遠藤周作の「沈黙」という小説を読んだことが皆さんあるだろうか。
私は父親が遠藤周作の小説を学生の頃に読んで超トラウマになったからという理由で渡されたことがあった。中学三年生・夏のことです。今思うと父親が鬼だったなと思いますが当時読んで精神的ダイレクトアタックを超絶受けました。
それから10年以上経過した今。このたび「沈黙 サイレンス」として映画化されました。それも日本人監督ではなく、マーティン・スコセッシという監督の手で。
そういえばオペラでも「沈黙」はできていたとかで。非常に興味深いですね。作り方扱い方が違うのだろうけれど。とても映画は興味深かったです。
決して万人受けする「エンタメ」的なものではなく、どちらかといえば概念とか、そういうのに触れた話だと思います。ということでのんびり感想いきます。学生時代に読んだものを紐解いてる形なので、正直「そうだったっけかなあ」とふわふわしていますが、映画は映画、原作は原作ということで。
遠藤周作の「沈黙」の話
この小説は遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説です。
遠藤周作という人は元々ご自身が一家を通してクリスチャンだったということもあり「日本人でありながらクリスチャン」であることに悩んだと紹介されていましたが…。
世界中で13か国語に翻訳されているこの小説は、戦後日本文学の代表作として高く評価されています。
「沈黙」あらすじ
17世紀、江戸初期。
幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。
それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の 井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―
守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―
(公式サイト:映画『沈黙‐サイレンス‐』公式サイト より引用 )
キャスト・スタッフ
メガホンを持つのは「タクシードライバー」を手がけるマーティン・スコセッシ。
作る作品ごとに色が出て変わる同氏が構想28年をかけて作り上げたというこの作品。
主役「セバスチャン・ロドリゴ」を演じるのがアンドリュー・ガーフィールド。舞台からキャリアをスタートさせ、新人賞を複数受賞している二代目スパイダーマンです。
また、彼と行動をともにする司祭フランシス・ガルペをスターウォーズシリーズ最新作でのヒール・「カイロ・レン」を演じたアダム・ドライバー。黒髪がよくお似合いの俳優さんですね。
そして重要ポイント・棄教した彼らの師とも言える神父・クリストヴァン・フェレイラにリーアム・ニーソン。スターウォーズでオビ=ワン・ケノービの師であるクワイ=ガン・ジンを演じたタフで有名な俳優さんです。
このリーアム・ニーソンめっちゃ好きでした。
また、キーキャラクターというか、登場して我々に心に傷をしっかり与えてくれるキチジローという男を窪塚洋介が演じます。個人的に彼の芝居好きでしたが今作でもいい味をしていました。
また、井上筑後守のイッセー尾形、モキチに塚本晋也など多彩な日本人俳優が登場しています。
感想
多神教と一神教は相容れないものなのだろうか
日本人の概念として「万物には霊が宿る」という神道的なものがあると思います。基本的にはキリスト教の教えとはまた違う。別にこれは良い悪いの問題じゃなくて。そういう「もの」なのかなとも思います。
でもあまりにも浸透しきっているから「神様」が近くにいるからとかそういうのってよほど考えない限り、我々は口にあんまりしないよなあとか。まぁこれは私の場合なのですが。
現代日本だとクリスマス祝ってそのまま除夜の鐘つきにいってその後新年祝って神社いくじゃないですか。それって根本的に「わーいお祭りだー!」っていう気持ちで受け入れ精神の結果なのかなと思います。この映画ではそれを日本人が否定しているけれど、それってじゃあ「どうして」なのかなって考えるわけですよ。
これってキリスト教が一神教だからなのかな、とか思うわけです。作中でも「それはそれ、これはこれでお前らお互いにそれぞれでええじゃん…」って言われているわけですが(仏教を否定するなって言葉がありましたね)私もそう思うわけです。別にそれはそれでいいじゃん、みたいな。
でもそれって「日本の土壌信仰」の結果なのかなとか。
織田信長はキリストを受け入れたけど秀吉以降は認めなかったのは信仰が侵攻になってくることを危惧した結果なのだろうと私は思うんですけど。それを思うと徳川秀忠めっちゃキリスト教的なベクトルで見ると歴史的にすげえ人だなって思います。この時代じゃなくてよかった。
キチジローは「弱き者」なのだろうか
ひたすら作中で彼は何度も裏切るし本当どうしようもないし言ってしまえば家族も皆も犠牲にしながらも「自分だけは生ききってやる」っていう概念を持っている人だなと思います。それでもキリストを信じたいっていう考えは「コイツ何をぬけぬけと」と思う一方で非常に共感する部分もあります。
だってほら…そんなんじゃなかったら「困った時の神頼み」なんて言葉出てこないよね。それと逆パターンなのかなとか。
