三浦大知くんの独演「球体」がNHKホールにて公演されました。
今回は今までの三浦大知くんの「やりたかったこと」や、「やってみたかったこと」を詰め合わせたものらしいという前情報は聞いていたのと「なんかめちゃくちゃ、いつものパワフル元気楽しいの三浦大知とは全く違う」というネタバレになっているのだかなっていないのだかみたいなお話を聞いており、「折角だからネタバレは避けて見に行こう」ということでいってきました。
で、まぁ表題にも書いてありますとおり「ネタバレ含」なものですから、ちょっといろいろ考えてみた結果をつらつら語ります。なので、ネタバレはご自身で自衛してください。正直大変申し訳無い。
なんだ、うん、「この言いようのない気持ちを誰かわかってくれ」という気持ちで書いています。
このテンションで私A.B.C-Zのアグレッシヴパワフルラブバトルツアー見て「ウオオオオ!!!」とテンション振りきれるかな。いや多分するだろうな(それはそれ、これはこれとして)
「球体」概要
「これは、一生続いていくプロジェクトだと思っています。」(三浦大知)
全曲Nao'ymtプロデュースによるニューアルバム「球体」、アルバムと連動し同名を冠する”完全独演”公演「球体」開催決定。
自身のヴォーカル×ダンスパフォーマンスの可能性を追求する三浦大知と稀代の音楽家・Nao'ymtによる実験的かつ未体験のプロジェクト。
アルバム「球体」にはNao'ymtプロデュースによる断片的かつ群像劇的短編小説のような17の楽曲が紡がれ時空を越えた物語が描かれる。
同名公演「球体」は三浦大知自身が演出、構成、振付し、ひとり歌い踊り、この物語を体現する。球体の向こうに、あなたは一体何を見て何を思うだろうか。
(同ホームページより引用)
今回のこの独演公演は三浦大知くんと、「Can You See Our Flag Wavin' In The Sky?」などを手がけるNao'ymt氏が手がけた音楽・プロデュース作品です。
私この曲めちゃくちゃ好きなんですけれど、その独特な世界観というか、引きずり込まれる、飲み込まれていく感覚というのは実になんというか言いようのないものではないかと。動画もおすすめ。ぜひご覧頂きたい。
で、今回の「球体」においては完全プロデュースでの作品なので、どのように、どんなふうに作り上げるのかが非常に関心が強かったわけです。
昨年「(RE)PLAY」「EXCITE」 でさらにワンランク知名度を上げ、ますます躍進を遂げている三浦大知という人が「生涯やっていきたい」というほど口に言うほどのことというのはいろいろ思う所があります。
「球体」という作品について
思えばこれまでの人生
海原に浮かぶ一艘の舟
身を粉にし得た対価で
どうにか防ぐ波風
(「序詞」冒頭より)
行き場をなくした男の前に現れた君は、あの時と変わらぬ微笑みを浮かべていた。男はゆっくりと砂のついた手を伸ばす。この世界に居場所を求めて。ある架空の世界で描かれる時空を超えた17の物語は複雑に連鎖しそしてまた繰り返していく。
三浦大知とNao'ymtが贈るコンセプチュアルプロジェクト「球体」。
全編日本語で綴られた詞は感情と情景を描写する旋律と編曲に紡がれる。
文学的要素が融和する世界に誇りうる美しい国産音楽作品の誕生。
(公式ホームページより引用)
醸し出すスピリチュアルな世界です。
ここ半年、三浦大知くんの動きを見ていたにわかマンの私としては「一体何をしようというのだね…」とムスカ大佐みたいなような心持ちで「普段の彼の思考」がいまいち掴みきれないというか、「常に謙虚」「物腰穏やか」「一礼ひとつひとつが丁寧」という3コンボをしているお人だっただけに、イメージがつかなかっただけに「やりたい!」を口にし、それを形にするというのは興味深いわけです。
短編、けれど、連作
今作においては17の作品があり、一つ一つが作品として出来上がっているものがどんどん連なっている、という印象でした。
めちゃくちゃ端的に言うと、「音楽を聞いて終わり、という作品ではない」ということ。いわゆる「ライヴ」ではなく全席着席型の聞いて、見て、集中力という集中力を注いで”考える”ものであったように印象を受けます。
知識ゼロ、最近の三浦大知がすごい、楽しみ→ヤッター!EXCITE歌うかなあ!っていうテンションで見るとすごいしっぺ返しくらいます。
めちゃくちゃ集中力を要する、芝居という形の「観劇」や、映画の「鑑賞」に近いと感じました。
