ということで、橋本良亮キク/河合郁人ハシの「コインロッカー・ベイビーズ」が終わり、今度は橋本良亮ハシ/河合郁人キクという組み合わせでのコインロッカー・ベイビーズがはじまりました。
前者の組み合わせは大阪・富山を残す形となっています。
お芝居としても折り返し地点にあり、残りの最後までしっかり走り抜けてもらいたいものです。
ということで、今回は入れ替わったWキャストとして初演の組み合わせのお芝居を初日に観劇した感想です。
弊ブログではコインロッカー・ベイビーズについて、【見る前/橋キク・河ハシ/橋ハシ・河キク/舞台全部を通して見終わった後(千秋楽後)】という4つの記事として書いていこうとしています。
再演決定に伴っての所感:
橋本君のキク/河合さんのハシ感想:
と、いうことで、今回は河合キク/橋本ハシでの感想にいきたいと思います。
音楽劇として
今回の音楽・作曲担当をされているのが堂本光一君の「SHOCK」、また、ABC座などを担当されている長谷川さんということもあり、あまり「外部のゴリゴリとしたミュージカル」という印象は受けなかった初日でした。
演出がもともとの宝塚の方ということもあり、「宝塚感分かる」という部分も強く、そういう意味では「外部だけどそこまで完全に外ではなく、かといって内側ではない」という非常にラインの真ん中にあるような音楽劇として印象をうけました。
橋本くんのキク・河合さんのハシという組み合わせのときに感じたのは「ジャニーズ感がベースとしてよりある」というような印象。
それが良いのか悪いのかはまたさて置くとして(好みの問題なので)ベースが同じであるからこそ「どういった形として」作り込まれていくのかが興味深かったです。
初演と再演における変化
2016年の初演の際、橋本くんと河合さんは下記のようにインタビューで答えています。
ホームページを探し回ったりインターネットの海で泳いだ結果見つけたので今回の再演にあたり掘り起こすことにしました。出典はコインロッカー・ベイビーズのパルコのホームページから*1
――公演を楽しみにしている皆さんへメッセージをお願いします
小説のファンの皆さんの頭の中には、それぞれのハシとキクのイメージが既にあると思いますが、それを良い意味でぶち壊していけるような、自分にしか出来ないキクを演じたいと思います。
A.B.C-Zのファンの皆さんには、普段の河合郁人が見れないぐらいキクになりきりたいと思います。新しい河合郁人を楽しみにしていてください!
(上記URL・河合郁人氏のコメントより)
最初に注視したのはこの部分。初演の際、当時の彼らの出演作品をさかのぼっていくと芝居に対していわゆる「外部」(ジャニーズ事務所内ではないもの)への出演は少なかったのかなという印象です。そのうえで、コインロッカー・ベイビーズという作品に対して赴いていったわけですが…。
彼らの挨拶文を見ると「A.B.C-Zのファン」に向けての部分、「原作ファン」に向けての部分がはっきりとコメントとして残っているわけです。
芝居において「ここにいるのはXX(グループ)の誰それではない」という状況が私は凄く好きなので、できればそれが透けない形で、「見ていて、この俳優さん、そういえば、ああ、そうだわ、@@さんだったな」っていう形になったら万々歳な派です。
見に行く「きっかけ」はその演者だったり演出家であれど、最終的に作品にのめり込んでしまえば、それは私の「作品における解釈」とか「作品への満足度」が上がっていくのかな、とか。
という意味で彼らの意気込みが見えたのですが、実際蓋を開けてみて、今回感じたのは「役へのリンク」というか、重ね感が非常にマッチしていたということをあげたいです。
二人の掘り下げ方、解釈の仕方
橋本くんも前回の芝居が決まったときに下記のようにコメントしているのが印象に残りました。
――今回の役どころについてお聞かせください
ハシという役をやらせていただきます。
ハシは繊細な人で、キクがいないと何もできない・・・という役ではないんです。
それはキクの方なんです。ハシは東京に来てからも、なんやかんや生活出来ているし・・・。本を読んでいる時に、ハシは大人だなと思いました。
あと、ハシは歌がすごく上手い役。だから今回僕自身、歌もすごく頑張らなくちゃいけないんですよ。
