柑橘パッショナート

インプットとアウトプットを繰り返すごちゃまぜスタイル

「next to normal」から考える「”普通”ってなんなんだ?」

「next to normal」がシアタークリエで上演されました。

 本作について、自分は前知識がないまま「ブロードウェイで行われていた作品」としての認識で待っていたところ、幸運にも初日と他数公演を観劇することが叶いました。

 ということで「前知識0」で見に行った人間の感想になります。一番の強い感想としては「海宝さん歌うますぎない!?」でした。

 あまりのうまさにずっと圧倒されて震えていました。終わってすぐに海宝さんのファンクラブに入るぐらい、歌が上手い。軽率なオタクなので推しが速攻増えました。

 ただ、本作に関しては「正直ネタバレは全部伏せて、記憶を0にして頼むから見て欲しい」といえる作品です。良い子のときとは違う意味でひりついた、爪痕の残る作品として大好きな作品になりました…。

 その上で「もう1チームも……みたい…!」という気持ちでいっぱいです。

next to normal

 

next to normalについて

約10年前にも上演された作品。2013年当時と現在での時代の変遷、雰囲気も異なるなかでの上演になります。本作は2チームに分かれたダブルキャストで送られる作品ということで、注目度も高い作品。概要は次の通り。

母、息子、娘、父親。普通に見える4人家族の朝の風景。

ダイアナの不自然な言動に、夫のダンは優しく愛情をもって接する。息子のゲイブとダイアナの会話は、ダンやナタリーの耳には届いていないように見える。

ダイアナは長年、双極性障害を患っていた。娘のナタリーは親に反抗的で、クラスメートのヘンリーには家庭の悩みを打ち明けていた。

益々症状が悪化するダイアナのために、夫のダンは主治医を替えることにする。新任のドクター・マッデンはダイアナの病に寄り添い治療を進めていくが・・・。

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チームは2つに分かれていて、それぞれの色が全く異なるのがポイント。Wキャストならではの「同じ役柄でも全然アプローチの仕方が異なる」のがキャストを見ていても明白でした。

  • 主人公・ダイアナ 安蘭けい / 望海風斗
  • 主人公の息子・ゲイブ 海宝直人 / 甲斐翔真
  • 主人公の夫・ダン 岡田浩暉 / 渡辺大
  • 主人公の娘・ナタリー 昆夏美 / 屋比久知奈
  • ナタリーの同級生  橋本良亮 / 大久保祥太郎
  • ドクター 新納慎也 / 藤田玲

橋本くんがいる安蘭けいさんチームはここ数年ジャニーズ関連のお芝居を見に行く機会が多かったので「見たことがある!」という状態でした。

 海宝直人さんは直近の坂本くんのミュージカルであるマーダーフォートゥーで拝見しました。このときもあまりにも歌がうまい……と思っていたのですが、今回はさらにビリビリ来るものがとてもあったように感じます。

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 一方で望海風斗さんのチームは「し、知っている…!!」という状態で、特撮で熱演をされていた方々だったり、モアナで知っているぞ!だったりと「わかる、わかる!」とウキウキ状態でした。チケット?取れませんでした。再演してくれ…!!!!(気が早い)

いってきました

ということで、以下は安蘭けいさんチームの雑感です。

「next to normal」における感想あれこれ

 シアタークリエにお伺いするのは初なのですが、ステージを前にして正面をぱっと見れる形の作りをしており、どの角度でも見やすそうな印象を受けました。段差もしっかりあるし、通路席より後ろであれば全体を見えるし、前であれば演者の表情をしっかりと見られる形。数公演のうち、1度は真ん中センターよりで見たのですが、非常に見やすく、セットを含めて「こんな感じなんだなぁ」と感心していました。表情を見るという意味では前もいいけれど、全体を含めると真ん中あたりが私は好きかなと思いました。でもクリエなのでどっからでも見やすいな、とも。

 ステージセットは家の形をライトで縁取り、家の「外」「中」を表現しています。場面転換で舞台が回転するたびに、家の「中」が描かれると一気にドールハウスっぽくなります。

シルバニアファミリー お家 はじめてのシルバニアファミリー DH-07

(わかりやすくシルバニアファミリーのおうちで説明します)

また、階段は右側に螺旋階段で、行き来している様子が見られます。細やかなセット一つ一つも見応えがありました。

 

ストーリーへの雑感

双極性障害」という精神面での病気を抱える女性が家族とともにありながら葛藤していくものでした。日本でもだいぶ精神病について寄り添うことができるようになってきたと思いますが、09年段階のアメリカでこれを上演していたのだと思うとすごいなぁとも感心します。

 ダイアナにだけ見える「ゲイブ」が何者なのか、どういう存在なのかーーということは作中でだんだん紐解かれていきますが、冒頭は完全に「ただの息子」と「母親」の会話で全く疾患しているようには見えませんでした。反抗期の息子と、ちょっとおせっかいな母親のような構図でした。

 「父さんは僕のことが嫌いなんだ」というゲイブに対して「それはあなたが”くそがき”だからよ」とダイアナが返します。

 だから父と息子の話をするシーンは冒頭はない。そのうえで家族全員がいる状態での「いってきます」という朝の光景に場面が切り替わったとき。母親の明らかなまでの異常な行動に対して旦那(父)と娘は引いているなかで息子はまっすぐ見据えています。そこで「いってきます」となるくだりも含めて「全く気づかなかった」です。