弱さって何だろうと思います。生きるってなんだろう。弱さってなんだろう。立ち位置として農民としてひたすら生きていくしか無い彼らが、高い年貢を納めて、それでも「生きとし生けるもの」として、赦される。どういうものが正しいのだろう。結構見れば見るほどぐるぐる考えます。
キチジローを演じた窪塚洋介はどういう風に見ているのか調べてみたところ
「『転ぶ』ことと棄教とは違う。キチジローは転べば起き上がり、起き上がったときにはまた信じています。遠藤周作は、これは僕自身だと言ったそうですが、キチジローは自分の心の中に自然と湧き上がる気持ちに忠実で、踏み絵は踏むけれど神様は信じている。極めて欲張りで、人間臭い役です」
とコメントしています。
キチジローは言ってしまえばユダみたいなもんですが、でも何度も転んでも起き上がってイエスに縋ろうとしているわけで。そこらへんも面白いなと思います。
そもそもの話ですけどこれは仏教よりの考えなのかもしれませんけど“どうしようもない人”だからこそ神様にすがるもんなのかなあとも思います。だって充実してて生き生きしてたらそんな神様なんか祈らなくてもいいじゃない。日本人的な考えかもしれないけど。
でも、苦しんでいるからこそ神様というものを求める、救済を求めるのかなとか。だから蜘蛛の糸とかそういう話があるんじゃないかなとか。あれこれ言ってたの誰だっけか。なんか学校で習った記憶がある。
拷問シーンについて
よくここまで再現したなあと思います。穴釣り正直小説で読んで「うええええ」って何百回思いましたし本を閉じました。それぐらいエグい描写だったし、これ実際にやった拷問シーンだったのだと思うと思いついた人恐ろしいなと思います。
イノウエ様は元々棄教している人なわけですが、映画ではそこが描写されていませんでしたね。でも読み解いていけばわかる部分も結構ある。そうかああ…みたいな。
「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」
日本というのものは受け入れるけれど、飲み込むけれど何かを否定するもの、既存するものを認めないっていうのは基本的にNoな国なんだろうなって思う。
「温故知新」という言葉があるとおりだけど、「出る杭は打たれる」とも言うけれど。飽和状態の味噌汁に味噌をぶっこんだ所で結局味噌になるんだけれども。基本の根っこを全部覆すことはできないし、そもそも「概念」「考え方」「生き方」が違うからなのかなあとか。
でもじゃあなんで人はすがるのかなあとか。既に私もスパイラル。
本当に強い人間などいないから人は概念を考える
この作品って何が正しいのか、何が良いのかっていうものではなくて。
人とはなんだろう。とか。
「人に救いを与えるために教えに来たのにその教によって人々は苦しみ、死ぬ」というパラドックスから起きる「じゃあ自分がこなければよかったのだろうか」というスパイラル状のぐるぐるしていく結果なのかなとか。
「キリスト教は信仰に基づいていますが、その歴史を研究していくと、信仰が栄えるためには、常に大きな困難を伴いながら、何度も繰り返し順応しなければならなかったことが分かります。これはパラドックスであり、信仰と懐疑は著しく対照なうえ、ひどく痛みを伴うものでもあります。それでも、この2つは関連して起こると思います。一方がもう一方を育てるからです。懐疑は大いなる孤独につながるかもしれないが、本物の信仰、永続的な信仰と共存した場合、最も喜ばしい意味の連帯で終わることが可能です。確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へというこの困難で逆説的な推移こそ、遠藤がとても良く理解していることです」(公式サイトから引用)
とスコセッシ監督は言っていますが…。
ちなみに映画は描写最後を変えているとかで。懐刀をもたせた奥さんが何故ロザリオを彼の手に握らせたのかを考えているのですが。
「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」という言葉が出てきます。
どんなに信仰したって、どんなに信じたって、どんなに祈ったって神の声は聞こえないし神様は見えない。でも人は求めるし、神様は「い」ると考える。オヤシロ様はいる
人は人によって求める神様のあり方ってぜんぜん違うから、ロドリゴにとっては“そばにある”ことが答えなのかなって思いました。
映画として
邦画っぽい(原作が日本文学だからね)映画だなとしみじみと。一人ひとりを抜いた映像としても美しいし、拷問シーンはエグいしあり方をぐるぐる巡っているし。
でも時間は長いけれど、その長さを感じさせなかったです。エンタメ性を求めて見る作品ではないからこそ、じっくり腰を据えながら「どうあるべきなのか」とか「どこに我々はいくべきなのか」を考えるのがいいなあと思います。
煽りに合った「なぜ弱き我らが苦しむのだろうか」にひたすらぐるぐるしています。
明るい映画ではないし、原作も知っている上で見たけれど、見て良かった映画だと思います。
うまくまとめられてないけど、見た感想としては以上!なんかいろんな考察とか批評とかはちゃんと書いてる人に任せます。雑記ブログらしく雑記に雑記に。