「奇子」という作品があります。
手塚治虫作品のあのちょっとどす黒いというか、明暗でわけたら圧倒的「暗」で描写されるであろう作品なんですがこの度、中屋敷法仁氏の演出で紀伊国屋ホールで公演されることとなりました。
幸いにもチケットを入手できたので、友人と揃って観劇に赴きました。その感想になります。
原作は読了済みの上で見た人間の感想かつネタバレは配慮しておりませんので、自衛してくださいませ。
「奇子」という作品
小学館『ビッグコミック』に1972年1月25日号から1973年6月25日号まで連載されており、その年月を数えたらおおよそ50年前になる。
半世紀こえて、この舞台が具象化されていくというのが非常に興味深いです。
今作は手塚治虫生誕90周年記念事業の一環でもあるし、パルコ側としても大々的に進んでいるかんじ。
あらすじ
青森県で500年の歴史を誇る大地主・天外一族の物語です。
終戦後に農地改正法が施行され、その結果一族の力が前時代的なものではなく考え方が高度成長期の影響を受け衰え始めている状態。
その家には秘密があって…という、「一族」の中に込められた物語です。
作品は電子書籍、文庫とそれぞれに販売中。
キャスト・スタッフ
ストーリーテラーというか、太平洋戦争から復員し、彼が帰ってくることで物語が変化していきます。その存在であろう「仁朗」にA.B.C-Z五関晃一。
さらに三津谷亮、味方良介、駒井蓮、深谷由梨香、松本妃代、相原雪月花、中村まこと、梶原善と並びます。
梶原善さんに関しては連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」*1(2010年)で私はお名前を知り、「戌井さん!!!!!」って思ったんですけど、本当に柔和な役から硬派なものまで多様化に富んだ素敵なお芝居をされる方という認識です。
(とりあえず個人的にめっちゃくちゃ「ゲゲゲの女房」が思い入れ強いので全方位に宣伝したいクラス)
手塚治虫氏と水木しげるさんのお話というと「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ!!!」と言い放った(※なお交流はない)話がめっちゃくちゃ好きで。水木先生がその後に「一番病」というマンガにしているのがプロレス感があるのと、クリエイターだなーって思う部分があります。
そんなこんなで、まぁ話がそれちゃったんですけど、梶原善さんもそうだし、味方さんに関しては「見てくるね~」といったらテニミュを通った友達に「マジか!!!」って言われて笑いました。みんなどっから出てくるの。
演出家はハイキュー!!、黒子のバスケ、文豪ストレイドッグス等でおなじみ中屋敷法仁さん。通称「屋敷さん」。
私は彼のトークショーに何度かいったことがある*2人間なのですが、改めて今まで手掛けてきた作品を見ていたら興味深いんですよね。
ちなみにA.B.C-Zというグループとの接点でいうと「サクラパパオー」も手掛けていらっしゃいました
当時の感想
今作における中屋敷さんのコメントが非常に面白いというか、あの人基本的に【俳優】【お芝居】が好きなんだろうなってつくづく思います。
随分昔のトークショーでそんなかんじのことをいっていて、改めて様々なインタビューを拝読しては「この人はお芝居が、俳優が、作品が好きなんだろうな~~」ってなります。
ちなみに私の友人に黒子のバスケのステージ(通称黒ステ)のファンがいて、彼女は本当に黒子のバスケ(原作)からのファンではありますが最終的にステージそのものがすごく好きになっていて、その効果に中屋敷さんがあることをたいへん語っていたのは記憶に新しいです。
とにかく「奇子」はゲネの記事を読んでいても、「どういうふうに作るんだろう?」「どうやるんだろう??」と興味深かったです。
感想
登場人物を精査することでコンパクト化
まず第一に奇子ってめちゃくちゃ登場人物が多いわけですよ。
青森のあの村にいる人物だけでも一族の人たち総勢でも結構いる。
東京編も盛り込んだら仁朗に関わる人はたくさんいて、その人達をどう描くのだろう??って思ってました。
でもこれを思いっきり精査したことで、すんなりと物語を時系列にしたり直したりをしなくてすむというか…舞台として「投げる」「受け取る」がスムーズになっていたように感じます。
「待って、お前誰?????????」がなくなるというか…。登場人物が多い群像劇のネックって”人を誰か認識できない”という部分がすごくあるように感じます。そのネックがきれいになくなるっていうのは自分にとってとてもありがたかったです。