お客さんにどう観られるのか不安もありますが、「橋本良亮」じゃなくて「ハシ」として観てもらえるよう、頑張ります。
「ハシは繊細だけれど、キクがいないと何もできないというわけではない」ということ。
すごくこのフレーズが橋本くんの解釈する「ハシ」という役柄についての解釈の基盤になっているように見えました。
また、それは河合さんの「キク」にも言えることです。
――今回の役どころについてお聞かせください
キクは自分の世界観をものすごく強く持っている役。かといって、クールとは少し違う気がするんです。意外にハシよりもヤキモチを焼く事が多くて、女性的な部分もあるのかなと思います。小説を読んで、そこのバランスが気になりました。
急に感情が爆発したりする役なので、そのメリハリがどう見せられるかというのが自分の課題ですね。
キクの自分の”世界観” という見方。同じ世界を見ているはずなのに見ている風景は人によって感じ方はそれぞれです。
その解釈の違いが芝居に形となって出たときの演じ方は大きく異なっているように思えました。
音楽として
正直初演の橋本ハシ/河合キクをベースに今回の音楽たちは追加されていたり、考え出されていると思うので、音を聞いていて「違和感なくスムーズに入り込んだ」のは今作の橋本ハシ/河合キクコンビでした。
歌としてハーモニーが調和されてこちらに届くとき、声質の問題もあると思うのですが、どちらも初見の上で「馴染んだ」というべきか……。それぞれの同じ曲を聞いた上で「こちらのほうが好き」「でも解釈はこっちのほうが好きかな」というものが出てくると思うのですが、自分の中で見ていて馴染んだのはこちらのほうでした。
橋本良亮の見る「ハシ」という生き方
橋本くんの「ハシ」というのは非常に繊細で、言葉の通り《ナイーヴ》という印象でした。
線が細く、気弱。今まではキクの影に隠れていがち。人と接するときにシンメトリーのように「暴力的で外に向けるキク」と「内側にこもるハシ」の二人はこの作品では「自閉症」と取り扱われています。当時の印象での言葉使いなのであえてカッコつけてますしハンディキャップとは違う《自閉症》というキーワードの描写の仕方であるのかなという印象。
橋本くんのハシは振り子のようにビュンビュンする、というよりも、内側に音が響くタイプに見えました。
体つきが大きな人なので、そういった男の子が口紅をさし、化粧をし、色気をふりまいて踊るという描写、腰つきというギャップ。
橋本くんの慟哭、壊れていく様は昨年「デストラップ」で私は見ていたので、だからこそ「細い芝居」が似合うなと感じました。
デストラップの感想は馬鹿みたいに長い&当時の自分の振り切れたテンションに読み直すたびにもうやめてあげて……ってなっているのですが。まぁ参考として。
デストラップのとき「前回のハシもゲイだったなあ」と知人の言葉があったので、読み直してみるとそうだな~と。
ただ、ハシとクリフォードは全然異なる性質を持っていて、私の中で、彼が演じたハシは「ゲイ」というよりも、「誰かに必要とされたい、求められているからそちらに転じられるタイプ」なのかなと思いました。まぁ母親のこともふくめて女性、それも若い女に対してはあれなんですが。だからパンセクシュアルに近いのかな。後は自らを自虐するという意味で使っているようにも感じる。
芝居を見て、良いなと思ったのは1幕の終わりのシーンで、キクの狼狽、慟哭に対してのところ。
あのシーンって、「あのとき動いているのはキクの時間だけ」であり、他の人は固まっています。橋本くんの場合、キクが慟哭するとき、ハシもまた動いています。
すごい顔で、瞳孔を開き、「荒々しく、けれど自分を引っ張ってきていたキク」が崩れ、慟哭するさまを見て、そして目を背ける。世界への拒絶。現実への拒絶のように見えて、「ハシの見えている世界って何なんだろう」って考えさせられました。
”静かなる狂気”っていうのが似合うというか。
その上で最後のシーンでどういう解釈をするのか、どういう風にハシをするのかっていう意味で天啓のように「生きる」といった言葉について、見ながらううむ……ううむ…と考えたり。
なんというか、ナチュラルですよね、彼。こういったお芝居のときは特にナチュラルさが出ていて、地続きの世界をさらりと歩いているかのように芝居する。それが見ていて良いなと思う所。ゆえに彼にストレートとか、がっつりの「芝居」にチャレンジしてもらいたいなあと思うわけです。
