…!?と思いつつ、確かミッツはお父様のお芝居全部見てるといっていたはずなのできっと見にいってると信じています。
一緒じゃなくても。一緒じゃなかったらそれはそれで「チームメイトの親父の舞台を見に来る仲良し選手」という意味でとても和みますが。
中国に寒いからって長袖差し上げるよな仲だもんねしょうがない。
デンキブランを飲んできました
デンキブランいただきまー\(^o^)/ pic.twitter.com/FZOdc4aUrf
— ポジティブ柑橘類(甘夏) (@amanatsu0312) 2016年8月19日
要するにデンキブランって何だよって思ったんですが神谷バーで売ってるカクテルなんですね。
こちら、神谷バーのホームページでデンキブランの紹介もされています。
さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。
それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。
デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。
あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気でした。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度です。
常温でストレートであんな一気に呑んだらそりゃあ喉焼けるだろうなあとも思います。神谷バー自体は一度行ったことあったはずなんですがお店の雰囲気が好きなのに全然ビニールの城とリンクしなくて不思議な気持ちになりました笑
私が今回飲んだのはロックでしたが割りとすんなり飲めました。そんな言うほど今のデンキブランは強くないので飲みやすいと思いますよ。
彼らが飲んでいたのは時代的に45度ないしはオールドの40度かな。
そこで興味深かった一節をホームページを拝見してあったので引用。
デンキブランは下町の人生模様そのものです。
一口、また一口とグラスを傾けると、時がさかさに動いて、見知らぬ時の見知らぬ人に逢えそうな、そんな気がしてくるのです。
(同上)
時が逆さに動いて、見知らぬ時の見知らぬ人。
それってこの話で何度も出てきた「遠くから来た」人にもあたるのかなとか。遠くってドラえもん的な発想で言えば「未来」「過去」も「遠く」。時間は距離で測られることもありますしね。