誰もが主役であって主役ではない
原作が可視化が可能の、視覚から印象を捉えることができる「マンガ」であるので所謂2.5次元舞台の特色である「キャラクターに寄せる」ということもできる作品ですが、今作においては、どちらかというと「この作品の世界観」「この鬱蒼とした、陰鬱とした雰囲気」への重視が感じられました。
本作はどちらかというと「群像劇」に近い作品です。作品名が「奇子」とあるものの、奇子だけの目線ではない。誰の目線であって誰の目線でもない。じゃあ神目線か?と聞かれるとそれもノーではないかと思います。
仁朗が主役、といっても正しいとは思いますが、中屋敷さんは下記のインタビューで「仁朗は一番翻弄されている」と綴っています。
これは本当にそのとおりで、実際蓋を開けて見てみたときの「あ~~そう作るのか~~うわ~~好き~~」っていう印象を私は受けました(笑)
所謂「事件がおきて」「なぜこうなったのか」という振り返り方をしているので、非常に明確化されています。
マンガでは時系列順に流れているので時間の流れとともに奇子が成長し、自分たちの暗い膿を見ないで相手を糾弾しようとする様が炙り出されているような形に感じられますが、舞台はどちらかというとすべてが「出来事として起きた上での、過去を今のように語る」というものだからこそスムーズに受け取れました。
極論言うと「忙しい人のための奇子」って取れてしまう「二時間での収め方」をきれいに精査し、スムーズにわかりやすくコンパクト化することで「見終わって時間を忘れて楽しめた」という形になるというか。
「家丑不可外扬」
ロシア文学の言いようのない暗さ(※褒めてる)を思い出させるような、日本の決して”都会”ではなく、”青森”という場所だからこそ描いた作品である奇子の空気感というのは澄み切った自然とは反するようにどんよりと、所謂「停滞」をしている、変化を嫌うけらいがある空気があります。
中屋敷さんも前述インタビューで「純文学ぽい」「シェイクスピア」ないしは「チェーホフ」ということを挙げておりましたが、本当にそのとおりというか。言いようのないものを突きつけられた気がしました。
中国のことわざに「家丑不可外扬」というものがあります。
”身内の恥を外で話してはいけない”というものなのですが……中国のことはわかりかねますが、日本の当時のことを鑑みてみても「あ~~~こういう考えで市朗はいたんだろうな」となるというか。それは彼だけではなくて、多くのものもそうなんですよね。
本作に出てきているようで出てこない仁朗たちの母親もまたしかりで、今作では出てこなかったものの最後奇子がいなくなり、多くの死者をだした状況でも「天外は自分がいる限り、生き残る」という言葉を語っている辺り……彼女は彼女で染まっている部分がきっとあるのかもしれないな、と最初に読み終わったときに感じました。
朱に交われば赤くなる
舞台では衣装が「赤」「黒」「白」で主として確立されており、天外の一族の人たちは「赤」を身にまとっています。
赤、とは「血の色」だなあと思うのと同時に完全に他の作品ですが「赤と黒」をふと思い出させました。スタンダールの名作ですね。私は読みながら「お前~~~!!!」お前ってやつはよお~!!!!!」ってジュリアンに理解ができなくてイラッとした思い出があります。俗物的ですが・・(笑)
赤と黒。赤は「軍人」黒は「聖職者」という意味でいけば天外の一族は皆聖職者にはなりえないわけで。タブーを「タブー」と知りながら、金と権力でもみ消し続けている彼らは自らを「汚物」と称しているものの、それでも彼らは行いをやめないというのは考えさせられます。反面教師って意味で黒なのかなあとか、「血はいずれ黒くなる」という意味でそこに該当するのか…。
また、本作において欠かせないのは志子の恋人が「アカ」であったわけで。
アカ:社会主義や共産主義の象徴である赤旗の色から、共産主義者、社会主義者、共産党を指す隠語・侮蔑語。使用例・「貴様はアカか?」。
そういう意味では「アカ」を侮蔑する表現として使いながら、舞台では「赤」を身にまとっているというのはなかなか因果的なものを感じました。
赤を「天外一族」が着ているということへの「集団意識」の高さがすごく見えまして。これは獣、または中屋敷さんでいうなればの「絆」の証にも見えます。獣であればあるほど、団体行動が得意とするというのが個人的な認識もありまして。狼にしろライオンにしろ、猫にしろいろんな形で集団を作る。普段はいなくても、集まるっていうのはよくある話で…。