 ”い”るけど”いない”。そんなゲイブがじわじわと侵食していく姿は気づいたときゾワッと背筋が凍りました。そういえばゲイブは父親や娘に声をかけるシーンもないわけじゃないんですよね。やあ、お嬢さん、と朝一番に妹に声をかけている。

 この兄妹の関係は非常に歪で、妹からした(母の愛する)兄はなんでもできて、結果的に自分が透明化しています。だから母に消えてほしいと思うし、あんな母親と思う一方で「愛されたい」という気持ちや、大切に思う気持ちも存在している。

Superboy and the Invisible Girl

Superboy and the Invisible Girl

  • アーロン・トヴェイト
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 この「Superboy and the Invisible Girl」がとてもほろ苦く切ない曲です。ずっとポロポロとこぼれ落ちていた、「天才の妹」と言われてきた彼女から見た母親についての部分。母は兄しか見えてない。自分はいない。

ただ、じゃあダイアナはどうなのかというと、冒頭のダイアナの毎日を歌うところで、家族ごっこを演じている一方「天才の妹」と認識していて、そこで「愛している」と言う言葉を放っています。ここに嘘はないんじゃないかな。

 Just Another Dayに含んでいる毎日のやり取りが「偽物」なのか「本物」なのかという問に関して、私は「どちらも真実であり虚構が入り混じっているが心に嘘はない」というように感じました。

Just Another Day

Just Another Day

  • Alice Ripley, アーロン・トヴェイト, J. Robert Spencer, Louis Hobson, Jennifer Damiano & Adam Chanler-Berat
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 さて、話を戻しますが、Superboy and the Invisible Girlという歌を「普通」のカテゴリーが少しだけナタリーよりも広いヘンリーに歌うというのも、少しずつだけど伝えたいものがあるんだろうな、という部分が垣間見えました。もちろんヘンリーもクセが非常に強い人間なので「それもまぁいいんじゃない」という一方でお前さんもお前さんで難ありだなぁというか。

 「誰かに救ってほしい、でも誰にも触れないでほしい」のヤマアラシのジレンマ。

 これは作中におけるナタリーとダイアナという二人の母娘に言える共通のものでもあります。エヴァンゲリオンでも見たことがあるようなそれですね。

 重ねてくるのが他の誰でもない、「Superboy」「Hero」「Prince」たるゲイブなのが「お前か~!!!!!!」となるという…。「来ちゃった」感。わかる…わかるけどなぜ出てきてしまうんだ……となりました。

 

 普通じゃないけれど、その普通じゃないが自分の家で、どうして周りと同じにできないのか、どうして自分が違うのか。その悩みは家庭環境だけではなくその他のことにも言えることです。本作では「家族」がそうである、その上で自分もまた「そう」かもしれないという不安と闘う人の物語として見ていて心に刺さりました。

 父親(旦那)のダンが献身的に支えながら、支えてもなお、届いていないこと。喪った兄の悲しみからの現実と空虚を行き来し、それでも「生かされている」部分もあるダイアナ。

 生まれた時から母が患っている中で育ち、歪な中でも自分へのベクトルを求めるナタリー。この家族それぞれが見ているようで見合っていない。誰が悪い、とかではないんですよね。だからこその掻き回される作品であり心に刺さるものがとてもありました。

心の病と向き合うこと

 心の病というのは作中でも触れていましたが、体調がなんだか悪い、というのと同じように誰にでもあり得る話です。けれど、それでいて「理解する」までに至るのは難しいお話でもあります。

メンタルクリニックに行ったところで「はい!健康!」というわけではないですし、そもそも健康ってなんだろうという概念的なところにまで来始めてしまうパターンも多々あります。

www.mhlw.go.jp

 厚労省メンタルヘルスについてのページを設けていますが、それでもやっぱりお医者さんによって見方も違って、治療を受けたい人と、医者とのコミュニケーションは必至になってきます。

 作中で言われていたとおり「デートを重ねる」のと同じように、医者と患者にも相性があって、この人とは合わない、この医者とは合わないを繰り返しながら自分にピンとくる人を見つけることにすごくお金と、時間がかかるものです。だからこそダイアナが後半一人の医師に出会い「ロックスター」として彼に治療を受けていくのは感慨深さがありました。その上でロックスターはもういない、と言い切れるのすごい成長を感じました。

 軽率にFate/haのオタクなので「ロックスター」と言われると「貴方、ロックスターみたい」のそれを思い出すのですが、彼もまた「世界を愛していて、と同時に憎んでも居る」という状態なんですよね。

人の痛みに寄り添う難しさ

 また、こういった病に周囲の人がなったときに「どうしたらいいのか」というのは交友関係や家族関係でも非常に悩ましい部分でもあります。

 寄り添ったところで、その人の苦しみを100%理解することはできないし、どうしても相手に寄り添っているはずなのに疲弊してしまうということが多々あります。どうしたらいいのかっていうと「離れたほうが良い(自衛したほうが良い)」というものもまた事実で。でもそれは大事な「家族」だからできないというジレンマがあります。大切な友人だったのに、家族だったのに煩わしくなってしまったり苦しくなって共倒れしてしまう――というケースは正直、あるものです。この作品においては父親であるダンもまた誰かから話を聞き寄り添ってもらわなければならないのに彼は彼で「彼女のそばにいる」ことでの依存にもなっているようにも捉えられる形なので、非常にセンシティブというか、難しいな……となっていたぶん、ラストに彼自身にも救いがあってよかったなとも思います。

