柑橘パッショナート

インプットとアウトプットを繰り返すごちゃまぜスタイル

ミュージカル「スワンキング」初日感想/”認めているのは才能であり、その人個人ではない”というジレンマ

 6月8日より国際フォーラムホールCにて「スワンキング」が開演いたしました。東京以外も様々な場所を巡られるということで、どうぞ最後まで何事もなく進みますように。ということで、有り難いことに初日のチケットを入手できたので見にいってきました。

ついぞ本人が見ることができなかったノイシュヴァンシュタイン城

 個人的にルートヴィヒ2世をテーマに描いた映画をもう10年くらい前に有楽町の映画館で知り合いと見に行って「すごい人だな」と思った記憶がとてもあります(笑)

www.youtube.com

 当時一緒に見に行った人がヘタリアからのプロイセン、ドイツというものが好きなお人だったので、ビスマルクがこのルートヴィヒ2世における感情を爆発させているお話など、色々語っていた記憶があります。(殆ど記憶ないのでその事象だけ覚えてたみたいなもんですが)それにしても、この映画、記念映画でもあったということを今回記事に書くにあたって調べてたら知って「そうだったんだ」と驚いた次第です。

 そんなこんなで、回り回って同じ人物を題材にしたものを応援している人が演じる、というのはご縁があるな、とも感じますね。

 感想を書くにあたって、フォローしているドイツ観光局の公式Twitterを見直してめちゃくちゃおもしろかったのでおすすめです。ドイツに行きたくなります。

 Google Map等からも見ることができますが、「謎の死」という解明しきれないミステリー。ノイシュヴァンシュタイン城といえばシンデレラ城のベースのモデルになったでおなじみの城ですし、馴染みの深さも言わずともがな。

ノイシュヴァンシュタイン城から着想を得たシンデレラ城

 前に行った時、個人的にとても良く撮れたのでせっかくなので(笑)

 ということで、「スワンキング」を通しつつ、ルートヴィヒ2世ワーグナー諸々の所見など本作を見た上での雑記となります。

 

※ポジティヴ/ネガティヴ要素どちらも諸々孕んでおりますのでご注意ください。

※作品へのネタバレ等も多く含みますのでご注意ください。

 

 

スワンキング概要

www.swanking.jp

 

 本作はG2氏による完全オリジナル作品。ルートヴィヒ2世ワーグナーの出会いや、スキャンダル等を描いた作品になります。主演は橋本良亮さん(A.B.C-Z)がルートヴィヒ2世ワーグナー別所哲也氏。

ストーリー概要は下記の通り。

シュタルンベルク湖のほとりで、不吉な胸騒ぎに襲われるオーストリア皇后・エリザベート
そんな彼女の元に、お互いに唯一心を許した存在であるバイエルン国王・ルートヴィヒ二世の死体が湖から上がったという報せが届く……。

時は遡り、とある安宿の一室。作品の上演機会を失い、借金まみれになった天才作曲家・ワーグナーは自らの死を覚悟していた。そこに救いの手を差し伸べたのがルートヴィヒ二世。ワーグナーを崇拝する彼は、莫大な報酬をもって惜しみない援助をし、大作オペラ「ニーベルングの指環」の上演を共に夢見る。ワーグナーは信頼する指揮者ビューローとその妻・コージマを呼び寄せ、創作に没頭する。しかし、このことがワーグナーとコージマの人知れぬ関係を生み出し、またルートヴィヒ二世は政策的批判から窮地に追い込まれることになる。

友情、愛情、嫉妬、絶縁…、立ち塞がる史上最悪のスキャンダルを乗り越え、果たして彼らの夢は達成されるのか……。

 (公式ホームページより引用)

 

 キャストは前述した二人のほか、梅田彩佳さんや渡辺大輔さん、関西ジャニーズJr.の今江大地さん、牧田哲也さん、夢咲ねねさん等が並びます。渡辺大輔さんといえば先日N2Nも出演されていましたね。どんな風に演じているのか非常に見たかったので良い機会に恵まれたなとも思います。

 

作品全体の感想

倒叙形式から幕を開けるステージ

 冒頭一発目からルートヴィヒ2世の逝去から始まるのですが、それがどのような形で始まりを告げたのか、と言うような形です。

 主人公の死から始まる作品は多々ありますが、本作も「死」という確定事項からなぜこういう形に物事が起こったのか――を振り返る作品になっています。

 「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」という開始から始まる火垂るの墓も同じようなスタイルですね。

 また、本作にも登場するエリザベートの最初も同様、死んだ、殺された、という事実からのスタートです。そこも意識して作られているのかな、とも感じました。こういう「どうしてこんなことになったんだ!」という倒叙形式幕間になって「どうやってこの人死ぬんだろう」という興味を持てるような1幕、そして死へと向かう2幕というイメージです。2時間40分弱ほどのお芝居です。

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 以降のストーリーは着々と進んでいき、ワーグナーを招聘してからの日々、うまくいかなさや王政における部分、真相を知った上での決別、ソフィーとの婚約破棄、弟の脳の病、と次から次へと起こるルートヴィヒ2世。対して、ワーグナーは自らの台頭、コージマとの不貞、作曲活動、王との決別、自らの劇場を作るべく奔走する姿などが描かれています。

ルートヴィヒ2世を主軸にした「群像劇」として

 主演がルートヴィヒ2世ではありますが実質W主演と言ってもいいのではないかな、と言う程度にはワーグナーやコージマが主になるシーンが多かったように感じられます。ワーグナールートヴィヒ2世の視点の切り替わりがメインになるので、ここを行き来しているような感覚になりました。体感時間は歌は多いですがじっくり腰を据えて聴く、見るのステージです。

 オリジナルとはいえ歴史上人物をテーマに描いている作品なので調べるといろんな諸説があって面白いです。もともと近しい親族で血縁を深めてきた一族な分、さまざまな問題がありオットーもルートヴィヒ2世にもいろいろな懸念材料があったこと等パンフレットを見ていて知り、そこらへんを踏まえてみると作品の印象も異なりそう。

 どちらかというと「この物語で歴史を知る」というよりも、歴史を知っている上での「こう言うふうに描くよ」「こういうことがあったときはこんなふうに思ってた(やりとりがあった)かもね?!」みたいなif要素を孕んでいました。

 歴史的に大きな出来事がたくさんありますが、それらを怒涛に流し込む分、物語として大きな流れの波というよりも、細波が何度も繰り返されてるような印象を受けました。そのへんは「歴史」という万物流転の物語として描きたかったのかな……?というようにも受け取っているのですが……。歴史な流れや人物の立ち位置など知らないと「なんでそうなるの?」と言う気持ちが生まれるかな、といったジレンマ要素もある内容ではありました。登場人物が次々変わる分、そこの入り込み要素は少ないので難しさもあります。何をして、どうなっているのか。そもそも彼らに迫られている選択のときについてなどの動きは知っていることが前提なのかな。

