先日山﨑賢人主演の「羊と鋼の森」を見てきました。
ざっくりとその感想をこれから書こうと思っているんですけれど、とりあえず盛大にネタバレしているのでご注意ください。
言いたいことは「ほっかいどうはでっかいどう」ということは主張していきたいと思う。
「羊と鋼の森」
Twitter*1、Instagram*2を活用されています。オフショットやこんなことしている、あんなことをしているよっていうのを訴求することで多くの人に伝わっていくのは見ていて「PRの一つとしてSNSというものが注視されるようになった時代である」ということが顕著になった気がしました。
あらすじ
将来の夢を持っていなかった主人公・外村(山﨑賢人)は、 高校でピアノ調律師・板鳥(三浦友和)に出会う。
彼が調律したその音に、 生まれ故郷と同じ森の匂いを感じた外村は、 調律の世界に魅せられ、果てしなく深く遠い森のような その世界に、足を踏み入れる。
ときに迷いながらも、先輩調律師・柳(鈴木亮平)や ピアノに関わる多くの人に支えられ、磨かれて、 外村は調律師として、人として、逞しく成長していく。
そして、ピアニストの姉妹・ 和音(上白石萌音)由仁(上白石萌歌)との出会いが、 【才能】に悩む外村の人生を変えることに―。
今作はいわゆる「ピアノの調律師」にスポットがあてられた小説が原作の映画です。
スタッフ・キャスト
主役を山﨑賢人。
また、そんな彼にとっての憧れの調律師、板鳥宗一郎を三浦友和。
感想
原作が宮下奈都による小説ということもあり、元々原作をちょっとずつ読んでいたので「ある程度の認識」はあったうえでの感想になります。
まずは映像として、「この尺の中ですべてを表現するのは難しい」ということと、描く上での取り捨て選択が非常に難しい作品です。
映像として、とても綺麗なのですが同時に、「ことばの世界」だからこその綺麗な描写が映像という作品になったときに形にするのは実に言い表わしにくいものだなという印象。
綺麗で、とても丁寧なのですが、文字を読むときに追っていて感じていた波というものが、とても穏やかになっているように感じました。外村を中心に描かれるなかで、「人と人」という関係としてどういったものを作るかということにポイントが当てられているからこそ、考えられるものが多々ありました。
映像では、風景や自然現象の部分が多く描かれ「―本日の放送は終了いたしました―」とかBSとかスカパー!で見たことある!ってなったりとか、また、ピアノの音の心地よさも感じられました。
が、同時に、心地よすぎて集中しているはずなのに、どこか焦点がうまくあわなくて少しズレみたいなものを感じるのが惜しいかな。
入れてほしいシーンがカットされていたこと(まぁ入れると分散するので「でしょうね」はあった)、彼らの人間面的な成長部分に対しての、「ああ、そこは…そうかあ」ってなってしまうところとかもありつつ。それでも読んでいて「天才ではないからこその積み重ね」という部分に非常にマッチしていました。
上白石姉妹は改めてどちらも揃った状態で見るのは初なのですが、本当に姉妹であるだけに、息のあったお芝居が見られたと思います。片方が夢を方向転換し、片方が突き進む、ある意味の自立の中で「双子」ゆえの寄り添いもあって個人的にはポイント高い。
また、城田優氏が出てきた瞬間に「お前またピアノ弾いてるんか!!!」と内申ツッコミを入れていました。というのもトットちゃんで彼はピアニストの役だったので…こう…いやでも城田氏の足の長さとか日本人離れした雰囲気とか、きざったらしくて「お前の言いたいことつまり何なんだってばよ」っていう部分はとてもよく出ていたと思います。は、腹立つ~~~だがそれでこそ。
仲里依紗はホリデイラブぶり。雰囲気をいっきに変えての表情だったので最初「=仲里依紗」と気づけませんでした。いいキャラだった。
鈴木亮平氏に関して、和装したときに「せ、せごどん…」と思って終わってから友人たちと「せごどん思い出した」と言われつつも、彼のお芝居として、役に対して寄り添う力みたいなのは常に感じているからこそ「あの人本当に体系からすべて変えるよねえ」っていう話に。
メトロノームの前に座って動きと音に耳を傾けている「背中」が非常にそれ一つですべてを物語っているのが興味深い。
私の好きな橋本良亮君*3が「鈴木亮平さんをリスペクト」とananで言っており、ああいう体系から変わるようなのすごいと言っていたのを読んで、「さあ天皇の料理番と変態仮面と花子とアンを見るんだ」となった今日このごろです(笑)
山﨑賢人くんは学生→現在に至るまでの描写として「一番成長する」という芝居をしなくてはならないなかで、森を散策したり、ばあちゃんに負い目を感じたり、弟(ここで前情報0で見てたら佐野勇斗くんで私は非常に驚いた)と並ぶときの負い目だったり、苦悩だったり、飄々としているつもりはないのに、そう見られてしまうところは印象に残りました。
集中力のいる仕事である「ピアノの調律師」を集中力のいる「映画」として形にしたとき、彼の表情というのは印象に残りました。三浦友和氏とのやりとりは師弟として「言葉がいらない」ぶんだけ、空気とか、いろんなもので伝わらなければならないからこそ難しかったろうなとも。
等身大、でも山﨑賢人くんと外村はイコールではない。外村は自然の中に育っていて「非凡」ではない、そこにもっているものは山﨑くんの持っているものとは違うもので。「ひとつひとつ、こつこつ」という言葉がだから響くのかなと。
原作でも言っていましたが「才能というのは好きでいられること」というものがあります。
好きだからこそやる。好きだから、続けられる。そういう人を「天才」というのであれば、一つ一つの努力して積み重ねていくのもまた、天才ともいえるのかなと。
調律師なんて絶対気が遠くなる仕事無理だなと私は小説を読みながら思ったのですが、改めて「目に見て形にしている姿を見る」というときに、作品の中にあった「音楽から映像を見る」というのはとても原作という《文字》から形に起こすイマジネーションとして類似しているのかな、と思ったり。
そういう意味ではピアニストを物語にしている「蜜蜂と遠雷」でも調律師は出てきますが、どこかリンクしている「音楽から世界を見る」というものにつながるのかなと。外へ外へとつながっていく、紡いでいく。
私はそれぞれにそれぞれのリンクを見ながら楽しませてもらいました。
映画として面白かったかと言われるとベクトルが「エンターテインメント」として見るものではないものなので、ちょっと評価が難しい。とても心が湧き上がる、楽しい!というものよりも、しっとりしっとり、雨だれのようなものがだんだん広がっていく、というかんじなので求めているものが違うととても温度差・摩擦を感じてしまうのかな、とも。
ただ、「文字を映画にする」「音を視覚的に表現したらどうなるか」という試みとしてもとても見ごたえがあったと思いました。
「羊と鋼の森」は漫画にもなっていますが、それはまた印象が変わるので(当然、イラスト化されているのでイメージと@@が違う!ってなりそう)、そこらへんの「違い」を楽しいと捉えられたらいいですよね。
あと「調律」って見て「調律者」からの「ロウラー」って読んだ人いたら素直に手を上げなさい。あなたサモンナイト好きですね!?(笑)*4
ということでのんびり感想でした~。しかしこの作品改めて見てたらちはやふるで見た俳優さんいっぱい出てるな!と気づいた(笑)