河合郁人が積み重ねて作り上げた「キク」という男
河合さんのキクは「Sっ気がある」というように私の周りでは言われていたのですが(事前に見ていた人たちの意見です)蓋を開けてみると、私は河合さんの普段の軽快なトークの印象が強く、が、ゆえに「こういう荒々しいキャラクター」とのマッチ感というのが新鮮でした。
河合さんのハシでの印象と、そこから両極端な立ち位置にいる「キク」は、彼の言い回しでいうところの「ハシきゅん/キクきゅん」での温度差を強く感じました。
もうずいぶんと昔の作品になるわけですが「滝沢革命」で出てきた河合さんのキャラクターに近いものを感じました。当時の映像を見てみたらどちらかというとゴリゴリいくぜ!なキャラですね。
キクに対して「大人」ということを意識したのかなという印象があり(また、これをいうと逆にハシではとても「幼さ」を彼の中では意識したように感じました)、例えばタクシードライバーのシーン。そこでの「よお」という挨拶。乗る?という声のかけかた。
また、そこからの「お母さんが死んだ」の、キクの暴力的で外側に放つ人、諸葛孔明の羽扇ビームを常に発していそうな*2人なんですが、それでも「お母さん」と和代を呼ぶところが良いというか。ひとフレーズずつが印象に残ったかんじです。
また、河合さんのキクは「自分の欲しいもの」がなにかを分かっている感じがしました。
それが倫理をぶち壊すものであったり破壊衝動的なものだったとしても、自分の見据えた「コレがほしい」「自由を求める」がゆえの貫き方みたいなお芝居をされているなという印象。
非常に一音一音をはっきりと発声されているからなのか、どう表現したいのかな、というのを明確に出しているのかなぁとも。
両者と接する上で感じた「まわり」の変化
演じる人が変われば一緒に接する機会がある人達の認識もまた少し変わって見られるのがWキャストならでは。
ハシに対してのニヴァの感情は「愛情」であり、「大切」であるわけで、ハシにとっての「自分の、キクのものでもなく、自分だけの所有物」という認識であると同時に「愛している」と言葉にしているものなわけです。
ハシとニヴァは傷を持ったもの同士で、ニヴァはすでに結婚に一度失敗し、自分の人生を「乳がんゆえに胸を摘出した」人です。
そのうえで、いわゆる《普通の幸せ》を諦めているからこそ、Dが連れてきたハシ(シルビアさんは「ハシとDの関係をおそらくニヴァは知っていた」と解釈しています*3)と伴になる。彼女にとっての「もう無理だと思っていた幸せの1つの形」。
で、橋本くんのハシの場合は「私がそばにいたい」から、そばにいる。3歩下がってそばにいる。河合さんのハシの場合は「そばにいてあげなくては」(ニュアンスがここ表現が難しい。伝わっているだろうか)が結構表に出ている気がしました。
私は河合さんのハシは「ピュア」、橋本くんのハシは「ナイーヴ」という印象を受けました。これは俳優の解釈によって違うからこその面白さですね!
ニヴァと接したとき、ニヴァが同じようにハシを見つめているけれど彼女が感じたものは「母性」「女としての感情」「使命感」いろんなものがある中で、どこが強いのかな、と考えたと其々のハシに向ける感情の強いものはこれかな、という印象です。
例えるならば、同じ「緑」という色を表すとき、「黄緑色の要素が強い緑」なのか、「青の要素が強い緑」なのか、彩度や明度が違う、けれどどれも「緑」であるような。
これはDにも言えることで、同じように話をして、同じ振り付けをしているのに、良くも悪くも「大人」で「ビジネス」考えている男だからこその視線というか。ハシについて見ているものは同じ打算要素でありながら、ちょっとしたフレーズ、ちょっとした呼吸、ちょっとした目線でああ、こんなにも違うのか、と思いました。
また、キクと接するアネモネにも同じことが言えるでしょう。
芝居に関しては3番手になる立ち位置のアネモネも、キクの演者が二人とも主としての意識する部分が違うことで、振る舞いが”同じアネモネ”でありながら全く違います。
完成披露のときに山下リオさんは「アプローチが全く異なる」ということをお話されていますが、例えばキスシーン、例えば最初の出会いの仕方からの違いを感じ取れます。
テレビジョンがインタビューをしており、それが興味深かったです。
――それぞれの印象はいかがですか?