 キャラクターの感情が、「出来事」に対して付随していくような形であったので、人生の喜怒哀楽を併走するというよりもスポットで「こんなこと起きました!」「そのときの彼の気持ちはこう!」という描き方な分、感情移入するというよりも神という視点、俯瞰部分で「乖離した人たち」を見守っている気持ちでした。登場人物の内面を紐解き感情を歌という形で表現するミュージカルというよりは、ストーリーを歌に合わせて表現し流れを見せる、ということがメイン軸に見えました。

 個人的にはもっとルートヴィヒ2世にならルートヴィヒ2世に、ワーグナーであればワーグナーにフォーカスを当てたものも見てみたかったです。全体をフォローしている分、個人個人の感情や考えの掘り下げがあっさりしていたな、と。弟の精神面の狂いなどももっとやるなら弟(オットー)に関するジレンマや畏怖、進みきれないところなどが合ってもいいんじゃないかな、など気になる箇所があり、見終えた後に自身で補完したりしています。

 ポジティブな舞台かネガティブなのかと問われれば、人間万事塞翁が馬。そして盛者必衰。人は愚かで悲しく、そして美しい。そんな感じの物語かなと言うように受けました。夢や自由、やりたいことをやり続けるために周りの意見はいらないかもしれないけど、寄り添うことで見つけられる優しさもある。独りよがりの夢と自由の因果応報さも感じる舞台ですね。と、同時に同じ夢を見ていたとしても、目指すものが同じでも人は同じではないからこその合わなさは絶対にある、というように見えました。知識を持って見た上で感じることと、0から見た上でも楽しむ感情とそれぞれ違うと思います。今作に関しては前もって舞台について認識しておいたほうが「より楽しめる」と出演者の一人がYouTubeに解説動画をあげているのでこちらを見た上での観劇をおすすめします。

 

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 こちらの解説をみていくと、「推し活の物語」として、推しかぶり(同担)や、推しの炎上・推しの繋がりや諸々といったような置き換えながら見ていったほうが良いようにも見えました。登場人物の諸々考えというよりもその「出来事」へのフォーカスの当て方の違いなのかな、とも感じました。

 

セット、衣装などへの感想

 セットは大きな装置がある、と言うよりは燭台や柱など王宮をイメージしたものや細やかなものがメイン。迫り出してくる玉座などもありますが奥まったところに基本あるので、見るならセンター中列がいいかな。国際フォーラムホールが傾斜がそこまでしっかりあるものではないので、前列だとセットがかぶって奥行きちょっと見づらいかもしれません。セットの動かしは、アンサンブルのなめらかな動きがすごく良かったです。

 さらっと歩きながら燭台を移動させているところ見ててきれいでした。初日はちょこちょこ大道具?なのかな。後ろで何か倒したか、物を置いたのような大きな音が聞こえたので、単純に現実に引き戻されるというか何かあったかなと心配になりました。何事もなかったのならそれで良いのですが…。

 

 衣装はさすが歴史ものなだけあり、男女問わず種類が豊富で美しかったです。金の刺繍が入った赤いベルベット(でいいのかな)のマントが印象的で見入りました。オットーにももう一着ぐらいあってほしかったかなぁとも思いますが、アンサンブルの方々のドイツ民族衣装を軽やかにまとった姿も印象的でした。
 また、ドレスの繊細さがすごかった。みなさんよくお似合いでした。それがゆえにワーグナーの質素な衣装が引き立っていたようにも思います。

 エリザベートの黒いドレスと、幻想の中で求めるルートヴィヒ2世が見る「エリザベートが自分と並んだ時にきれいに見える白鳥のようなドレス」も光に反射してとてもきれいでした。

 二人が並ぶと映えるように計算されていて、でも現実だと絶対にそれはありえない状況というのが明確にわかる「衣装で伝わる描写」だなと思いました。白と白が並ぶと一気に結婚式ぽさというか、ペア感がでますし、ふわふわな衣装なのが美しいですね。だからこそ、現実はさらっと着こなす黒いドレスでギャップが激しかったですし、と同時に時代の流れみたいなものもありました。

2つの三角関係の描き方

 本作では2つの三角関係が描かれていました。ひとつはコージマ、ビューロ、ワーグナーというスキャンダル部分、もう一つはルートヴィヒ2世エリザベート、そして彼女の妹ソフィ。後者に関してはほぼ全部一方通行という形ですね。エリザベートからルートヴィヒ2世に対しての感情は「同士」「交流相手」「弟」を逸脱していないように見えました。

 この三角関係は両者の対比になっている部分もあるのかな。女性嫌いであり同性しか近くに置かなかったルートヴィヒ2世が疑似恋愛対象として選んだ「他国の皇妃」。ワーグナーはどこまでも性に、愛に奔放であり「音楽家の妻」を選んでいます。どちらも傍目からしたら「普通じゃない」ですし、現代的に見たら「ウワァ……」となります。ただそこに向ける感情が「恋」「愛」といったものなのか、「性」があるのか、みたいなものも考えます。どちらにしても見せつけられ続けるビューロとソフィはずっと不憫なんですが…。

 コージマ・ビューロ・ワーグナーの不貞関係と堪らえようとするビューロに対し、「不倫ハイになっているコージマ」に自分は見えてしまって(サレ妻地獄で見かける不倫女側のとんでも主張に似てるな……とか思ってました)後半力強くワーグナーを支えているのを見るたびに「でもこの人、ビューロに対してあんまりの仕打ちをしているんだよな……」と頭をよぎってしまって、強かろうと何だろうと「ウーン……」となってしまいました。

 ワーグナーが蚊帳の外になっている状況も相まって歴史的背景があるのも分かっていますし史実の部分なのも承知ですが、分かれてからの扱いがサラッとしすぎていて、ビューロが不憫になりました。才能があるから仕方ない、という部分を描く上でもっと才覚があるシーンがあったら説得力増したのかな……とも。

 ルートヴィヒ2世エリザベート王妃の妹ソフィは、ひたすらソフィが不憫というか……ソフィとの婚約破棄でエリザベートルートヴィヒ2世は関係が最悪になっている史実があるぶん「シシィは妹があんなてひどいことをされて怒らず受け止めるのか」という疑問はありました。

 もうちょっと二人の仲違いなども見たかったです。「彼女からの距離がとられる」というのは「ルートヴィヒ2世にとっての光」であるエリザベートという描写が強い分、どんどん夢の中に没頭していくきっかけの1であったんじゃないかな、と思うためです。