仁朗の兄嫁であるすえは「赤」を着ていません。お涼もまた、「白と青」という独特の「赤ではない色」でした。彼女らが身にまとっているのは「藍(または青)」で、あくまでもその世界の外側の人が巻き込まれたようにも見えました。彼女たちはあの「天外」という一族の”絆”によって消されてしまった存在だからこその、所謂「被害者」といっても過言ではない立ち位置であると感じています。
赤に交わり続ける世界の中で、彼女たちはひたすら「消費される側」で有り続けたというのは見ていて心苦しい限りでした。
奇子が持つ「好き」と男たちの「好き」
奇子は所謂「純粋培養」で、世間の人たちの考え方とは異なっています。
その中で訪れる初潮や、体が「女性」になっていく中で芽生える愛欲とか性欲とか、ある意味「ヒト」の理性ではなく「生き物としての本能的な部分」について、奇子は違いを教わることができていません。
すえは結局彼女のことを助けようと奔走したけれどだめだったし、彼女の周りで助けてくれる人物は「男」しかいなかった。(彼女の姉は結局彼女を見捨てている※実際は勘当されて「上等だ!!」って出ていってしまっている)よりによって、それも天外の男しか。
仲良くしてくれていた「お涼」は白痴であったし、仁朗に殺されてしまっている。
彼女のなかでの芽生える感情というのは、御しやすかったんだと思います。男たちから「消費」されてしまう。
正義感が強くて真っ直ぐだった伺朗が崩れてしまったのは「妹」に向ける感情が、結局「そうならなかった」結果、生き物としての本能に負けてしまった。
「この家はそういう家だ」ということで抗うことを諦めてしまった。そして、彼女と何度も寝た。
彼女に向けるのは「同情」からで、大切で、でも、最終的に欲望に生きている。
「愛がわからない、違いがわからない奇子」が求めてきたから、「わからないなら教えれば良い」かもしれないが、それを拒みきれなかったのは彼の本能もあるのでしょう。
だから「犬や猫のように、この家は≪人≫ではない、獣だ」という言葉が出てきたと感じられます。
作られた異端児がゆえの「ファム・ファタル」
奇子は正直、じゃああの天外の一族として生きていたらどうなっていたのだろうと思います。
仁朗がお涼を殺さなかったら、そもそもあそこで目撃をしなかったら彼女はどうなっていたのか。一瞬考えたときに私の中で出てきたのは「市朗か、一族に染まった伺朗の慰み者にされる」でした。どちらに転んでも間違いなくハッピーエンドはありえないし、どこかに嫁に出されてもなお彼女が幸せになるとは思えない。
土蔵にいることで純粋培養され、純粋で無垢で「幼さがゆえに危うく、そのアンバランスさが故に妖艶」になり、性交は”好き、だからする”っていう認識になってしまっている。
でもそれ以上に、彼女が作り出してしまっている「人々を翻弄されている状況」というのは言うまでもないんですが、その彼女は「復讐の意図はない」っていうのがすごいこう…しんどい…ってなりました。
そんなもの考えられないんですよ。だって純粋培養だから。
でも、だからこそ彼女が出会った下田警部の息子である下田波奈夫との関係が築き上げられる中で、彼もまた、奇子の持つ独特な彼女の「毒」に毒されていく。毒と言ってしまうと言い方が悪いですが、「彼女は僕のものだ」という言い合いは完全に伺朗のそれと変わらない、結局かれも私利私欲が混じっている状態なんですよね。それを踏み込むか、踏み込まないか。
波奈夫が踏み込まないというのは彼が「朱」ではないからというのと同時に「都会」という解き放たれている場所の存在だからというのもあると思います。
私は割と「ファム・ファタル」というものを作品の中で見出すのが好きなんですけど奇子もまた、ファム・ファタルであったと思います。
男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)の意味。
また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこと
作品違いでいえば、カルメンとかマタ・ハリとか、あとは楊貴妃とか、妲己もそうだと言えると思います。
運命の女であり、その上で男を破滅に導いている。「あの日、あの時、あの場所で君に出会わなかったら僕らはいつまでも見知らぬ2人のまま」って歌がありますが、そんなかんじ。