橋本さんはすごくクールな感じのイメージがあったんですけど、意外と人懐っこいです。河合さんは、「あっ、この人も人見知りだ!」と同じ感じでしたね(笑)。私もよく人見知りするので、分かります。
2人のお芝居の作り方が面白くて。河合さんはめちゃくちゃまじめで紳士なんです。情熱がメラメラ燃えているのが、キクっぽいなと。橋本くんは天才肌タイプというか、ヘラヘラしていて急に爆発するんです。
2人ともアプローチの仕方が違うのが、見ていて面白いなと思いました。河合さんは年上ですし、包容力のあるキクがいて。私自身の芝居も、2人のキクによって違うんだと思いました。
実際に形になった二人のキクを見て、橋本くんのキクとアネモネ、河合さんのキクとアネモネでは、例えば鰐の国の歌の際、アネモネがうきうきとはつらつとしながら、自分のことを歌うとき、まったく違う顔をします。キスシーンのときも扱いかたが違うのが面白いですね。
橋本くんのキクとアネモネはどこか「同級生のカップル」感がします。クールぶっている男の子と、きゃっきゃするギャル(語弊がありそう・笑)というか。はいはい、と聞きながらも見るものが同じポイントというか、二人共が「若々しい」「青々しい」というか。
で、河合さんのキクとアネモネは「3年生の先輩と1年生の後輩」とか、「年齢差があるカップル」のようなかんじでしょうか。
「どこだ、どこにある鰐の国は」というセリフのとき、ほとんど話を適当に受け流しているかのように反応していたキクが返してくれて嬉しさを爆発しているアネモネの顔を見るとどちらにしても「好き!大好き!直感的にこの人だと思った!!!」っていうのが強いのに、違う。
アネモネが上に上がったとき大の字になってベッドから見ている河合さんのキクはそれでも視線がアネモネを向いていて、動きに合わせて動いているのが「アネモネのこと可愛くてしょうがないんだな~」って思えるし、橋本くんのキクは歌っているアネモネにわずかに足や手でリズムを刻み反応している。
ちょっとだけの違いが、すごく面白い。
同じく荒々しいキクだけれど、アネモネに対して「包容力」で接するキクと、「優しさ」が見えるキク。どちらもキクで、山下さんが演じているアネモネが感じる「好き!!」がどういう風にそこで変化するのか意識してみると「ああ~~」とちょっとしたアハ体験できます。
ニヴァの言い方でいうと、橋本キクに対してアネモネは「一緒にいく!同じ歩幅で一緒に歩いていく!」と自分も一緒に歩いていこうとしているかんじで、河合キクに対しては「私がついていきたいからついていく!」みたいな、そんな印象です。
また、「ありがとう」とキクが今作に於ける唯一のお礼を言うシーンがあるのですが、その時の言い方がふたりとも違うのですが、ゆえにの反応も同じなのにニュアンスが違って受け取れる。ぶっきらぼうな男の「ありがとう」が純粋なもので嬉しいのか、きつく見えるけれど優しさが孕まれているからこその「嬉しい」なのか。
人の心が分かる人だからこその受け取った「ありがとう」がピュアなものだからこその違いが面白い。
そういう「違い」が面白い。正解がこちら、というわけではなく、「違う、ゆえに比較」でもなく「それぞれが考えた形」という意味で与える変化は大きいという話です。
個人的な話だけど、原作への印象
個人的に「わ、分かる~~それな~~」とオタクあるあるの表情をしたのは河合さんの初演での作品に対する印象でした。
――原作の印象をお聞かせください
この表現が合っているかわからないのですが、正直、気味が悪かったです。最初、読むのを止めようかと思ったんですけど、読み進めるうちに、小さい頃の冒険する場面だとか、大人になって母親と出会う場面にワクワクしました。読んでいるうちに頭がマヒしてきて、血で雪が真っ赤に染まるシーンは「怖い」よりも「綺麗」って思ってしまう自分が居て、村上龍さんの小説には人間を色んなものに変えられる力があるんだな、と読み終わった時に感じました。
(初演時の河合郁人氏のインタビュー)
原作については又吉直樹さんがアメトーークで話題にしたことからか、ブームが再来しました。
これに伴い私も読み始めて当初の印象は「気持ち悪い」「理解しがたい」「そこまでエロ・グロである必要性なくない?」「偏見の塊だらけじゃないか…oh…」などなど、割とここで書くからマイルドにマイルドにしていますが、言いようのない気分になりました。
ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」ぽさというか、なんかこう……「時計じかけのオレンジ」とか、「フルメタル・ジャケット」等を見たときと同じような疲れた……疲れた……となる感覚があったんですが(笑)
ドストエフスキーの罪と罰、本で読んで「む、無理~~~しんど~~~」ってなったのですが(笑)、手塚治虫の罪と罰だと今度はそれはそれで「なんか受けた印象があまりに違いすぎない!?」となったり。ロシア文学のあのへんのどんより感しんどい。