 ルートヴィヒ2世が見ている「幻想」のエリザベートであることは見ていて分かる(ずっと衣装が黒であるのに、白鳥のように白いドレスで出てきているのはルートヴィヒの“夢”としての姿かなとは伝わりました)のですが「何もかも失って」のなかにソフィ、そこを通してのエリザベートはカウントされないのかな、とか思いました(笑)

 エリザベートルートヴィヒ2世、ソフィの関係はレ・ミゼラブルのコゼット・マリウス・エポニーヌのような関係として描きたかったのかなというように解釈してます。ただそれにしてはフェードアウト感がすごいあったので、掘り下げがあったら印象が違ったのかなとも思いますし、ルートヴィヒが臣下のくせに君主に最後通告だと、と怒り狂う流れは現代的な見方なら「そりゃそうだよ……」とソフィの肩を持ちたくなります。臣下だろうと母親(一応史実だと父親らしい)なら言うだろうな……と思うし、ワーグナーが、と言おうとなんだろうと「説明不足」が結局問題なんですよね。違うそうじゃない。

 愛するソフィ、と言うならそういうシーンをもうちょっと入れてほしかったし(歴史ベースで見ると異性に対して愛情を注げない女性嫌いかつ同性愛者なので…)良くも悪くも非常に「子どもがそのまま大人になって、実権を握るとこうなってしまう」の例を見た気がします。ダンスしているシーン、腕を組み合っているほほえみ合っているシーンが可愛くてソフィが不憫でしたね…。

 ただ、ルートヴィヒ2世については「あの人はずっとお姉さまのことしか見ていない」とソフィが告げている通りなんですよね。「俺を恨まず恨むならワーグナーと自分の親を恨むように」という発言に本当に可哀想すぎてパンフレット見たら「より傷ついたのは国王として駄目という烙印を押され踏みにじられたであろう彼」とあって、「政略結婚であろうと何であろうと、あの作品において一番の被害者はソフィでは……」という気持ちになりました。
 歴史の影で泣かされている人が世の中いつの時代もありますね。史実では翌年別の人の所に嫁いだという話を見て、幸せであったならいいなぁ……とひっそり願っています。その上で、慈善事業の中での火災で亡くなったというお話を聞いて、とにかく歴史的にも『善』な人であったように受け取りました。散々な目にあったとはいえ、たくさんの笑顔がそこにあったならよいな、と願うばかりです。

献身的に話してあの扱いは流石に見てて不憫だった

 また、ソフィがコージマのようなしたたかさはない部分も含めて対比になっていました。二人の曲で男たちを鼓舞するところを見ていて、でもフェードアウトのような扱い(重要人物ではない)というのは、群像劇要素があるにしてももったいなかったかな。あの二人の曲のパートでせっかくソフィ歌うなら……もっと押しても良かったんじゃないかな……。せめてフェードアウトではなくてソロ曲あるとか自分ではダメだったんだというジレンマとか、そういうシーンがあってもよかったかな、と思ったりしています。

机上の空論ととるか、理想ととるかのルートヴィヒ2世

 即位して第一声「ワーグナーを呼べ」というような自分の好きなものに猪突猛進の王。狂王、メルヘン王という別称もお持ち。ルートヴィヒ=ルッツという愛称で呼ばれることはヘタリアで学んでいたので見ながら「この人も家族からルッツって呼ばれていたのだろうか」とかぼんやり思ってました。

 本作では「自分の使命は音楽でドイツを統一すること」ということが度々描かれていました。バイエルンという国王でいながら戦争嫌いで避けて通るという史実を基に、芸術を愛し音楽を愛し建築に没頭する姿について「周りが変わった」という言葉が後半あったのと同じく、ルートヴィヒ2世は徹頭徹尾変わっていません。臨機応変ができないというか自分がこう思ったから貫くという強固さと、実行できる力を持っている人です。

 これを「ピュア」と取るか、「身勝手」と取るかは表裏ですが、バイエルンの国民について考えるシーンが「血が流れるから」という主張がある一方で「どうしたら国民がよい生活が出来るかな?」という描写がなかったので、見解次第では「自分の趣味/嗜好のために金を使いまくった」というようにも見えるのもそりゃそうだなと。

 前述した通り、「子どものまま大人になり、最高権利を持つとこうなった」な人でした。非常に鬼金棒というか、気分屋というか、アンガーマネジメントができないタイプというか……。

 まつりごとや黒いことができていないところを見るに本作では「王」には向いていない人ですが、と同時に「金があるからできた」人物でもあるように思います。これが平民であったのなら、多分ワーグナーと同様好きなものを好きなようにやり、好きなように動き、そして借金を抱えて逃げ回るという――ある意味「似ている二人」であったように見えます。

 子どもの王として考えれば、ソフィと共に婚約して行った場所で「気立ての良い人たち」という称し方にあんまりならないかなというか、腹芸ができないタイプですね。直に見て、直に受け取ったことをそのまま返す。めちゃくちゃ政治に向かないというか、暗殺謀略見えないところでの頭脳戦が主戦場であろう中では本当に向かないタイプだったと思います。ちょっと見方変えると明治文豪のキリキリとしていたところにも似ています。

 「白鳥の王」と称されているのは王宮が羽を広げている白鳥のように見えるから――という諸々からきているのかなとも思うのですが、と、同時に白鳥というのは死ぬほど足を動かした上できれいに成り立っているというのも様々な作品描写で描かれていますので、「苦悩」「葛藤」「王として」を葛藤しながらそれを「他人に見せないようにバタ足していた」というようにも見えなくはない存在がルートヴィヒ2世でもあるのかな。

 ルートヴィヒ2世ならびにワーグナーの描写はどちらも「普通ではない」ということが示唆されていました。普通って何だ、という問いかけは3月に公演された舞台「next to normal」にもあげておりますが、人が人として誰かと共に行きていくなかでの、永遠のテーマの一つでもあります。特にスワンキングは時代物とはいえ日本人が制作を手掛けている分、価値観や考え方について日本人的な見方も出来るようにできていました。

 

主演の橋本くん、ハンスの渡辺さんが出ていらっしゃるのでこちらも参考までに。

amanatsu0312.hateblo.jp

 賢王なのか、それとも狂っていたのか――は人にとって受け取り方は其々でしょう。王として「王」になりきれなかった人だなと思います。王として太平の世・和解を目指し、その上で「自分のなしえなかったことを連合国という形でプロイセンが形にしていく」というのは耐えきれなかった。ただ芸術で、音楽で世界が救えたら苦労しないんだよなぁ……とは思いますし、「あなたでも戦場に出ていないじゃないですか」「家族がこんな目にあったのに尚何を許せというのか」というジレンマみたいなものってあるからこそのしんどさはあったろうなぁとか劇を見ながら思いました。