奇子は見た目の美しい女性で、その上で非常にアンバランスな精神状態のまま生きています。その危ういところが人を突き動かす部分でもあり、同時に突きつけてくる罪深さもあります。妖艶で純粋。純粋がゆえにエロティック。
彼女は幾度となく男と寝るし、そのためらいがない。理由は「好きだから」になるんですけど、その貞操概念というものの希薄さはなぜ生まれたかって言うと彼女の出生からの話になるわけで。
「運命の女」であり「破滅を呼ぶ女」。そういう目でみると、奇子は破滅を呼んだわけで、その破滅とは何かというとよどみきっている天外という一族であり、波奈男という一人の男であり仁朗という存在であり、彼らを取り巻く「戦後という場所」であり……という色んなものにかかっている気がします。
生まれながらにして悪なのか、はたまた生まれながらにして聖者だったのか。存在自体が罪と言われても彼女は何も悪くないし、彼女が見てしまったものに関して言えば「いやそんなん仁朗が背負ったものだしね???そして殺せなかったのは仁朗のスパイとしての甘さだよね??」って言われたらそれっきりで。あの時殺せなかった段階で仁朗の運命は破滅に向かっていったといったら「あの時から、彼女はファム・ファタールであったのかもしれないなあ」ってとかく思うばかりです。
「毒を食らわば皿まで」と「毒をもって毒を制す」
本作における舞台を見た時の感想はそれぞれにそれぞれのキャラクターに於いてありましたが、最初に伺朗に抱いたのはこれでした。
彼が抱いてしまった「同情」が「愛情」に変わり、その結果妹を貪るという禁忌を犯している。波奈男が「あなただけはまともだと思ったのに」という言葉がありますが、あの段階で糾弾する一方で彼自身は人に”知られてはいけない”ものを抱えているわけです。
ただ、その中で伺朗が持っているものって「だからどうした、そうだよ」っていう開き直りにも親しいものを抱いている。でもそれって彼が糾弾している市朗、仁朗たちと同じなんですよね。仁朗はお涼を殺めて、その上で市朗たちを利用し、自分が免れた。その結果奇子が閉じ込められて、彼自身もそのことに気にはかけている。でも、「お涼を殺したが仕方がなかった。でもそれは受け止めた上で償いをせざるを得ない」という話になっている。
市朗はまた「妻を差し出した、父親が死に自分がすべてを相続するという口約束を裏切られて思うように動かそうとしていた妻にも拒まれた。だからそうなった。仕方がない。俺は悪くない」なんですよね。
このポイントとして「俺は悪くない」というふうに言っているのは市朗だけで、仁朗と伺朗は「俺は悪くない」とは言っていないあたりが長男かそうじゃないかっていう差でもあるなと感じます。
彼らはあくまでも「村」の中にいる「大地主」の子たちにすぎず、一方で市朗は「大地主の息子」「長男」だからこその立ち位置があります。
立場が危うい状態になり、彼のアイデンティティが崩れることを彼は拒んだ。
それって「奇子はここから出しちゃいけない」「俺が守ってやるから」ということに固執していた伺朗にも似ているんですが(彼は最終的に外に出てしまった奇子によって彼自身の”守ってやる”という自分のアイデンティティはすでに喪失している)。
この「だからどうした」という部分って「毒を食らわば皿まで」ということわざと一緒で、「その血筋だから、もうしょうがない。そしてもうそうなってしまって自分は畜生になっている。だったら」ということなのかなっていうようにも感じました。
で、同時に伺朗の場合は「毒をもって毒を制す」に近いというか…。
「あんたが一言謝れば」という話をしているあたりに感じるところがあります。
ただまぁそれ言っちゃうと「許す/許さないは奇子の判断であって、そこに判決を下すのはいささか独善的では?」とも思うんですよね。このへんは伺朗が妹として接していたかった奇子を女として愛してしまったがゆえの愛憎でもあるのですが…。
じゃあ市朗は外道かって言われるとまぁぶっちゃけ外道ですよね。ブラックジャックだったら金つんで助かるけど痛い目あって死ぬタイプ。
でも彼は自分が「間違っている」とは思わないわけです。
なぜ思わないのか。「毒を食らわば皿まで」という概念なのか?多分これに関しては倫理観が既に「あの場所」「あの空気」だから淀んでいることに気づいていないというのがあります。
「だって天外の一族って”そう”だったから」「自分は長男だから、責任が強い分そういうことをして”家を守らなくてはならない”から」という部分があります。