で、「この言い表せない、言い表したくないしんどい感じ…!誰か…誰か…!!」ってなって検索したら原作の書評をされている方をお見かけした。めっちゃわかる、ってなったからぜひご覧頂きたい。
ちなみにフルメタル・ジャケット初見のときの癒やしは「ファミコンウォーズの”かーちゃんたっちには内緒だぞー”ってこれ元ネタか!!!!」でした。
ちなみに後々のオレンジレンジのビバ★ロックという曲にも出てくるんですけれどね。NARUTOのEDです。
このEDめちゃくちゃ好きだった記憶がある。懐かしい。
それ以外のフルメタルジャケットについては、もうひたすら「うっ……もう嫌だ…なぜ私はこの映画を見ているんだ……」という(笑)いや最終的に見ていろんな感情が噴出されたので個人的には結果としてプラス要素はあったんですが。あれをトラウマになる人がいるのも分かる。
時計じかけのオレンジは小栗旬さんが舞台化してましたね。
これトラウマにならない人いるの凄いと思うわけです。拍手するクラスだと思う……。なぜ舞台化しようとしたのホリプロ…って思ったけれど、映画で見て「うっ…雨に唄えばめっちゃトラウマ……」ってなったんですけれどそれを小栗旬という俳優がチャレンジしようとする心意気はすごいと思うし、「なんでやろうと思ったの!!!!!!」とかいいながらも、でもやっぱり振り返ってみて「行けばよかったかな~~」ってなるというか。
やっぱりいけばよかった!!!!(笑)
話が逸れましたが、今回の原作となった「コインロッカー・ベイビーズ」についての印象はまさに今あげた2つと一緒で私の中では「うっわ……うっわ……oh…」と何度か本を閉じて外に出てアニマルセラピーしてほしい…って思ってしまう程度にはグッタリしました。
キクの独特の世界観の中にあるくせに倫理観が当初はちゃんとあったはずなのに崩れていくところも、ハシに対しての恐怖概念とそれでも誰かに縋りたいという部分とナイーヴさと、アネモネの考えに「お前何ナチュラルに自分は選ばれた人間と思ってんの…」という流れで、まぁ誰にも考え同調ができず(笑)
東京が腐敗しきった世界である状況なのも「なんでや……」ってなったし、彼らの生きる「東京」がどうしてそんな仄暗いのか、どうしてこうなのか、”どうして?”がとても強かったので、だからこそ河合さんの言う「当初は気持ち悪いと思った」に首がもげるくらい「わ、分かる……」ってなりました。もちろん彼が「気持ち悪い」と抱いた感情と、私が「無理~~~~」ってなった感情は違うと思いますが。
その上で、ではなぜ読み勧めていたのかは自分でも理解出来ないし、世間にとってウケているからといって自分にとって「良い」と思うのかは違うわけです。皆がみんなハルキストではないし、皆が皆ディズニー大好き!というわけではないのと同じように「世間の評価=自分の評価」である必要はない。もちろん”自分が嫌だと思ったから叩きまくって良い”というのにはまったく賛同できないけれども。
読み進めていくと感覚が麻痺して、「おかしいのは世界の方だ」と訴える彼らの行動にはいっていき、ちょっとした描写であまり驚かなくなっていく。
私の中では「一気に読むのは非常に胃もたれを起こすし胃潰瘍起こしそうだった」と思うし話が詰まっている作品なので、咀嚼するのが大変でした。一気に読み込もうとすると現在進行形の自分の倫理観とか価値観を脳みそ書き出されてぐるぐるミキサーでかき回されてよいしょっとい!!ってノリで戻されるような。
戻されてももとに戻らないし「なんだこれ…なんだこれ…」ってなるし。そのうえで読みすすめて、しんどいしんどいいいながら進めていくと見えてくる”何か”があって、その”何か”を彼らは伝えようとしているのかなあとは思います。
まぁその「何か」が「何」なのかは私にはわからないし、読解力がないだけかもしれませんが!!(笑)
なんか、この作品そのものが「ダチュラ」なのかなとは思う。読み進めるまえの「嫌悪感」が段々と麻痺して、そして「新たな生命体の誕生」になっていくというか。≒新たな思想、思考を自分の体内に宿し、そして壁を上った後なのかとか。そういうかんじ。
ということで、全体の感想、所感はおおむね前の記事で書いてしまったのであんまり書くところが少なくて申し訳ない……もっといろいろ書きたかった…。
一応手元に過去のコインロッカー・ベイビーズのパンフレットもあるので、そのへんも見ながらこうなんだろうな、とかここが違うんだろうな、とか感じ、もう一度「こうやって演じた」「こうやって自分の中で飲み込んだ」が少しでも自分の中で彼らが放つものを見、落とし込んでいけたらと思います。
最後まで、しっかりと怪我なく、事故なく走り抜けていってください。
千秋楽まで走りきるまでにどんな風にブラッシュアップして、どんなふうに変わっていくのか…興味深く見守りたいです。