 少なからずオットー(弟)に対して自らの采配が間違っていた(結果として彼は狂ってしまった)という描写であるならば押し付けて狂わせてテレーゼから恨まれても仕方ないわけで。ただ、「王」なのでそれを一身に受け止めるしかないんですよね。間違っていたすまないが許されない存在が当時の王なのだろう、と思うと非常に孤独な存在で、だからこそ音楽という共通の楽しめるもの、文化で「誰かと交わろう」としたのかもしれない。

 晩年のシーンなどではハムレットのような演じている狂気ではなくて、いろんなものを失って、その中には「自分が原因のもの」もあれば「他人が原因のもの」もあって。それを顧みなかったがゆえの部分なのかなとも。拘束シーンなど、抵抗する様子はなかったのも含めて橋本ルートヴィヒ2世のありかたは「彼の思うままに、彼の願うままにピュアであり、そして裏を返せば身勝手」というような、”子どもの王”が一番自分の中ではしっくりきています。

 最終的に夢幻の住民としてマリーアントワネットやルイ14世と空想で話していたというの聞くと、誰にも理解されない、できない、そして彼自身も他者に寄り添う選択をしないからこその、研ぎ澄まされていった結果かなぁとも思います。存在自体が夢みたいな、それがゆえに理解され難く、それゆえに「王」には向かないタイプとして本作は描いたのかなというような印象です。理想と現実、そして目指したい「夢」と、自分自身が人から求められる「どういう王であってほしいか」へのズレが非常に合った人ですね。

 そんなこんなを思うと、ビスマルク宰相は彼のどこに対して気に入っていったのかすごい気になります(笑)バイエルン国王が最後まで戦争を反対してきたところから~という描写に対してはまさに「おもしれーやつ*1」としてなのかなとも。

 彼についての解説読み漁っていたら「手っ取り早く言うと中二病患者」と言われていて笑いました。そうだけどそうじゃない。ノイシュヴァンシュタイン城が最終的にディズニーの象徴たるシンデレラ城になっていると思うとめちゃくちゃ因果があるように思いますね。

 謎は謎のままだから美しく、離れているからこそきれいに見える、幻影だからこその「儚さ」の象徴のような人でした。白鳥の騎士になろうと自らワーグナーに言っていたけれど、騎士にはなりきれなかった弱さと、その弱さを表に出すことも許されなかった――という諸々も感じられる人でした。白鳥の騎士ローエングリンの部分からもじっているのは分かるのですがさらっとしていてうっかり聞き逃しそうなりました(笑)

 「ワーグナーの音楽、作品が好きだが、ワーグナーの人格も認めるわけじゃない」は本作における重要なキーワードなのですが、ここの部分は何かを応援したり好きだったりする人間がもつジレンマであるあるなので、ステージ越しに「あなたのオタ活も大変だな」という気持ちを感じるものがありました(笑)

 なぜそこまでワーグナーにこだわったのか、という部分が見たいところもありました。15の時に曲を聞いて感銘を受けた、人生を一気に変わった、というエピソードがあることを後に知ったのですが「それ入ってて欲しかった~!!」という気持ち。話してはいたけれど、結構サラッとやってしまっていたので、もっと重要ポイントとして見てみたかったかなとも思っています。

 それまでふさぎ込みがちで神話やブリタニア騎士道読みまくっていた人が、天啓のように変わったのだというきっかけのシーンがあることで、ワーグナーへの執着というか、つながっていったんだ……みたいな発見は見れたのではないかなと。知ってた上で多分舞台を見ると「どうりでこんなに固執してるんな、この人」という理解が深まる気がします。

 彼が死んだ時大変なショックを受けたともあるし親交が0にならなかったのは、それでも切るに切りきれなかったものがあるのかなとか感じたので、掘り下げて聞いてみたい人物でもあります。自分が救われたからこの音楽もまた多くの人に伝えていきたい、という布教活動の一であり、と同時に他の誰でもない自分がそれを聞きたいという自己満足、政治家ととるか芸術家のパトロンと取るかで印象も変わりますね。(でもこれでソフィとifとして結婚して万事上手くいってたら、本作のワーグナーなら手を出しかねないな〜とか思いました。冒頭のくだりを鑑みると…)

 

 橋本くんの演技プランはパンフレット等を読んでいくと「孤独な人」として作っているように感じられました。この芝居のために12kg減量したことがメディアでの主としたニュースになっていましたが、芸術に傾倒しワーグナーに傾倒していったという意味では「何かに徹して夢中になる」というお芝居が印象的でした。

 ソフィとの湖畔らしきところでのワーグナーの感想を言い合ってるタイミングでシシィが来たら速攻でさっさと行ってしまう所からの、婚約発表の「国民から信頼されて一番充実しているタイミング」からの流転し後半の石に問いかけていくところ。そして夢でのエリザベートとの対話あたりが心に残りました。

 夢咲ねねさんのエリザベートがしゃんとして光をまとっている分、そちらに知らずとして惹かれていく姿も多かったように思います。幻想の中でいきながら、「狂っていなかった」のと「狂っていたのか」という謎のまま、謎らしくいなくなった人として、子供っぽさも多く見える「ギャップの人」でした。

 話しているときの起伏の波があるなかで、死期を悟りながら穏やかに、「ああ」という言い方が柔らかくて好きでした。が、こう、何一つ同情することなく、彼は彼の思うままに生きたのだろうなという形でした。自分のなかにある目指すことや、渇望を満たすためにはどうしたら確実で効率がいいか考えて、そのうえで金を持っているがゆえにできた部分もあり。

 以前のコロナになってから復帰したての頃が「やつれた」「痩せた」だったので、ニュースを見て身構えましたが衣装が白で膨張することも含めてあまり「痩せまくった」と目に見えて――というよりは、全体の体のバランスが整っているのかな、衣装にはまるように、衣装とはまってきれいにみえました(もともとそんな大きい人ではないとも思うんですが…)。美丈夫であることは間違いないのですが、スタイリッシュな感じがしますね。スタイルは細いけれど、顔は決してやつれていないお姿でちょっと安心しました。

 そういえばルートヴィヒ2世が出てくる創作を調べていたら森鴎外が出てきてびっくりしました。さすがのドイツ文学といえば森鴎外

 こちらの概要読んで、同性愛者という描写ではないにしても何かに固執する人として描かれていることが多い人なのかな、なんて感じますね。

才能は人格をカバーしきれるのか、ワーグナー

 クラシックに冠して精通しているわけではないのですが、楽曲はいくつか好きな存在のワーグナー。その人生は端的に言って「そりゃねえだろ」の連続でした。開始一発目からお尋ね者として「こんなはずじゃない」という文句を言いながら、このままの生活が続くなら誰か自分をもう迎えに来てくれみたいな言い方は「自業自得じゃん」を極めていました。