なので、昨今Twitter等で話題になっているマナーについては「ライヴ」として見てきた人が「観劇」「映画鑑賞」におけるマナーとは違うベクトルでいたものだから起きた摩擦ではないかと。もちろんだからといって擁護するつもりはないですし、スマホの光ちらついていたら嫌だし、様々な事情があるにしろ途中入場してきた挙げ句にガサガサ音建てられたり足背もたれに当てられたりしたら「は?」とは思いますが。
「同じ空間にいる」という面も含めて、だからこそほんのちょっとの優しさというか、「これをやったらいけないな」を理解していくのが大事ではないかと。私の周りでも起きた出来事だったので、これがまた「球体」ないしは次回以降でファン側も構え方がわかって、少しずつ改善されていたらいいなあ。
セットリスト
今作においてはすでにセットリストは発表されており、また同時に「この物語」「作品」が後々考察することができるような作りになっています。
1. 序詞
2. 円環
3. 硝子壜
4. 閾
5. 淡水魚
6. テレパシー
7. 飛行船
8. 対岸の掟
9. 嚢
10. 胞子
11. 誘蛾灯
12. 綴化
13. クレーター
14. 独白
15. 世界
16. 朝が来るのではなく、夜が明けるだけ
17. おかえり
CDの発売のタイミングは元々はこの公園の中であり、それが延期され公演終了後の発売になりました。
歌詞を見れば多分考察は変わってくるでしょう。でも見ていた印象としては「動きを見て」「歌詞を、歌として聞いて」「考えろ」と訴えかけられている気がしました。
「球体」という世界について
「球体」とは何を指すのかなあと見ながら考えました。
冒頭、部屋の中から部屋の外に出たのに「ただいま」と言われたことは「終わりの始まり」なのかなあとか。
(突然の相棒)
”ループ”ととるのか、それともルート変更でのやり直しなのか…とか。
考えだしたら考えがまとまらない
球体とは何を表すのか。球体=ball(ボール)なわけで、でもその球体とは何か。一つ一つが球と仮定して、いくつもが連なっているのか、はたまた太陽のような「君」がいて、それを惑星や衛星のようにぐるぐるしているのか。とか。
おそらく「球体」というキーワードはたくさんの意味合いを持っているのでしょう。
そして今作における曲のズシッと漬物石のごとく蓄積されていく重さを鑑みると「球体」はスーパーボールのように三階から落として同じところにいく*1わけではないわけで。そのバウンドが小さいかもしれないし。ぐるぐる旋回しているかもしれないし。その動きはその都度違うのかもしれない。
「球体の内側」もまた”球体”そのものを表す*2から、そのうえで、「球体」という世界観の中で繰り返し起こされる出来事(=球体の外には出られない?)というものなのかとも感じました。
というのは「飛行船」に関して、自分ということへの肯定を投げかけている部分が強く、そして「飛行船」に最後は乗っていきます。
この飛行船を「ノアの箱舟」と解釈し「この世界からの脱却」ととればいいのか、はたまた「誰かにあわせるな、誰でもないんだ」という言葉でありながら乗っかってしまう(=時代に沿ってしまう)のか、決断していくのか、画面で大多数の人々が(あれは三浦大知くんなのだろうか)が行き来して、乗っていくのはどういう意味を持つのか。
作品で「君」に逢いたくて藻掻いているという意味では非常にジタバタしている印象を受けた、心が切羽詰まっている印象がある曲なのですが、それを意図するものが「何」なのか、また、この作品を通じて「どういう」ものを伝えようとしているのかが気になる曲でした。
ついついオタクだからタイガーモス号*3とか、まどか☆マギカの映画に出てきたなとか一瞬今これをまとめてふと思い出して「どうやってもお前どんよりモードの持っていきたいんかい」と自分でツッコミを入れている…。
ただ飛行船ってポジティブだけではなくて戦いに出るための道具としても使われていた側面もあるしなあ。
その”ハンドル”を握る人ではないような印象を受けるし、でもだからといってマイナス面にいくだけではないとも受け取れる。なぜ飛行船なのだろう。
飛行船は英語では "Airship" (エアシップ)、ドイツ語では "Luftschiff" (ルフトシッフ)と言い、フランス語では "Dirigible" (デリジャブル、ディリジャブル)という。フランス語の "Dirigible" という単語は、もともとは「操縦できるもの」という意味である。
このフランス語の意味を鑑みれば「自分で切り開いていく」という開拓者としてのポジティブ要素もある。例えばこの曲が何故「ジェット機」(流石にこれは作品の世界観壊すな(笑))とか、「飛空艇」とか、「ロケット」ではなかったのか。そのへんも含めて考えると「想像」っていうのが楽しくなります。
この曲では全然踊らないで、パワフルな歌声が強調されている印象だっただけに、「踊る」「踊らない」の意味合いもまたあるのではないかと。