 「あなたに何がわかるのよ」というケンカの時にあるあるなキーワードがありますし、本作でも「つらいのはわかるけれど」と言ったダンに対して「あなたは全然分かっていない!!!!(You Don't know)」という強いダイアナのセリフが出てきます。

 苦しいのがわかる、なんてわかりっこなくて、あいつの痛みはあいつのもの、私の痛みは私のものです。BUMP OF CHICKENでも歌ってる。

真っ赤な空を見ただろうか

真っ赤な空を見ただろうか

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 イメージはできても変わってあげることはできないし、イメージはしょせん「空想」とか「想像」にすぎないから、歩み寄ろうとしても「あんたに何がわかるのよ」と言われたらそれっきりなんですよね。

You Don't Know

You Don't Know

  • Alice Ripley, アーロン・トヴェイト & J. Robert Spencer
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 だからこそのダンの「俺が、君の、一番そばにいたのに」という葛藤に関しては非常にわかるものがありますし、くるものがあります。

 そこにリンクしているのにダイアナに「僕が一番そばにいる」「分かってあげられる」というダンと対比的に出てくるゲイブ(見えない存在)という存在に、救われているのに、そばにいて助けている筈なのにどんどん死へ近づいていくというのがしんどいです。

 最後への伏線というかこのときのゲイブは「どちらでもあってどちらのでもない」という立ち位置で、イメージの中で2つが行き来しているという意味でもすごく良かったですね。

I Am the One

I Am the One

  • Jennifer Damiano, Alice Ripley & Adam Chanler-Berat
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
  •  

 また、後半に流れる「もう自分のことなんてほうっておいてくれ!!」という状態になるダイアナとナタリーに対し、彼女たちを愛するダンとヘンリーの描写として「Why Stay? /A promise」があります。ここの心理としてダイアナもナタリーも傷つけたくて傷つけているわけではないですし、でも感情の起伏と自分に対しての制御不能になっている状態ではないかなと。大事な人達を他の誰でもない自分が傷つけている。その「言い過ぎた」「ハッとした瞬間」に自己嫌悪に包まれて、でもどうしようもない。

Why Stay? / A Promise

Why Stay? / A Promise

  • J. Robert Spencer & Adam Chanler-Berat
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 「わかってほしい」「でももう自分のことなんて見捨てて欲しい。そうしないと貴方がまた傷ついてしまう」というゆらぎ、あがきみたいなのが見えて、正直すごく心にきました。メンヘラ(笑)と言われることが多いインターネット環境ですが、そういう状態に苦しむ人は決して一人ではないし、それがわがままとか自己中心的と言われるとそうではない、というように思うからです。

 その上で、そばにいる、というPromiseを歌う彼らには「その言葉が救い」であり、と同時に「また傷つけてしまうかもしれない」という恐怖でもあり、のジレンマもたくさんついてまとっているのが苦しいですね。

 側にいるだけが愛情ではない、ということがあります。

 支えになる、過保護になる、依存する、いろんな表現がありますが、少し手を離してあげることで見えてくる世界は変わる。一人は寂しいけれど、一人になることは怖いけど、というのは誰しもが一度は経験することでもあると思うのですが、自らが逝くことを選ぼうとしたダイアナが一命をとりとめたことで少しずつ変化していくのは感慨深かったです。

 その上で、このまま一緒にいてはいけないのだとダイアナが判断したところは勇気ある行動でした。決して「良い」のか「悪い」のかは判断できませんが、彼女が彼女として一人で立てるようになったとき、また家族として戻ってきたっていいし、そのときは「おかえり」が言えるといいなと思います。家にあかりを灯そう、という歌が最後にきたことを踏まえて、願わずにはいられないシーンでも有りました。

安蘭けいさんの、どちらかというとOsloで見た「ハキハキしている」「仕事ができる」「自分の意志をはっきりと持っている」という女性像のイメージだったこれまでとはまったく違っていて、最初のゲイブとのシーン、そしてさらっと出るスラングとシモネタの数々に驚きつつ(作品がそういうものなので当たり前なのですが)演じるごとに形が大きく変わっていて、引き込まれるものでもありました。

 

amanatsu0312.hateblo.jp

 

 チームを引っ張っていくからこその強さもありつつ、非常にカロリーが必要となる本作の主人公・ダイアナを組み立てるの大変だったろうなぁ……とつくづく感じていました。怒鳴るように、喧嘩するようにダンとの言い合いのシーンもすごかったです。

ゲイブという存在感があるのに「い」ない人

 観劇しているお客さんは「ゲイブ」が見えていて、ダイアナの心境に寄り添える部分が多々あるけれど、ナタリーとダンには届かないし見えていません。

 そのことを認識した上で、それぞれの曲を聞いていると、「Superboy and invisible Girl」に対して出てくる「ゲイブ」というのはナタリーの想像の中にいる、母のイメージする”ゲイブ”というちょっとわかりにくい状況が生まれます。と、同時にゲイブの曲である「I'm Alive」はダイアナのイメージするゲイブとして非常にはつらつとしているというか……本作における裏主人公的な立ち位置の彼らしさも感じられます。