 そんな彼が持ち合わせている才覚で、音楽でのし上がり、と同時に素行の問題で失脚していくまでのくだり。史実ではワーグナーは最終的にルートヴィヒ2世より先に逝去しているということですが、それでも文面でのコミュニケーションは取り続けた(本作でいうとコージマが非常にやり手だったという形で中を取り持っていたようにも見えますが)というのが面白いですね。

 本作では「そういうことを既に”した”後」の存在としてずっと描かれていました。お金を無心し、出してもらった「後」、手を出した「後」。基本的にそこにワーグナーの感情というのはなくて、爆発しているシーンは援助を切られたり「なんてことだ!」と詰め寄るときぐらいなもので。

 前妻のミンナのこと忘れてたのかと思った……というぐらい、コージマに夢中だし、周囲差し置いて好き勝手しているし、才能さえなければただのドクズを極めた人に描かれていますが、実際問題文豪にしろ音楽家にしろそういう「何かを持った人」というのは何かが欠落しているのあるあるですよね。ドストエフスキーとかいい例だと思いますし……。

 キャラクターとしてチャーミングというよりも、台風の目そのものとして描いている分彼自身の「一体どう思っていたのか」という描写は見えないところが多いです。そこを代弁するのがコージマで、癇癪持ちの頑固爺が振り回されていく――というか、そばにいることで色々変わろうと動き回る後半がみどころかな、とも。

 人間性でいうと「目的のためなら手段を選ばない」タイプの人間という意味ではルートヴィヒ2世とは似たもの同士でもあります。ただその根を張る者が強いか、細いかの違いでしょう。環境面でもワーグナーは自らを全部なげうってでもいいから貫ける強さがあります。ルートヴィヒは「嫌なら総辞職するので」と言われた時に、自らの理想を一度妥協させます。そういうところでの「違い」があるからこその反発も多いようにみえます。

 また、だからこそのニーチェとの交流があったりもしたのだろうと思います。本作でもニーチェを思い出させる人物が出てきたりしたので「あれ多分そうだな」という意味で見てて面白かったです。

 

 ワーグナー、コージマの父であるリストとの関係絶対悪かっただろうな……と調べたらやっぱり絶縁されていて(しかもその後和解しても「老いぼれ」と称していた部分も出てきたのですが…*2)なんだかなぁ……という気持ちになりました。

 もうちょっと彼自身の内面に触れたり、コージマとの惹かれ合いに関してもハイライトではなく描かれていたら印象が変わったのですが、作品のみだと「ルートヴィヒ2世すら手球に取る男」という印象でした。

 史実ではワーグナーのほうがルートヴィヒより先に逝去していることを鑑みると、あえてそこは触れないようにして二人の対比として描いてきたのは主演がルートヴィヒ2世であるからこそなのかなあとも思います。

 別所さんに関しては「ハムの人…」という印象が一番今も昔もずっと強いです。あのCMがあったから昨今のオイシックスだ!でトニセンの3人が言われているの見ているとなんかほわっと懐かしさもあります(笑)たまにYouTubeで懐かしのCMシリーズにこれがあると「そんなに長く丸大食品のCMされていたんだなぁ」と驚きます。

 どちらかというとキビキビされている俳優さんの印象が強かったので(DEATH NOTE夜神総一郎とか)こういうタイプの人も演じるんだなぁということにも驚きました。静岡のフォロワーさんが自分の場合多いんですが(サッカー関連から)別所さん見るよと話したら「島田のご出身の?」と二度聞きされました。ご出身島田なんですね。

 線の折れそうな細いルートヴィヒに対して太くてがっしりとした中年層として「きれい」ではないぶん力が見える強さがあったように思います。

 また、別所ワーグナーは清濁飲み込んだ腹芸ができそうだなぁというようにも見えました。ルートヴィヒ2世がそういったことができないタイプだったぶん、本作のワーグナーは自らの欲のためにそれこそ貪り食えそうなら骨までしゃぶりそうだな……というゾワゾワ感もありました。

 強い意思があり、信念があり、押し通す力とそこに惹きつける「何か」があった人物としての別所さんの動きはピアノに楽譜と拳を叩きつける時、ピアノってお安い物ではないし仕事道具だからこそのそれさえも超えてぶん殴る激情の持ち主な演出にも目がいきました。が、ゆえのそんな彼をコントロールするコージマの手腕も見せ所だったのかな。

 最終的に建てた劇場で行った公演が本人の納得行くものだったかと聞かれるとNoというところもまた、作中のワーグナーらしさもきっとあるんだろうな、とも思いました。どこまでも「そういうとこだぞ!!!!」となる人でもありました。

激動を生きる女性・コージマ

 人妻でありながら大恋愛してワーグナーのところに行く女性。夢を夢で終わらせない確固たる意思と信念、そしてワーグナーへの信頼を寄せています。

 後半はワーグナー夫人としてありますが、ワーグナーとのくだりの感情が夫からいく過程をもう少し描かれていたらもっと違った登場人物として見られたのかもしれないんですが……音楽そのものを愛しているから才能を愛しているからワーグナーを愛しているという発言でビューロに向かって発言した「求めているのはリストの娘」という部分に対し、自分も相手に対し探すポイントを「音楽家」としか見てないじゃん……と何ともいえぬ気持ちになりました。

 マネジメントスキルに長けた、マネージャーに向いている描かれ方していたので、掘り下げて知っていけばもっと人間を知っていくことができるかなとも思いますが……。上記のワーグナーの夢を自らの夢にも重ね、出来ることを模索し、彼にお膳立てしながら時に引っ張り、時にフォローを入れる存在。良いマネージャーであり、また彼の才能をよくよく認めている人でした。

 梅田彩佳さんの気の強そうなハキハキとした喋りで王であろうと真っ向で渡り歩こうとするところ、夢を信じ、「夢で終わらせない」という確固たる意思が見える女性でした。

 一方で、夫に対しての罪悪感が0すぎて、それでもビューロがワーグナーの夢を支えてくれた一人ということに対して、コージマは笑顔でありがとうありがとうと言ったんだろうか……とゾワゾワしてしまう部分もあります。別れてからそういうのになればまだ分かるけど…みたいな、現代的な目線で見てしまうとどちらかというと私はハンスの応えきれなかった部分も問題ではあるかとは思いますが――それを秘密として共有しましょうねという言い分はあんまりにもアレすぎて「夢」のために狂気のナイフを中に持っているような強さがありました。

 ただ一方でチャーミングさもあり、ワーグナーとともに演奏旅行にいき、資金繰りを四苦八苦しているときの動き回っているときのお芝居は「可愛らしい」というような描き方であったと思います。コージマは日記も残しているそうなので、当時のものを読まれて梅田さんが再現されているのだとしたら、とてもはずんだものであったのかなぁとも思います。劇場を建てようとする楽曲が梅田さんにとてもマッチしていて、本作で一番印象に残った曲は、と考えた時にその曲かな、と思うくらいハマっていました。