「淡水魚」という曲で、淡水魚はそれでも大海を目指すというような描写があります。
淡水魚は海に出れば浸透圧により死にます。
詳しくはサントリーの水の科学で紹介されているので読んでみてほしい
突然の生物の授業を思い出して「ああ~…それでも海に出ようというのか…それなんて中島みゆきの”ファイト!”だろう…」ってなりました。まぁファイト!だと最終的に痩せこけてこんなに痩せこけてそれでも上っていくという話なのですが。
また、「閾」は、「閾から閾へ」というパウル・ツェランの詩があります。
もうタイトル聞いた段階で「ああああ~全力しんどい曲まったなしじゃないか~~」と私は思っていました。
なぜならこの「閾から閾へ」は個人的にそりゃあもうしんど…ってなるわけですよ。ツェランは「閾を出ることでまた新たな閾に入る」ということを示唆しており、なんだつまり結局どこへ行こうとも結局はまたどこかで何かとの閾を出ていないんじゃないかって話なんですけれど。
これなんてSound Horizonのクロニカ様の話?ってわけで。もちろん今作の閾とは違うものも多いのですけれど、曲を聞きながらパフォーマンスを見ながら心の中でのざわつきが隠しきれなかった今日このごろです。
すべての作品は「つながってはいない」次元の物語で、けれども「球体」という世界の中にあるのであれば、いろんな「答え」に至るためのそれぞれのルートからみていった”方法”とかにも見える。
ひとつの答えに至るための、たくさんの方法。さまざまな次元で行き着く方法を探す。だからこその「ただいま」なのかもしれない。
「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」という曲がありますが、「人生がリハーサルならいいのに」「生まれ変わったらもっとうまくやる」というようなフレーズがあります。
とんだ無限ループ。とんだまどか☆マギカにおけるほむらちゃんじゃないですか。やだ絶望。
こうなんともいえぬ心をえぐらせるのがうまい。歌がうまいから余計に響く。
「朝が来るのではなく 夜が明けるだけ」とか、”僕がいる”のか”君がいる”のか。どちらかがいないだけ、と唄う。
球体っていわれて「丸い、立体的なもの」といわれるわけで、私は月とか地球とか星々を思い出したのですが、それらとかもそうですけど光を浴びてこう、明るい部分と暗い部分が出てくるわけじゃないですか。そしてそれが自転していくことで、恒星(惑星)が動くのと自分たちが動くことで、影になったり光になっていたりで。
あれ、これってつまりすなわち、この曲も自転していくことで「つながっていない」けれど「ひとつの答え」に至るものだからぐるぐる自転し明るい部分と暗いところを見せているけれど、根っこの答えは「もうすでにいない君」と「それを探し続ける僕」なのだろうか、とか。もしかしたら「いないのは君」なのかそれとも「最初から君がいないと思っていた?実は僕がいないのでした!」なのか。
見ている人にとっては「君=三浦大知(の演じているその人物)」であり、自問自答の答え探し(一種の二重人格的なものか、それとも自分探しなのか)とか。
次元が違う「君」と「僕」。
そのそれぞれにおける探している「君」の姿も「僕」の姿も違うのではないか、とかとも考え出しました。だって次元が違うんだもの、そこにロマンはあるのかしら?*5って考えたら、「見かけ」も「名前」も「姿」も違うけれど”魂”は同じというケースもありえるわけで。
パワフルなエンターテイナーとして三浦大知という人の姿の一方で「SONGS」で土屋太鳳ちゃんとの対談で垣間見た彼の姿。いろいろなものを考えます。
また、土屋太鳳ちゃんや田中泯氏などのモダン的なダンスで「何を表現するのか」「何を伝えるのか」というものを見て「なるほど…なるほどわからん」と私はあいにくと学がないので感じる一方で、三浦大知くんのダンスの中でもまた、「彼は今のこの動きで何を表現しようとしているのだろう?」とすごく考えて、やっぱり「わからない」んですよね。分かればいいんですけれど。それでもその「わかりたい」「考える」という過程って大事なことで、じーっと見ながら「のたうち回るような」なのか「感情の爆発」なのかとか。いろいろ見ていてこの曲ではこれなのか?そう…そんな気がする…?とかいろんな仮設を立てられました。
慟哭なのか、憤怒なのか、はたまた絶望なのか、ではなぜ「世界」という曲であんなにいつもの優しい表情に近い声音で歌っていたのか。
男(=三浦大知)が何を伝えようと渇望していたのか、クレーターという場所で、何を見るのか。砂をかき分けて一筋の「希望」「光」「きみ」を見出すための答え探しをするのか。