I'm Alive

I'm Alive

  • Alice Ripley, アーロン・トヴェイト, J. Robert Spencer, Louis Hobson, Jennifer Damiano & Adam Chanler-Berat
  • サウンドトラック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 初日でこのI'm Aliveを聞いた時にあまりにも海宝さんの力強さに引きつけられて、それまでのミュージカルの空気が一気にゲイブに集中したようにも感じられました。海宝さんが歌がうまい、というのもあるかとは思いますが、作品における「家族を引っ掻き回す/場面を引っ掻き回す存在」というトリックスター要素を持っているからこその不安と転換を持ち合わせた彼に目線がいくのにぴったりだなと思います。

 と、同時に、医師が「ロックスター」という説明があり(これは劇伴に書いてありました)最初のやり取りでコミカルな部分があったから(あれは私はダイアナが薬の副反応として欲情している描写ではないかな、と感じていました)こそなのかなぁとも。だからこそダイアナが最後に背中で拳を掲げているシーンにつながっている。他の医師とダイアナがコミュニケーションを取っていたら多分ゲイブの曲もちょっと変わっていたのかもしれません。

I'm Alive

I'm Alive

  • 海宝直人
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 歌詞は違いますが、海宝さんのI'm Aliveも配信されていたので終わってすぐDLしました。個人的には収録よりもあのビリビリくるステージの上でのゲイブだからこその力があったのかなぁとも感じました。

 イメージの中のゲイブ。じゃあそれは誰の「イメージ」なのか、という問題も本作には絡まっています。ダイアナはもちろんそうです。でも、それだけではない。

 ダイアナがもらった薬をトイレで流すとき、自らが不安がり、怒られることを危惧した中で、それを全肯定するように「勇気がある行動だと思う」というゲイブは彼女が追い詰められることを望んでいるようにも見えるし、と同時にダイアナが「自らがもう”いなくなってしまいたい”という絶望を持っている可視化」の存在(≒死神)だったとしたら、理由にも行き着いていくのかなぁとも思いましたが。じゃあ、ダンにとってのゲイブは何者だったのだろうか。エンディングを見ていると決してマイナスな存在ではなく、認知した上での「悲しみを受け入れる」ための要素にも見えます。

 このお話における「ゲイブ」という登場人物への”名前”の重要性は非常に高いです。最後の最後になって「あの子」から名前に変わる。名前を呼ぶということはイコールで「その人の存在を認知する」ことです。だからこそダンが最後にぽつり、とつぶやき「やぁ、パパ」と彼らのシーンは終わる。I'm the Oneの後に。ぼくらは一つ。ゲイブはダンでありダンはゲイブでもある。そばにいてダイアナをはさみ反比例なことをしていた彼らが重なったときのシーンに「ダンという疲れ切った人間が見たゲイブは決して死神には見えない」という状態でも有りました。ゲイブ、最後のシーンめちゃくちゃ穏やかに「やあ」って言ってますしね。

 「名前だけでも覚えて帰ってください」、というようにエンタメに所属している人たちは言うことが多いですが、それだけ「名前」ってとても重要なものです。興味がなかったら名前が覚えられない。

 これは前述していた「ナタリーに対してのダイアナの印象」も含めて彼女が娘をないがしろ/無視していたわけではないからこそのジレンマにつながっているような部分も多々あったからこそ、意図的にあのシーンで医者との話で会話が出てきたのかなとも思いました。

 まぁゲイブの名前が「ガブリエル」で復活を死者蘇生の天使*1か~~~と頭も抱えました。

 調べてたら失楽園エデンの園を守っている存在としてガブリエルとジョン・ミルトンは描いているわけで。私はキリスト教に関して詳しくないので調べながら~という立ち位置になりますがどういう意図で、キリスト教が主流の宗派である圏内である制作陣は彼に「ガブリエル」という名前を選び、この作品を組立てていったんだろう……とも思います。

 その上で最後に名前を呼ばせていて、やっと「見える」状態になった、認知されたゲイブが「やぁ、パパ」と非常に穏やかな顔をしていうんですよね。ビターととるか絶望と取るか、どう取るのかはその人次第ですが私は「僕を片隅にやった」といいながら消え去ろうとしながらも「ここにいる」というゲイブの歌を思い出して「記憶のなかにいる存在」として「こうであってほしかった」の具現化として、また、もう「いないものとしての同期」の願望不安恐怖全部を入り混じらせた存在が「彼」なのかなぁとも思います。

 ダンはその後、医師と対話をしながら治療をするのか否かとかいろいろを考えました。それこそダイアナは「全部」を思い出したわけではないからこその引っ掛かりはやっぱり残ったままですし。ハッピーエンドではない、けれど地続きに続く、明日がある。そういう作品だからこその「ゲイブはまだいる」というのは非常に…こう…グッサグッサ刺さります。

 甲斐翔真くんのチームのゲイブを見た人が「クソガキだった」というような言い回しをされていたのを見てイメージ的にはエグゼイドのパラドに近い感じなのかな、と見れなかったのをつくづく残念になりながらイメージしています(笑)

仮面ライダーエグゼイド スペシャルイベント

 

 海宝さんの構築したゲイブはどちらかというと両親のそれぞれの「こういう子供として育って欲しい」の願望をたくさん包括した結果の存在みたいなところな印象で、反抗期もあるけれど、クソガキでもあるけれど――こうだったら、いてくれたら、のイマジナリーの結果かな、というように見ていました。