不貞と音楽に揺らぐ男・ハンス(ビューロ)

トリスタンとイゾルデ」というそもそも題材が不貞のストーリーなのですがそれを指揮する存在に自分がなっているのきついし、しかも友人であるワーグナーと妻が不貞働いている中だったら余計に重なりすぎてしんどいってレベルじゃなかろうな人、ハンス。

 「自分にない物を持っている」としてワーグナーを支え、一度はコージマを許そうとしたというのが何ともいえぬ気持ちにさせられました。絶対的に勝てないにしても見せつけられ続けたら精神病んでおかしくないだろうという気持ちになります…。悲観的にはならずまっすぐに生きている姿が余計に胸を打ちます。才能がないから余計に苦しくなるそれ。

 非常に本作のハンス(ビューロ)は穏やかそうな人に描かれていました。一つ一つの所作が丁寧というか、大事にコージマのことしているんだなあと思う反面仕事にかまけて相手にしきれない(彼女の情熱に答えられない)自分へのジレンマ。そこからの彼女が心を離れてしまう悲しみ。さらに、妻が「手伝い」にいって夜の営みをして、黙認し続けてワーグナーとの3人目の子どもがいる、とまで聞かされるのって苦痛以外に何……?と凡人の私には理解できないのですが、それでも音楽に没頭し、隠しきろうと途中までしていた忍耐の人という描き方がしんどかったです。

 ただ、職業での「指揮者」というものを確立したのが間違いなく彼であり、そのことは今日に多大なる影響を与えているのだなぁとも思います。厳粛で、おとなしくて、丁寧そうな逸話が出てくるたびに渡辺大輔さんの描いたビューロ像は聞いている限りのイメージに近くて、そのうえで「音楽に魅せられている」がゆえの狂いがあるのかなと思いました。

 渡辺大輔さんはN2Nでダンを演じていたお人でもあるので、どのような演技を当時されたのか、という興味がずっとあり、かつ心残りだった分今回見られてよかったです。才覚がないことを自覚しながら、妻の不貞を黙認しながら友人の才能に見せられながら必死こいて足掻く姿がよかったです。ハーモニーでも存在感があり、目力がありましたね。ルートヴィヒに向かい膝を折ってのやりとりのとき上着をフワッと巧みにつかって礼する姿がとても美しかったです。

 不遇だけど、満たされているのジレンマ。裏切られてもそれでも惹きつけるものに抗えないカリスマ性に従ってしまうことと、そこに生まれる葛藤が更にあったらこの人多分発狂してしまうな、というバランスで描かれていたので、もうだめだ、のケースで最後黙認した自分も含めての罪を王に懺悔し、そして去るというのは血の通う人間らしさがありました。「作曲者」としては才覚がなかったとしても、周りから「指揮者」として、それを生業として確立していったという話を聞いて諸々ぐっときました。神は万物を与えない代わりに、彼自身が築いて目指して続けてきたからこその「意味がある」ものがあったのだろうな、とも。

理解し、光となる「エリザベート

 シシィことエリザベート。作品によってはガッチガチに主人公たりうるひとで、本作でシシィを演じるのも別作品でエリザベートを演じた夢咲ねねさん。新人公演でエリザベートを演じたそうで……。実はもしかしなくてもはじめましてかな?と思ったのですが、本作のエリザベートに関しては「理解者」「同士」「外の人」「初恋の人」みたいな諸々を孕んでいる存在でした。

 自分の理想を詰め込んだかのようにルートヴィヒ2世が魅了され、話をして、光を放ちます。自身も沢山の心の鎧を纏い生きているからこその安息の場だったことでしょう。本作のエリザベート像はYes/Noの言える存在であり、時系列を見ると、ミュージカル作品のエリザベートよりも常識人に見えました。自由を求めて、そして死んでいったエリザベートよりは同士として同じように自分の夢を持ち、目を輝かせている存在として「ルートヴィヒ2世にとっての聖母」のように見えました。

 果たしてそこに恋心があったのかどうかは描写として分かりませんが(そうなる自分を夢見、演じていたと言われたらそれもまたさもありなんですしね)同じように謎の死を遂げた彼女ならではの、数奇な運命を辿る姿が見られました。

 衣装が黒、喪服仕様なのは時系列的にルドルフの死からの喪服のくだりになると思うんですが(他にも理由あるのかな。詳しくないので知りたい)そこはルートヴィヒ2世死後の話なので、どちらかというと、同じような存在なのに交わりきれない(決別)も混じっているのかな。ルートヴィヒ2世とやり取りをする際、彼の周りにいる人達と色が交わらないというか――特に白と黒だったのではっきりしていました。

 が、ゆえの真っ白な「ルートヴィヒ2世の望むエリザベート」の美しさと儚さ、そして言葉は時に彼を慰め、孤独から救います。あのときは「理解者たるエリザベート」の姿にも見えました。あくまでも妄想、思いの中でというのが際立つシーンですが、柔らかく笑ったり寄り添うエリザベートとの「絶対的にない」が「固執する夢」の理解者としての渇望みたいな形の可視化が彼女、というのもなんとも言えないなあと思いました。本来のエリザベートとはソフィのくだりで縁遠くなってるということ考えると、妹と友の結婚は単純に本当に嬉しかったんだろうなと(歴史的には彼女が画策したという話ですが……)

 

 夢咲ねねさんのエリザベートは本当に所作が美しい。佇まい、指先から爪先まで。そっと歩く姿も、言葉を放つところも、ハイトーンな歌も、気品溢れてかつ美しい皇妃の纏う輝かしさがありました。出てくるだけで姿勢が良くなるというか、光が当たって目にハイライトが入る姿が美しい。エリザベートは本作では主役ではなく、それでいて重要な立ち位置ですが、前列に立ち、上手や下手に立ったときもすごく目がいく存在でした。それでいて主役ではなく支える側――どちらかというと客演みたいな立ち位置でのあり方が印象に残りました。

 

理解できず、そして狂う”オットー”

 兄を慕う弟。既に生まれながらにして――という話もありますが、本作では翻弄された存在として描かれていました。

 決して軍人に向かなかった、かつ帝王学の諸々の教育をおそらく受けていないであろう(あくまで予想ですが)彼に指揮権を委ねるルートヴィヒ2世の選択が”間違いである”ということを示唆するような存在でもありました。ただただ振り回され、兄を慕ったがゆえに散々な目にあった人でもあります。

 どういった感想を持つか、というよりも全体の出番が少ない人なので、むしろテレーゼとのやり取りやルートヴィヒ2世を囲っているシーンなど「周りの中の1」になったときにどんな立ち位置でどういうことをしているか――というところに注視する必要がある人物でもあったように見えました。