これって私のような平成に「東京」という開けた生きてきた人間でには理解ができない 部分があるのですが、友人(富山県の出身)に言わせると「ここまでじゃないけれど、独特の閉塞感みたいなものはあるよ」ということでした。
考えてみれば閉塞感なら横溝正史の犬神家の一族だってそうじゃないですか。
あの時代の、あの独特の閉塞感。
戦後で変わっていく、変わらざるをえない中で「田舎」という閉塞の中からどんどん奪われていく。”戦争なんかがあったばっかりに”と市朗が口にするなかで、じゃあなかったらどうなってたのかっていうと、どっちにしても、変わらなかったと思います。奇子に変わる別の存在が生まれていたかもしれないし、こうやって幽閉があったかもしれない。1970年代にそれこそ幽閉された女の子の話が実話でありましたしね。
そのへんの独特の”閉塞””淀み”で、仁朗がいっていた「俺の戦後もようやく終わる」なのかなって思いました。
仁朗が奇子に抱く感情は何か
仁朗は奇子に対して「兄妹ではなければお前を…」という流れがあります。
一方で奇子が仁朗に性交を促すようにしても、彼は突っぱねます。
そのアンバランスで作られたバランスというのが非常に興味深く、罪深い人間であれど「畜生」であれど、彼は彼で奇子に抱いているのが「悔恨」と「懺悔」の気持ちと、罪滅ぼしだけではないでしょう。
言葉にはできない「特別」「大切」は誰にしもあり、それはひっくるめた結果が「愛情」になってしまうんだけれど、じゃあそういった「こと」をするのかという問いかけに対して仁朗は徹してノーとしている。なぜか、それは彼が「天外」の一族であるとともに「外」で生きている人間だからではないでしょうか。GHQのスパイであったり、戦争にいったり、東京にいたり。
彼がいる場所は決して青森のあの小さな小さな村の「大地主」じゃない。その血を利用して前に出れない市朗を脅しはしても、外に出ているというのは大きいかなと感じます。
では愛情か。
愛情ってなんだ?って話になるわけですが、その心理は本当に人さまざまで、「仁朗っていつ奇子のこと好きになったの」という問いかけが生じるわけですが、彼にとって明確なラインというのは余りない気がします。
愛情という感情について「大切にしたい」という気持ちと仮定するのであれば男女間だけではなく家族間に生じるものもそうで、それが男女の「思慕」「恋情」になるのかっていうとまた変わってくると思うのですが…。
そばにおいていて、彼女の危うさを見ていて、そこにあったのは子供の頃の彼女への懺悔と後悔、そしてその成れの果ての彼女に対して思う交錯する気持ち。「オレ一人の女だ」は、彼の「恋」「愛」「罪」いろんなものが出来上がった彼の不格好な形の”気持ち”のすべてだと思います。
芝居としての感想
まずいいたいのは「そうやったか!!」でした。
洞窟の中のデザインがぱっと見たときに性器や舌等に見えてエロティックかつグロテスクにみえたのはわざとかなあ…って思いました。
性交のシーンをどうしても本作では描かなくてはならないわけですが、それを色使いと体の動きでダイレクトではない表現。
コンテンポラリーダンスのようで、でもそうではない。けれど、確実に「そう」である芝居というのは肌は見せずとしてもこういう見せ方もあるんだなあと思いました。インド映画は具体的な恋愛の描写が禁止されているからこそのあの独特の極みみたいな表現になると聞きます。
そういった意味で、舞台という世界で装置を使えば容赦なく描写を描くことが出来るものの、具体的なベッドシーンを省いたのは興味深かったです。
また、5歳の頃の奇子を子役にやらせなかったというのは非常に中屋敷さんが手法として描かれる演出を考えれば「確かに~~」っていうのが詰まっていて、スポットライトで彼女が”い”ないけど”い”るように描きます。
求められるのは役者の表現で”い”ないものを”い”るようにし、観劇している側に錯覚を覚えさせることでした。
この演出の仕方って「サクラパパオー」でもそうであったし、他の方の演出でいうとテニミュとかでもそうでした。スポットライトで動き回ってて当初は「なん・・だと・・・?」って言われていたのを思い出します。
「ない」けど「ある」
「い」ないけど、「い」る。
奇子自体の存在が「あってはならない」上で、「でも存在している」というこの重苦しく鬱蒼とした作品の中での表現で選んだというのがすごく「あ~~~人の業~~」って気持ちでいっぱいになりました。それをカバーする演者たちのお芝居がすごく心に残りました。