 サッカーもしていて、ボランティアもしていて、あれもこれもしていて、その上で母親にちょっと反発したり父親と合わなかったり。ダイアナがほしかった日常、普通の象徴なのかなぁとも。と同時に願望としての可視化された存在。

 ダイアナにとっての「ゲイブ」で、「普通」がゲイブなのだとしたら「彼はここにいない」という現実を突きつけられるたびに、普通ではないということを叩きつけられて、またメンタルが揺れてしまったのかもしれない。そんなふうに感じました。結果的にI'm Aliveで「うるせえ!!!!!!!ここにいる!!!!」と歌うおかげで(最後に拳突き上げているところからダイアナからすれば「ゲイブ」が歌っているわけで)やっぱそうだよな!!ってなっちゃうのが面白くも苦いところですが。

 結果、ダンのラストにつながっていくのかもなとも。

 それにしたって海宝さんのお歌がうまい。ずっと言ってました。歌がうまい。Muder for Twoのときも「うまい……」と再三言っていましたが、初日に見てうますぎてビビりました(当たり前と言えば当たり前ですが……)友人は海宝さん初体験組だったので顔の認識ができてない中で最初の歌を聴いた瞬間にぜっったいこの人でしょ!!!!と分かったそうです(笑)作品柄、ゲイブの色が濃ければ濃いほど、存在感が強ければ強いほどハラハラさせられるものでもあるからこその「人だけど、人ではない」の海宝さんのゲイブ、すごく良かったです。NAOTRIM入りましたよろしくお願いします(?)

オタクは軽率に入る

 

ナタリーのいつか「そうなるかもしれない」という恐怖

 蛙の子は蛙という言葉がありますが、ナタリーが抱えている問題で「いつか自分も母のようになってしまうかもしれない」「普通になりたいのに普通にはなれない」という恐怖に関して。

 精神的なものについて遺伝性があるのかどうかはわかりませんが、スイッチが入ってしまうということはままある話で、母親のようになりたくないけれど、自分自身がそう「かもしれない」というジレンマというのは絶対的に寄り添ってそばについてまわります。世間的にいえば「毒親」といわれるそれになりたくない、親がそうだったからそうなりたくないと反発しているのになってしまう、というケースもいくつかネットではありますが見かけたことがあります。

 だからこその「普通」に憧れながら「普通」ではない自分の環境や状況を鑑みて、そう踏み込んでしまうのかもしれないというナタリーの葛藤はそれはそうだ…とも思います。

 私達は普通じゃないけれど、普通の隣、でもいいんじゃないかな」と言えるようになって、あれだけ嫌だった母を抱きしめてあげることができて、母がいなくなったことに対しても「父と、自分の二人か」と受け止められるようになったことに「心の余裕」ができたようにも見えます。

 もちろんそこにヘンリーというパートナーがいるからこその支えられている部分もあるでしょう。

 天才というよりも「秀才」とか、精一杯背伸びして背伸びして背伸びして、でも結局父親は母親に目線がいき、母親は自分ではなく死んだ兄ばかりみていて、自分を見てくれる存在がいなかったからこそのナタリーの孤独やつらさはよりありました。幼心に植え付けられていたジレンマがおとなになっても消えないというのはダイアナにも言えることではあるし、いわゆるアダルト・チルドレンと呼ばれる部分にもなってくるのでしょうが、少しずつ向き合っていけたらいいなと感じます。

 帰るべき家、落ち着く場所、安息の場所である「家」に帰ると現実に引き戻されてしまうというのをクラブに行きまくっていた頃にいっていた話で触れていましたが、このへん、「心が安らぐ場所」というよりも「自分の逃げられない空間」みたいなように形どられているの切なかったです。直接の連絡は取っていないものの母親と話ができた、とかどうしている、とか踏み出せたぶん、彼女の日々が少しでも明るいといいなと思います。

 線が細くてピリッとした空気を持ちながら、救いを求めている、でも決して言葉にすることはなく飲み込み続けていたという昆夏美さんが描く「ナタリー」は十代がゆえの葛藤もはらんできていて、プロムでヘンリーとのシーンで手を触れ返せないシーンにぐっときました。それでも勇気を出した、というあのシーン。すごく良かったです。

 昆夏美さんのステージの上での歌唱はやっぱり安定感があって、その上で透き通るものがあり、海宝直人さんとのコンビは東宝おなじみな部分でもある(直近で言うとミス・サイゴンでも共演されますね)のですが、聞いてて楽しいなぁと思えるシーンばかりでした。ヘンリーとはコインロッカー・ベイビーズぶりとのことですが、当時とはまたさらにきっと輝きが変わったのではないかと思います(私は2017からなので、どうだったのかは存じ上げないのですが……)生でお歌を拝聴するのは初だったのですが、さすがだなぁともしみじみしていました。

ヘンリーという「灯り」

 さて、本作における家族にふれる外部の存在として、ナタリーに大きく影響を与える存在であるボーイフレンドのヘンリーですが、彼もまた異質な存在です。

 ヘンリーも決していわゆる「ノーマル」ではないことが冒頭で示唆されています。気になる女の子の後ろの席にずっと座ってきたくせに声はかけられないし、いわゆるオタク的に思わず早口になっちゃうほど熱弁するのにヘンリーがパフォーマンスとして描く部分はナタリーに比べてずっと少ない。大麻中毒でリンゴからでも吸えてしまう。やばいかやばくないかでいえば後者でしょう。