球体というのは「中身」を指すわけで、球体の「中」に入っていく”男”だとしたらその真核をさまざまなルートをたどっているのか。それでもなお、球体の核にいけずさらに覆われているのか。
彼女自身が「球体」になっており、その外敵から守るように殻にこもっている、丸くなっているのか。これどこぞのゲームでそういう展開があったので仮説たててみたんですけれど。一方でじゃあ男が探し回っていると思っていたのは球体なのか、男そのものが球体なのか?とか。
つまるところまぁなんだ、まとめがまとめになっていなくて、自分の中でもしっちゃかめっちゃか大論争スマッシュブラザーズしているわけですが。脳内会議で「いやこれはこうなんじゃないか?」「だとしたらこのラインはどうやって説明する?」みたいなかんじで、ホワイトボードで頭の中脳内ポイズンベリーよろしくスーツきた理性のさまざまな感情が論争して、マーカー引きまくっている状態です。なんだこれ。
パフォーマンスとして、ちょっとふふってなったのは自分から部屋のものを持ってくる姿でしょうか。「あっ自力なんだ」とか。
でもその「自力」って裏を返せばそれもまたパフォーマンスの一つで「自分で自分の球体、はじまりの場所に戻ってきている」のかなと思ったら何それしんどいってなるし。
円環のときに見える突然の「…LEDライト…?ホタルック…?」とか思ったりとか。じょうろみたいな水つかっての上に上がったらそれっきりのあれなんだろう?とか。お花きれいだな(真顔)とか。なんかもう語彙力がひたすらなかった。
いろんな「なんだろうこれ・・・」が面白かったです。円環という言葉を聞いてまどか☆マギカの円環の理を思い出すあたりもうだめだってなったりとか。
つながっていない世界のことを考えながら、この知識を用いて、この法則を使ったらどうなるんだろうと、球体を暴こうとしているのもまた、「球体」を探す男=自分で、君=答えだとしたら、「答えなんてないだけ」なのかもしれないなとか。
また、この作品においてはカーテンコールがあって挨拶があって、という作品ではなく、静かに終わっていき、余韻にひたり、「あああああ~…」と頭を抱える作品なのかなとも思う。
「生涯やりたい」という言葉。そこから見出すのは「自分とは何か?」という自分探しの世界観の模索にも見えるし、「生きることへの渇望」にも見えるし。
正直、多分、答えなどないのではないかと思います。
パンフレット見てないから、私の考察が「どう正しいのか」「なんもかんもが見当はずれ」という可能性もあるわけで。
でも、そのそれぞれ一人ひとりが感じ取った「何か」がその人にとっての答えでいいと考えているのではないかと。問題提起投げられて、考えて、言いようのない心にすりガラスかかって「うわーーーなんだこのいいようのないモヤモヤはー!!」みたいなのたうち周りっぷりを今発揮しているばかりなのですが、「考えるな、感じろ」スタイルではなく「考えろ。考えて考えて考えて、模索しろ」と言われている気がしました。
多分一度で「なるほどこうかな!」と答え合わせができるものではなく、そしてめちゃくちゃ集中して見たい作品であって、俯瞰して見るのか、それとも三浦大知という演者の表情や行動を考察するのか。
それぞれの色んなエッセンスを組み合わせて確立されていくのではないでしょうか。
つまり、考察するのが好きな人、こうじゃない?ああじゃない?って言い合うのが好きな人は「楽しい」ってなるんじゃないかな。
ということで、つらつら語った感想ですけど、まぁめちゃくちゃ的外れな可能性のほうが強いと思うので、読んだ人は「ま~~~たこいつなんかいってるわ~~~」くらいの感覚で居てください。
ということで、球体、7月に発売です。楽しみですね。
そもそもこのジャケットのイラストがたくさんの世界につながっている、連なっているものや細胞にも見えなくもないしDNAの螺旋のようにもみえなくもないし。
考えだしたら答えがまったくわからないし、答えなんてそもそもないんじゃないか??あれ?答えあるのか?とか大混乱しているし。
歌詞そのものが「物語」であるから、音楽劇のようであり、でもそうでもなくて、深く深く、飲み込まれていくような、そんな作品でした。
個人的には色んな人の色んな意見が聴けたらいいなと思える作品でした。
”三浦大知のエンターテインメント、楽しい、パワフル!”を求めた人にとっては本当に摩擦で困惑しそうだな、とかそんなかんじです(笑)好みは絶対二分するのがわかる作品でした。
しかし遠くから聞いても圧倒的歌唱力に安心して聞けるってすごいな~~という実に小並感満載な感想を持ったり。なんだ、うん、すごかった!!!以上!!