俳優さんたちに関して言うと先程いった梶原善さんの「こ、こいつ……!!!!!こいつだけは生かしちゃダメだ~~!」みたいなDEATH NOTEの松田みたいな気持ちになるお芝居は突き抜けて清々しくいいクズ(※褒め言葉)であったと思います。市朗を見ながら「こいつどこまでもクズで滑稽で憐れだな…」って思えたのは彼のお芝居があったこそだと思います。
また、五関さんのお芝居に関してですが、当初お写真を見たときに「仁朗との体格の差がすごいな~」が第一印象でした。どっちかっていうと原作の仁朗がとてもがっしりして描かれていたので、細い腕と腰をしている五関さんがどういうふうにやるんだろう?って思っていたわけですが、一方で中屋敷さんに「ミステリアスな部分から五関さんにお願いした」という部分を拝読し、かつ見た上で「なるほどなあ」ってなりました。
五関さんというのは本当にファンの一人として印象が「ふしぎ」な人です。何考えてるのかわからないというとすごく悪意があるように見えちゃうんですが、どこか浮遊感漂うというか、見え隠れするダークさと、けろっとしている雰囲気とか。
例えるなら「めっちゃくちゃ暑い中でみんながゼーゼー言ってる状況にも関わらず汗すらかかず、けろっと佇んでいる人がいるなら、それが五関晃一」っていう印象だったので、仁朗のそういった「見えない」部分が出てくるっていうのが良かったと思います。
また、今回の舞台が「紀伊国屋ホール」という客席が420ぐらいしかない場所だからこそというのもあるとは思うのですが非常に聞き取りやすかったです。突然の銃撃戦でのアクロバットに「どうしたどうした?!」って思ったんですが、一方で「中屋敷さんだもんな…誰よりも乙女だもんな…」というのをちょうど読み返しながらしみじみしていました。活かせるものは生かしたいし多分彼が一番見たかったんだろうな~と(笑)
また、このお芝居が「紀伊國屋ホール」という小さな場所になった理由は様々にあるとは思うのですが、あの芝居が例えば大きな新橋演舞場や新国立劇場だったら良かったのだろうかって思うとそれは個人的にNoです。
狭くて、ほの暗くて、どこか閉塞感のある紀伊國屋ホールだからこその「圧迫感」というものを感じられて、奇子がここでやってくれたのは様々な偶然の結果かもしれないけれど「それで良かったと思える」部分がとてもありました。
また、他の方で印象的だったのは奇子の駒井蓮さんの本当に細い糸を綱渡りするような奇子の危うさ。奇子はどこまでも不安定で安定しているという芝居をしなくてはならないので彼女の精神状態キープ大変だったろうなあ~…とつくづく思いました。
お芝居という点で見ていると休憩を挟まない芝居であったことがより、「この状態をどうにかしなくては」「出してくれ」という状態を表しているようで、一種の走馬灯のような描き方でよかったです。中だるみを許さない常時走り続けなければならない。ソリッドな描き方だったからかな、って感じます。
また、本作について中屋敷さんは「絆」という部分をコメントされていました。
家族、という「絆」
日本人、という「絆」
今後ますます求められてくるであろう「絆」という抑制にも似た何か。
その上で見て見ぬ振りをするのか、あがくのか、その結果何がどうなるのか。人の業とは何か。作品を通しながら、今自分が「あの家族に起きたこと」をただ単なる身から出た錆と取るのか「社会がそうさせていってしまったがゆえの人の業。その末路」と取るのか、ということをぼんやり考えています。五輪が近づいてくるにつれて先日の「”名誉だから”というボランティアの状況」をニュースで見て「いやそれは無理だろう…」って思ったりすることにちょっと似ているなって思ったりしていました。
非常に満足したお芝居でした。再演してくれたらまた足を運びたいし、これは五関くんであったからできたお芝居だと思います。
中屋敷さんと五関くんでまたお芝居をしてくれたら見てみたいですし、塚田さんや河合くん、戸塚さんや橋本くんと組んだ時作品はきっと絶対「奇子」ではないだろうし、そうなった作品がどう描かれるのか…とか、色んな意味で興味ぶかい限りです。
「目を背けたくなるような、でも眼をそむけてはいけないようなヒリヒリした何かを突きつけられる作品」であったと思います。エロ・グロ、そして一族のナンセンスさ。全部ひっくるめての「手塚治虫」作品から抽出し、舞台としてのアレンジを加えた原作へのリスペクトを感じる良い舞台だったと思います。
キャスト、スタッフ、関係者のみなさんお疲れさまでした!!