Hey #1

Hey #1

  • Louis Hobson, Alice Ripley & J. Robert Spencer
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 ヘンリーの家族はヘンリーに対してか、または家族全体に対してか「この世界に対して諦めている」という部分がヘンリーによって供述されています。

 ヘンリーはADHDであることが示唆されています。衝動的に行動しているという部分では確かにナタリーに声をかけにいったりなどなどが言えるかもしれませんが…。

 一見すると「普通」かもしれない、でもヘンリーも多分カテゴライズするときは決して「普通」ではないです。

 だからこそヘンリーにとっての「普通」は本作に出てきた他の人物(医者は除く)よりも少し幅が広いのかもしれません。「そうなんだね、それもいいんじゃない」といえる。クラシックを演奏する堅物なナタリーに「少し肩の力を抜いてもいいんじゃないの」のレベルで言った。クラシックやってる横でそれ全否定するようなこと言って、されてみたら「おいマジかよ!!」みたいなこと言う辺り「そういうところだぞヘンリー」とも思わなくもないですが(笑)

 それだけポジティヴに言えば「普通」のカテゴリーが広く、悪く言えば「普通じゃない」の彼だからこそナタリーは少しずつ心を開いていますし、ヘンリーも彼女が求める「パーフェクト」とはなんだろうと考え、それになってみせると言えるのかなとも思います。

 彼の中にある「普通」よりも、彼女が求める「今ほしいもの」になれる。

 常識的ではないかもしれないけれど、それがすごく彼女にとって救いになったんだろうと感じました。

Perfect for You

Perfect for You

  • Jennifer Damiano & Adam Chanler-Berat
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 橋本くんの演じるヘンリーは、おしゃべりが得意とか、そういうキャラクター性ではなくどちらかというと「喋りすぎた」よりもちょっと奥手な部分も見え隠れするような人でした。

 彼の人生における背景の描写が非常にさらっと描かれているから見えないけれど、「普通になれない」ことでの苦悩は彼自身・彼のファミリーにもあったかもしれないなかで、彼は実に穏やかです。家族に対しても歩み寄ろうとするし、聞こうとする。ただ聞いた上で「まぁ僕の意見は」と突っ走るところがヘンリーのキャラ性でもありそうですが。

 献身的といえばダンとも≒である存在ではありますが、ダンとヘンリーは違う個を持っているからこその「同じ道」にならないかもしれないし、なるかもしれない。

 それでも、彼は拒絶して幸せになってほしいと願うナタリーに「自分が」側にいたいことを告げていました。ナタリーの言い分はそれは!それ!!という。

 自分が諦めずに何度も声をかけるし、プロムにも誘う。その上で君のパーフェクトになりたい。ノーマルになりたいんじゃなくて、彼がなりたいのは「ナタリーのパーフェクト」なんですよね。

Hey #2

Hey #2

  • Alice Ripley & Louis Hobson
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だからこそナタリーは救われただろうし、だからこその緊張感がずっと漂い続けるこの作品にほっとするラブロマンスと穏やかな空気を持ったヘンリーの存在で緩急が生まれるのかな、とも感じました。

 ダンともゲイブとも方向の違う、ヘンリーだから出来ることというのはたくさんありました。初日で見た時に、ナタリーを抱きしめる時に彼の手が震えているように見えて、でも同時に「言わなきゃ」と実に真摯に見据えている姿が「普通ではない」かもしれないヘンリーなりの、彼女への愛の言葉ですごく良かったです。

 イメソンというか、「こういう人なのかもしれないな」という部分でいうと、橋本くんが所属しているアイドルグループA.B.C-Zが歌う「灯」の歌詞のような人でもあるなぁと見終えてから感じました。

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 ナタリーがいなければ始まらない、そしてその上で弱いかもしれないけれど彼女の求む答えになりたい。寄り添いたい。側にいたい。

 彼の中で「ぶれず」にいて、諦めないヘンリーの粘り勝ちというか、真摯さが届いて、ラストシーンにつながったのだろうとも感じます。

 お芝居でいうと、いつも見ている橋本くんよりどこか幼さがあってキーが高かったです。喜怒哀楽がはっきりしていて、ブロードウェイならではの動きの大きさもあって、毎回「おろしている」タイプの橋本くんですが、今回は歌の数がこれまでと比較にならないほど多かった分技術的な部分と、キャラクターとの寄り添いと非常に大変だったんじゃないかなぁとも。

 初日の感想でめちゃくちゃガッチガチにご挨拶をされていて「しゃべるんかい」と昆夏美さんにツッコミ入れられている空間はどこかホッとしているようにも見えました。連日「難しい」とずっと話していた彼ですが、少しずつでも彼のお芝居を楽しみにしている人がいて、実感を得てくれたらいいなぁと願うばかりです。

 ただ、どうしても本業ではない分お歌に関しては他の皆さんと比べてしまうと、なところはあったと思います。それは音楽を「学問」として認識していない、フィーリングで動いている(五線譜などが読めないで進んでいる部分もあるので)からこそのところや、声量の部分とか、諸々の事情はあるでしょう。ファン欲目ではあったとしても「同列」と言われるとやっぱりやっている内容の違いみたいなのは其々にあって、ミュージカルの世界でやる難しさは感じられました。