 皮肉なもので彼もまたルートヴィヒ2世死後即位すると「狂王」と言われていたということを紹介されているのを見て神妙な気持ちになりました。彼もまた廃位していると思うと仄暗いですね。

 歌というよりもお芝居の人で、ジャニーズJr.の今江大地君がオットーを演じました。が、今江くんのお芝居を拝見するのはおそらく初めまして。朗らかな役回りですが、凛々しさというか、背伸びをぐっとしたような”等身大の男の子”を目指すようなお芝居であったように思います。狂ってしまう芝居のくだりはこれから舞台の中でどんどんブラッシュアップしていくのかな、とか、築き上げていく中で彼の中の「オットー」がどう花開くのか。初日とどう変わるのか気になります。

 テレーゼとのほんわかとしたシーンが作中の箸休めというか癒やしになっていたぶん、ただひたすら「夢を追う兄」そして「世界」に翻弄され、現実を突きつけられた人であったように思います。

大臣として臣下としてのルッツ

 外務大臣のルッツ。三人の大臣たちの中で一番印象に残る存在でもあります。ルッツの歴史上のページを紐解くとドイツ語文献しか出てこないんですが、訳しながら読むと個人貴族からのし上がった人でもある?ようで。

 この人の背景をあまり詳しくない中ではありますが野心家のキリキリピリピリとした雰囲気をまとっている一方での大臣たちとのコミカルさのある歌も含めて「どんな人」というのが見えにくいお人でした。

 大臣として政治家として国を守らなければならない側面と、王を守ろうとする行動が両方バランスを取ってありました。が、それゆえに自らルートヴィヒ2世を引きずり下ろしている様子が描かれていると「世話になっておいて」の部分と「いやまぁそれはそう」という両面が見えました。

 牧田哲也さん、映画の「ダウト」に出ていたことを見終えて調べたら出てきて驚きました。

 まったくイコールで結ばれないというか、舞台と映像でのお芝居の仕方の違いに驚いたというか(まぁ上記映画が2.5次元より映画というところもありますが)ボイトレを半年間徹底されたというお話を読みましたが、伸びやかに歌っていて、キリキリとした官僚としても合っていたなと思います。毅然とした態度は冒頭から最後までであまり変わらないのですが、その変化みたいな、立ち位置が上がっていくにつれての違いみたいなものが良かったなと思います。

楽曲のあれこれ

 正直想像していたよりもずっと楽曲が多かったです。もっとストーリーとして立ちの芝居が多いのかな、と思っていたので、お歌での表現も多かったように感じられました。印象に残る楽曲というと、コージマの「劇場を建てようと思います」と歌っていたもの。声によく合っているな、と思いました。

 ヨーロッパの華やかさがありつつ、ポップというかワーグナーの楽曲みたいな華やかさがあって、夢を地に足つかせて動いている曲としてもいいなと。銀行や出資者に頭を下げまくるというのは現代ビジネスにも通じるし、ベンチャー企業みたいなもんか……と見ていると親近感もわきますね。

 後は表題曲以外にだと「トリスタンとイゾルデ」は頭に残る曲であったと思います。オペラぽさがあるのも考慮してるのかな、とか。

 

雑談:ルートヴィヒ2世が残したもの

 ルートヴィヒ2世といえば、ノイシュヴァンシュタイン城が有名ですが、ノイシュヴァンシュタイン・リンダーホーフ・ヘレンキームゼーなど中世に憧れていった彼ならではのこだわりが非常にありました。

 史実の彼がどんなものを見て、どんなものに憧れで描いていったのか興味が湧いたので、冒頭に書いた知人が当時プロイセンビスマルクルートヴィヒ2世に派生していった姿思い出して「なるほど確かに独特な人だな」と改めて思いました。ドイツ観光局のツイート内容を見ていると細部までのこだわりがあって、「趣味のために国を傾かせた」という意味で見ると傾国の美女たちと同じくなにか魔性的なものがあったのかなぁとも思いますね。

 

 特にノイシュヴァンシュタイン城の中を3Dで歩けるページであれこれ見ていたのですが、建築物に詳しくない私でも分かるぐらいには「派手」「すごい」「金ぜったいかかってる…」となるものが見て取れます。

 ワーグナーの音楽を自分が出来る形で表現する、今の言い方でいうと「二次創作」ですよね。規模のとても大きな概念ハンドメイドのそれ。解釈違いで喧嘩するのあるあるですね(?)

3dtopevent.info

 

 ということで疑似体験をしながら見ていると「どこらへんがどう」という解説を聞いているわけではないので派手というか、絢爛豪華という言葉が似合っていました。

 日本人が持つ「侘び寂び」と西洋の方々の持っているゴージャスさというのはベクトルが違っていて、どちらが良い悪いではなく、こだわりとか、魅せ方を「どう」描くかなのかなぁと改めて思いますね。玉座のあるはずの空っぽの、居住者のいない城というのはなんとも空虚である一方で絢爛豪華さが切ないな、とも。

 

 以前「北欧のベルサイユ」と呼ばれるドロットニングホルム宮殿スウェーデン)に行ったことがあるのですが、庭園と城のバランスというのは絶対あるんだろうなぁとか、組み合わせというか、景観と、どこから見た時にどういう風に見えるのか――ということなども考慮されているのだろうと感じました。夕日がやんわりと入ってくるところとか。フランスというのはそれだけ多大な影響を与えたのだな、とルートヴィヒ2世やそういった「建築物」について調べるとでてきてしみじみします。

城内では話相手だったというルイ14世やマリーアントワネットの像、誰にも会わずに食事する為のテーブルせり上げ装置など、狂王と呼ばれた彼の奇妙な生活が伺えます。

と、ドイツ観光局のリンダーホーフ城についての説明を聞くと、改めて奇妙でありながら「自分が保てる場所」「安寧の場所」を築きながら一方で「思い描いてたのは”そう”なんだけど”そう”じゃない」みたいなジレンマみたいなものも見えますね。人の夢と書いて儚いとはよくいったものです。

 

 宝塚でも「ルートヴィヒII世」として作品になっていることを鑑みても、やっぱりすごい波乱万丈というべきか、独自の人生を歩んだお人なのが伝わります。調べていくと出てきたのでどんな作品だったのかとても気になります。出演者の方のお名前見たら瀬奈じゅんさんのお名前があってびっくりしました。

 ノイシュヴァンシュタイン城は「この城、自分が死んだら壊せ」というルートヴィヒ2世が言葉を残しています。ルートヴィヒの描くワーグナーの世界を形にした思いの城なわけですが……。

 それを壊せというのは「自分の世界が誰かに踏みにじられたくない(夢の形)」であると同時に、現代的に見ると「自分が死んだら自分のパソコンのデータ全部燃やせ」にも近いかな。二次創作してるオタク、創作活動している人にまあまああるやつ。