 しかしながら、ヘンリーというキャラクター性、まっすぐに向ける感情(悪く言えばナタリーがどうだろうと関係ないという猪突猛進さ)など、橋本くんが作り上げた「ヘンリー像」はすごく良かったです。私は橋本ヘンリーの「ほっとする温かさ」と「それでいて他人の意見を求めていないところ」の二律背反性が好きなので、舞台を重ねて行く中でどんどん良くなって行くといいな。

俯瞰する医師という存在

 新納慎也さんのお芝居は日本文学の旅ぶりなのですが、ひょうきんな部分と、さらっとこなしつつも粛々と「外野」として接しているところが印象的でした。

amanatsu0312.hateblo.jp

 

 この作品におけるそういった「世間」の代表というか、世界とつながっている存在は医者だけなので、彼女たちを導きつつも医者では救いきれない部分は確実にあり、ピンポイントに探そうとしている部分も多くありました。

 ダイアナが治療を拒む流れや、世間的なイメージ(精神科医における印象ってさまざまですよね)をはらみつつテンプレート的な部分以外もケアしているように見えました。それこそ、ダンへの対話が必要だと医師を紹介することは他の誰でもない彼にしかできないことですしね。

 ナタリーにはヘンリーがいて、ダイアナにはダンとゲイブがいるけれど、それだけでは駄目だった分、動いてくれる装置的な役割もしていて(それこそうっかり彼が息子の話してないの?!と言わなければ彼女は知るよしもなかった)医者~~!!しっかりしろ~!!という部分もありつつ、ダイアナの治療を諦めることがなかった彼のおかげもあります。粛々と、見えないけれど相手もまた「血の通った人間である」ということを示唆してくれるようなお芝居であったように感じます。

 本作における「対話することの重要性」を医療的に・学問的に訴える存在として、メスを入れる存在として言葉にしていくことで実態が少しずつ見えてくるキーキャラクターでした。

 他のメンバーがカラフルな中で、医師としては真逆であろう「何者にも染まらない」漆黒の衣装なのも見てて印象深かったです。ブラックジャック先生かな……?

ダンの「耐える」「待つ」と「依存」との間

 岡田浩暉さんのダンはどこまでも「待つ」「耐える」の人でした。

 ダン自身が治療をしようとダイアナを支える一方で、同時に息子のことを向き合おうとできないまま(死んだことを受け入れながら、それでいてどこか遠くに心を置いてきてしまったようにも見えます。よく言えば客観的ですが…)にいます。

 けれどダンは自分の思ったようには絶対いかないし、娘も妻も理解しきれない部分でグラグラとしています。あのとき誓ったものは確かにあるのに、狂っているのはもう自分なんじゃないかと思うほどに。

 ダンは彼女に対して「愛」はあるし、支えたい気持ちもある。一見すると「少し離れてみてもいいんじゃないかな」と思う部分もありますが、それを彼は選択できない。選択しない。息子と向き合わない、息子の名前を呼ばないことで「息子」を小さな箱に閉じ込めて記憶の片隅においやって、その悲しみを受け入れていないからこその、ダイアナに依存しているぶん、「彼はいない」という歌へのシビアさというか、そうなんだけど、そうなんだけどな!!という気持ちにもっていかれます。

 息子のことを妻に向き合わせず記憶を追いやろうとしているのは「自分もそのほうがいい」からなんでしょうが、それでは根本的な解決にはならない分、彼に対しても治療が必要だと、対話をすべきと医師も判断したのだろうとも感じました。

I Am the One (Reprise)

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 最後に「ガブリエル」とゲイブの名前を呼ぶことでの、彼自身が悲しみを受け入れた上で「向き合っていく課題」であり「天使(もういない存在)」を見つめるというのは救済を求めているようにも見えました。と、同時に治療していくのに時間がかかるだろうなあと(一見すると娘とパートナーと一緒にご飯を食べている姿から気づきにくい部分も多そうですし)。

 彼を通して見た「ゲイブ」は穏やかですが、どんなふうに見えているのか。耐え続けた彼と一緒に唄う「I am the One」は彼女への喪失なのか、それとも自分の依存先の喪失なのか。いろんな感情がもうぐっちゃぐっちゃになっていることが分かるからこその「見えない続き」が少しでも平穏で、少しでも明るいものであったらいいなぁ……なんて願うばかりです。原作劇伴に「ハンサム」と書かれていたのも含めて「ハンサムな人だからって”普通”とは限らない」という部分もかかってるのかなあとか思いました。

「next to normal」から考える”普通”へのあれこれ

 別件ではありますが、「おはなしがハッピーをうむっピ」というハッピー星からやってきたタコピーを描く漫画「タコピーの原罪」の最終回が3/25に迎えました。ちょうど初日ですね。

shonenjumpplus.com

 終わり方に賛否分かれるところだと思うのですが、普通が欲しくて誰からも与えられなかった、誰も導いてはくれなかった子どもたちが「生きるのは地獄だけど、それでも一人ではない」という、ある種普遍的ながらも、普通が故の美しさみたいなものがありました。

 普通ではない彼らが欲し続けた普通の友達と普通の家と普通な展開。皮肉を煮詰めまくり、その上で寄り添わせた形で私は好きです。

 この「タコピーの原罪」の最終回がちょうど奇しくも本作N2Nの初日と被っていたこともあり、見終えて滾々と考え続けている中でどちらにも言える「普通」って何だろうと考えるきっかけとなりました。

 作中でもそうですが「普通」は非常に概念的で、ふわっとしています。あなたの普通と私の普通は違います。それこそ靴紐を結ぶのは右か左か、とか。例えばルールのように明確に出ているものではないぶんだけに、非常に困りますよね。

 これはアメリカが舞台ですが、日本だと「平均」「普通」をより求めるからこそ難しい。

 「普通の幸せ」を考えた時に、ダイアナは母親が自分と同じで非常に血気盛んだったことを振り返ります。PTAを追い出された話を鑑みると正義感が強いのかはたまたダイアナと同じものを抱えていたのかもしれません。家庭環境についてダンの描写もありませんでしたが、結婚式がいわゆる授かり婚からの「駆け落ち」であったことを考えると、彼もまた決して言葉にはでていないものの背景は「普通」ではないのかもしれません。

 それこそエヴァンゲリオンの加持さんとミサトさんが傷をなめ合うように寄り添ったという話を思い出しました。アダルトチルドレン同士で結びついたものがあったのかもしれない。

(映画版で色々「ウッ……」となったのと同時に最後の最後でのミサトさんのセリフにぶわっとなったのは言うまでもない。猪突猛進殴りかかるスタイルのミサトさんは健在で安心しました)

 

 そんな二人が組み合わさって「普通」になろうとして、もがいて、生まれたゲイブも「普通に育って」ほしかったけれど、そうはならなかった。この時点で目指していた普通が瓦解し、崩れていく。目指していた山が遠くて、果てしなくて、その上で「落ちていく」につながってしまう。

 同じ悲しみが4カ月続くのは「普通じゃない」というけれど、息子を失って4カ月で耐えられるわけないだろうという言葉は実にそのとおりで「ガイドラインにすぎない」という医師の言葉に対して「普通って何?」というようにどんどんダイアナはぐるぐるしていきます。

I Miss the Mountains

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 ダイアナもダンも、欲しかったのは「病めるときも健やかなるときも」の側にいて、平穏で、でもちょっと退屈で、そんな「普通」だったのかもしれません。「普通」を演じていて、誰が狂っているのかわからなくなっていく。

Who's Crazy / My Psychopharmacologist and I

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 彼らの弊害はナタリーに皺寄せが来るんですが、ダイアナはダイアナで「彼女が生まれて抱くことができなかった」という言葉を放っています。これにどんな意味があるのか考えました……ら、ちょうど漫画で「妊娠したら死にたくなった」というものをネット配信でお見かけしました。

 

 

 世の中には産褥期精神病*2というものがあって、ダイアナがそれだったのかもしれない。もちろん可能性の話で、そうじゃないかもしれない。

 このことをナタリーが知るよしもないのでしょうが、だとしても、重ねてきた罪悪感と、痛みと苦しみで揺らいでいた「彼女の人生」なのかなぁとも感じました。

 

 だからこその「next to normalでいい」というナタリーの言葉には突き刺さるものがありました。幸せか、そうじゃないかというのは当人たちが決めることで外野がどうこういうものではないです。

 ただ、その「普通」というカテゴリーは誰に向けられたものなのだろうというようにも考えさせられていて、「隣の芝生は青く見える」というように一人ひとり、家族ごとに、接している人たちで、もう何もかも”普通”は違って当たり前で、でも「普通でありたい」という気持ちもまた同様なのでしょう。一人は嫌だし、群れで生きているからこその「周りと同じじゃない自分」への葛藤もまたあってしかりでしょう。

 ナタリーを受け入れられたヘンリーの家庭環境。ダイアナと一緒になりたいといったダンの状況。どれもこれも観客から見たら近いのか遠いのか分からない、それもまた「受け取り手ごとの普通」によって違って当たり前です。

 普通になりたい、と願いながら、思い描いてた幸せとは違ったとしても、日々はつながって行く。続いて行く。そんな「普通の隣」たる作品でした。

 

 傍目からしたら、私の家も、私自身も「普通」じゃないかもしれない。けれどそこで「生きていて」「育っていて」これからもその経験は地続きで続いていく。そんなふうにも改めて思えるものでもありました。だからこそ「普通の隣(next to normal)でいいのかもしれない」というナタリーの言葉は救いでもありました。

 東京千秋楽後、海宝さんのFCで生配信があったのでそれを見たのですが、改めてすごいカロリー消費するお芝居だったんだろうなあ……とつくづく感じました。特にゲイブは見えるけど見えない存在だし、やりながら模索しながら演じるの大変だろうな……とも。パンフレットで昆夏美さんが「海宝さんは何でもできちゃう!(笑)」というようなことをお話していました。が、改めて海宝さんのコメントに大変だったんだろうなあ……という印象もすごく感じました。東京千秋楽、お疲れさまでした。

 チームごとに全然空気が違うからこそ、両方見てみたかったな~~と心から思えるお芝居で、また同時にかわいい・かっこいい・歌がうまいだけではない「なにか」がもらえたこと。とても良い経験でした。残りの公演も楽しみにしています。

 円盤になってほしいという気持ちと、生で見るからこその意味がある作品でもあるな、という気持ち、そして「じゃあせめて音源だけでも……音源だけでもください…!!」というジレンマもたくさん生まれている次第です(笑)

 

 

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*1:最後の審判の時に死者を甦らせるのは彼の仕事

*2:産褥精神病について | メディカルノート

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