 パソコンにしても、城にしても、自分の趣味や嗜好、オタク的なこだわり部分などが詰まっているからこそですよね。高潔な部分もあるのかもしれませんが、創作している側の人間としては「もう頼むから……死んだら燃やして……」みたいなお話はよく聞くし、分からないわけではないので……(笑)

 単純にこれについては「家族に自分のやってきたこと見られるのやだな~~」という気持ちもあるのは承知の上で(こういう考え方でいうとオープンなオタクかそうじゃないオタクかの違いみたいなのもあるでしょうが)逸話を聞きながらちょっと俗世的なことを考えてました(笑)

 死んだら燃やせ、なかったことにしろ、という言葉を残してノートを渡している人でいうと文豪も結構いて、フランツ・カフカもその例ですよね。

 ここについては自分の作品を汚されたくないという考えのタイプの人もいれば、客観性をもって「世に出してほしい」「でも自信ないし」「こいつに任せたらよかったら出してくれるかもしれないしダメならそれで終わり!」の決定権の譲渡に見えるし、ジレンマみたいなものもあるのかな。創作していく中で評価されないなかで「それでも」と思いたい部分や葛藤みたいなのがあってもおかしくないと思います。

 ルートヴィヒ2世に関してはワーグナーの世界観、音楽を形にしていった二次創作/概念的ハンドメイドという意味で見ていると何だか親近感がわきます。そうやって考えると「私は全てに於いて永遠の謎でありたい」は見方がまた一つ新しく誕生しますね。私の頭の中の解釈と他者の解釈で一致するなんてできない!私の考えは私のもの!………みたいなの…こう……わからないわけでもない……でも同意してくれる人(同志)は欲しい…のジレンマ……。

 自分自身が自分において可能性があるという意味で上記の言葉を受け取ってきましたがこう……オタク的な要素で考えると……知らなくても良いことはいっぱいあるし、自分の中で留めておきたかった諸々とか、それでも「熱」で形にしたくなってしまうようなあの浮かされるような感情というのは「自分にしかわからない謎の部分」(なんなら自分にも分からないそれ)なのかなぁとか感じます。

 

雑談:ワーグナーが紡いで今日にあること

 そしてワーグナーといえば「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」、「ニーベルングの指環」のワルキューレなどから、個人的には双頭の鷲の旗の下にあたりが言わずとしれた鉄板曲ですよね。迫力ある楽曲なので、クラシック詳しくない私でも「知ってるそれゲームで聞いた」というものが沢山あります。ありがとう金色のコルダ。ありがとうスタオケ。

《双頭の鷲の旗の下に》

《双頭の鷲の旗の下に》

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ワーグナー: 歌劇 「タンホイザー」 - 序曲

ワーグナー: 歌劇 「タンホイザー」 - 序曲

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 この「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」から名前を取った競走馬「マチカネタンホイザ」は近年ウマ娘でも登場していて再評価されているお馬でもありますね。えいえい、むん。かわいい。

 アニメでもすごくいい味だしていましたね。マチカネタンホイザの勝負服もドイツの民族衣装でつながっているんだなぁと思います。

 「推される」側のワーグナーが作ったものが音楽として作品になり、そして競走馬の名前に由来し、さらに時を経てゲームとアニメになって誰かの「推し」にまたなっている。これもまた縁ですね。紡いでつながっていること、縁だなーとなります。

 

雑談:「才能(作品)」と「人間性」のジレンマ

 「ステージの上に立つ推しは好きだが、そこに人間性は保証されない」みたいな話を度々聞くことがあります。それはそれ、これはこれ。

 本作におけるワーグナールートヴィヒ2世の描き方もこのパターンであることはルートヴィヒ2世が話しているシーンでも有りましたね。頭を抱えているのはどこの時代の場所が変わっても言えることなのかもしれないです(あまりにも規模が違いますが)

 現実問題、ワーグナーの反ユダヤの考え方を肯定することは今もいい顔はされないでしょうし(日本人であまり概念として考えが希薄なタイプの私も「そういうのやだな~」ってなるんですが)ギャップの中で「どう埋めていくか」の要素もありますよね。

 ピッチ上のプレーが天才でも、素行部分が最悪で遅刻やらサボりやらを繰り返して解雇されたサッカー選手とかもよくある話ですしね。交代態度があまりにもあまりにもで……とか。スポンサーの看板にペットボトル当てたとか。

 作者のTwitterを見て、発言等を見て幻滅したりとか炎上見て「作品は悪くない”けど”」といった言葉ができてしまうとか。創作の漫画で先日お見かけしました*3が、どうしてもそういったものはコンテンツを触れていく中であります。「パフォーマンスや表現などのクオリティが高いのに、発言や炎上で全体の評価を下げる!」みたいなのはよくあります。

 そういうので自分の評価を下げてしまうのを見ていると「もったいないな」と思うので、本作を通しながら「見ている側」と「推されている側」のどうしようもない溝というか、期待されていながら作品部分で応えているぶん、ワーグナーの要求がどんどん膨れ上がり「人間性」という面で嫌気が差すというのは「反転アンチになりかねないやつだ!」と思いました。最新作全然作り上げてくれない上に要求は多い!となると余計に。規模の大きい優勝依頼やSkeb等で見たことがあるお話で、現代にちょっと通ずる部分あるなと感じました。

 ワーグナーとの表現・解釈違いの喧嘩に関しては原作者と出資者のギャップのそれに近いものを感じます。そこじゃないじゃん、そうじゃないじゃん、いちばん重要なのはこれじゃん!みたいなのこじらせオタクが譲りたくない箇所みたいなのでよく解釈違いでのバチバチ、みるみる。

 原作者の手を離れていき、違うものとして愛好されていくというのはアニメ化したり人気コンテンツになったものの宿命のようにも感じます。オタク同士の解釈違いの勃発や「作者多分そこまで考えてないと思うよ」*4など、まあまあよくある光景ですね。そういう意味ではルートヴィヒ2世が反転アンチにならなかったの、やっぱり「才能」としてはぐうの音も出ないぐらい好きだったんだなっていうのは感じますよね。子どもの頃から好きだったからこそ余計に原作者(作曲者)に幻滅したらダメージ大きそうですが…。

 いつの時代もひっかかる問題「作品はな~~素晴らしいんだけどな~~」というものをスワンキングを通して改めて考えていくと、やっぱり程よい距離が一番ハッピーなのかなあ……となったりしますが、自分のできる範囲がルートヴィヒの場合は広かったからこそ、こんな風につながっていったんだろうなぁ、なんても思います。

 

東京駅に飾られていたスワンキング

 これから大阪、名古屋、福岡といろいろな場所で公演されるスワンキング。無事に何事もなく走りきってくれたらいいな、と願うばかりです。

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